週刊誌の見出し的にいえば、小沢一郎民主党代表の「燃料補給反対、武装参加OK」が混乱を招いています(笑)。
これに関連する話を丁度一ヶ月前(9月13日)にジュンク堂で姜尚中さんを相手にいたしましたので、紹介します。
■ネオリベ化が国民を引き裂く!?
○宮台 姜さんの話につなげると、政治体制を評価するときに重要な軸が3つあります。第一はネオリベかコーポラティズムかという軸。優勝劣敗主義か談合再配分主義かということです。第二は権威主義か市民主義かという軸。偉い奴が言ってるんだから聞けというのか、参加によるチェックに開かれているかです。第三は対米追従か対米中立かという軸。
この3つの二項図式を掛け合わせると2の3乗で8つの類型が得られます。それによって日本だけでなく世界各国の政権をマッピングできます。日本にあてはめると、戦後ほぼ一貫して「権威主義的コーポラティズム&対米追従」でやってきました。ところが郊外化や都市化で地域の共通前提が空洞化したことで、権威主義がうまくいかなくなります。
「建前と本音」という意味が変わるからです。昔は「ルールはそれとして、みな分かってるだろ」とウィンクする類だったのが、「誰かがどこかでウマイことやってんじゃないか」という疑心暗鬼の類に変わり、権威主義の腐敗堕落に人々が怒りを抱くようになります。ところが、ここで巧妙な抱き合わせが生まれます。それが小泉流の構造改革なのです。
不透明な権威主義に怒ったはずなのに、巧妙にコーポラティズム批判へとすり替えられ、ネオリベ翼賛方向に引っ張られてしまった。20年以上前にネリオベの嵐が吹いた欧州の先進各国は今日では例外なく「権威主義的コーポラティズムから市民主義的コーポラティズムへ」という流れなのに、かくして日本だけ「20年遅れのネオリベ」に堕してしまった。
それでもまだ「市民主義的ネオリベ」になるのなら良かった。でも行政の情報公開もまともになされず、何よりも市民主義的なチェックをエンパワーするべきマスコミが、記者クラブ制度に象徴されるように最大の権威主義の砦という体たらくだから、結局は「権威主義的ネオリベ」という、20年前の米英にも劣る最悪のパターンになってしまいました。
ちなみに米国の軍事力にべったり依存した「平和主義」を唱導し、財界と一体になって正規雇用の利益のために「非正規雇用化」を放置した労働組合が典型ですが、旧社会党的な左は、旧来の自民党と同じ「権威主義的コーポラティズム&対米追従」です。他方アジア重視だった経世会は相対的に「権威主義的コーポラティズム&対米中立」の方向でした。
これに対し、小泉改革に原型を提供した十五年前の小沢一郎が、当時は「市民主義的ネオリベ&対米自立(国連主義の重武装)」の方向でした。小泉純一郎はこれを翻案して「市民主義的ネオリベ&対米依存」を提唱しました。しかし小泉の提唱とは裏腹に、現在の日本が陷っているのが「権威主義的ネオリベ×対米依存(アジア軽視の重武装)」なのです。
これらとは別に、今の社民党は無自覚に「市民主義的コーポラティズム&対米依存(護憲平和)」です。護憲平和の虚妄に反対する私が提唱してきたのが、欧州的な「市民主義的コーポラティズム×対米中立」。対米中立には「軽武装・依存」から「重武装・自立」へのシフトが必要ですが、重武装化には、周辺国の怨恨感情に対する手当てが必要です。
従って、私が民主党に推奨する「市民主義×コーポラティズム×対米中立」における対米中立は「アジア重視の重武装化」の意味になります。だから、テロ特措法について私の推奨したい方向は、現行の「アメリカのケツを舐めたガソリンスタンド」ではなく、最終的にはNATOが国連決議を正統性根拠として行なう自衛権行使であるISAFへの参加です。
「人は絶対に死なないけどアメリカのケツを舐めるだけの活動」より「人は死ぬかもしれないけど国連の大義に従った活動」が良いのです。ここで障害になるのが、戦後左翼的な護憲平和、つまり事実上自民党と同じ対米従属図式です。これを克服するには、誰もが認めるリベラル勢力が、対米中立=アジア重視の重武装化を推進しなければいけません。
これは、9条改憲が国民意志という一般意志の集約たりうるように、安倍晋三の如き「マスターベーション右翼」でなく、誰もが認めるリベラル勢力が主導する営みでなければならないのと同じ事柄です。今回の安倍退陣騒動で、北朝鮮問題のみならず、9条改正問題においてすら、「マスターベーション右翼」が障害であることが、広く知られたはずです。
さて姜さんのご発言どおり、社会がネオリベ(新自由主義)化すれば必ずアノミーが生じます。アノミーが生じれば必ず、これを埋め合わせるための新保守主義(ネオコンというとアメリカの特定勢力を指すのでこう呼びましょう)の政策が押し出されます。靖国に断固参拝する、北朝鮮への断固決然路線を提唱する、道徳教育を推奨する、などなどです。
新保守主義と呼ばれるのは再帰性のせいです。マンハイムが言う通り、保守主義とは近代主義の一種で、人間の可謬性ゆえに敢えて伝統主義を選択するという再帰性(反省性)があります。新保守主義の場合、保守主義のような革新主義への「対峙」でなく、福祉国家政策(革新主義)への対峙である新自由主義・がもたらす副作用の「埋め合わせ」です。
断固参拝路線や、断固制裁継続路線や、道徳教育復活路線は、機能的に見れば確かに新自由主義がもたらすアノミーの「埋め合わせ」という意味で、ネオコン的だと言えます。でも、実際にそれを支えているプレイヤーのメンタリティを見ると、もしかするとそんなことを意識すらしないベタさです。安倍などはまだ左への「対峙」だと信じてますから。
■来るべき保守のかたち
○宮台 日米政府が九六年に日米安保共同声明にかかわる協議を行い、その成果として日米安保共同声明が出されます。そこで周辺事態法を改正して、自衛隊にアメリカ軍の兵站(ロジスティクス)を担当させ、補給部隊という国際法上の戦闘行為の役割を負わせました。冷戦体制が終わったのに、アメリカの家来として日本は生き残るというスキームです。
私はこれはオカシイと思っていました。だから九九年の第一四五回通常国会のとき、このスキームに沿って国旗国歌法、盗聴法、周辺事態法などの法案が出され、どんどん通過するということがあったとき、左翼の集会に呼ばれたら、みな「国家権力の横暴」とか言ってたので、私は「そうではなく、これは国家権力の弱体化なのだ」と申し上げました。
要は役人たちが「アメリカについていかなければ生き残れない」という妄想的スキームを自ら描き、スキームが要求する船の中で一番いい座席を取ろうと争奪戦をしているだけで、そこに企業も群がっていると。そこにはもはや国家百年の計はない。官と民よる「国家を草刈り場とする利権争奪戦」があるだけです。民には外資も入ります。
もう少し細かくみると、利権の性質が変わりました。カネから情報へ。土建屋の利権から情報管理行政の利権へ。全国総合開発計画的なものから、Eガバメント構想的なものへ。かくして、基礎年金番号化や、住民票コード化や、免許やナンバーへチップ埋め込み化などが、厚生労働省(旧厚生省)や総務省(旧自治省)や警察庁によって図られたわけです。
有事の際の国民管理の要求がアメリカからなされているという正当化図式が使われました。セキュリティとガバナンスです。でも八〇年代半ばから全国各都市をフィールドワークしていた私には、既に九〇年前後からドメスティック(国内的)にセキュリティとガバナンスが問題になっていたので、官僚たちの正当化図式がすんなり通ったのだと思えます。
八〇年代半ば以降、地方を回ってテレクラのフィールドワークをしてきましたが、九〇年代初めのバブル崩壊前後からシャッター商店街が目立ちはじめました。その五年前ぐらいから、地域の風景が変わらないように見えて、実際には隣の家が何をやっているのか分からなくなっているということも耳にしました。だからテレクラが流行っているのだ、と。
小泉改革の十年以上前から地方の空洞化が進んできました。第二次竹下内閣の下で日米牛肉オレンジ交渉が決着し(八八年)、農産物自由化に舵が切られました。文部省のTRON配布計画を潰されてウィンテル的なものを導入させられ、大規模店舗規制法を緩和させられ、年次改革要望書スキームを押し付けられ、そのスキーム上で建築基準法改正や郵政民営化が行われました。すべてが地方の空洞化を押し進める機能を果たしました。
こうした変化の中で、小泉政権のずっと前から、米国流のグローバル化に棹差さないと日本は生き残れないと経済界がシビアに認識するようになり、意を受けて大掛かりな構造転換が図られてきまた。そうしたラインの中に位置付けられる橋本行財政改革は、消費税率アップで頓挫したものの、小泉改革が利用したリソースの大半はそこで作られました。
改めて保守とは何かについて整理してみます。先ほど申し上げた、ネオリベなのかコーポラティズムなのか、権威主義なのか市民主義なのか、親米なのか非親米なのか、という軸を思い出しましょう。小泉改革の端緒が橋本行財政改革だったと言われますが、間違いです。もともとのプロトタイプは小沢一郎の「日本改造計画」的なものだったのです。
小沢の「改造計画」は、ネオリベ化と、市民主義化と、対米中立化(国連中心主義)の組み合わせでした。ネオリベ化はアメリカが八〇年代後半から強く要求していたもので、牛肉オレンジ交渉などは小沢がまさに「戦犯」です。その意味で、ネオリベ化と対米中立化とは不協和になりやすいですから、「改造計画」は洗練されていませんでした。
しかし、この洗練されていない「改造計画」を小泉がそのまま継承してネオリベ化と対米中立化を同時に図っていたら、小泉政権は全く別のイメージになり、改革の優先順位も全く異なるものになったはずです。当然ながらテロ特措法やイラク特措法はあり得ず、むしろアジア重視の外交を掲げることによるミリタリー化の道筋を描いた可能性もあります。
周知のように、ネオリベ的なアメリカを含め、どんな国でも、公共事業を行なうことで、政府が民間企業に発注して市場での影響力を発揮し、経済をウマク回そうとします。財政政策と言います。先進各国で最も重要な公共事業が軍需産業です。でも日本はこれが禁じられています。公共事業の大部分を非軍需的に行う必要から、土建屋化しやすいのです。
その意味で、先進国間でコンクリートをぶち込む分量を横並びに比較するやり方は公平ではありません。日本が脱土木化してハイテク・ミリタリーで公共事業を回せるようにするには憲法改正が必要です。他方、さっき述べたように対米中立化には重武装化が必須ですが、重武装化とは対地攻撃能力を軸とした反撃能力を意味するから憲法改正が必要です。
重武装化には憲法改正が必要です。それにはアジア周辺諸国の信頼を得なければなりません。そのためには従来の対米従属から離脱する必要があります。それには重武装化が必要です。ここには循環があります。この循環を回せるようにするには、戦後賠償についても、従来型の政府間決着を越えて、ありとあらゆる感情の手当てをしなければなりません。
安倍晋三や「新しい歴史教科書をつくる会」のような「マスターべーション右翼」とは違って、むしろ戦略的な謝罪や戦略的な保障を通じて重武装化に向けた橋頭堡を築くようにしていくべきでした。そうすれば、国連各国から「アメリカにはへこへこするくせに、中国韓国には居丈高の、弱虫国家」と揶揄される現状にも陥らずに済んだはずです。
その意味で言えば、実はネオコン的であっても親米である必要はありません。小沢さんには、ネオリベと新保守主義の、非親米的なカップリングを目指していた気配もあります。ところが、ネオリベを取り下げて市民主義的コーポラティズムを持ち出したので、新保守主義による補完が必要なくなった。そういうふうに論理的に考えてみることもできます。
先ほど姜さんが「総評的なもの」とおっしゃいましたけれど、権威主義的コーポラティズムということで言えば、自民党も総評もまったく同じです。要は吉田茂が描いた「対米従属的経済復興」の図式の上で、平和主義や護憲平和を唱えていたに過ぎません。むろん吉田の図式自体は敢えてする戦略ですが、自民党も総評もそのことを忘れていくわけです。
左翼は共産党を含めてもともと必ずしも護憲ではなかったことに注意するべきです。憲法を受け入れることはアメリカの言いなりになることだと受け取る時期もありました。吉田茂のように護憲をアメリカの言いなりにならないために使うという「護憲ナショナリズム」は元来戦略的なものでした。左翼も大同団結のための戦略として護憲を用いたのです。
護憲をベタに受け取った右は、改憲がナショナリズムだと思い込み、護憲をベタに受け取った左は、護憲が平和主義だと思い込むようになります。右は、下手に改憲したら、アメリカの要求通りに兵隊を出して命を失わせる選択を拒絶するのが難しくなることを忘れ、左は、核の傘というゲバルトによる均衡が「平和主義」を支えるのを忘れました。
私の立場は、市民主義的コーポラティズム&対米自立、すなわち、市民主義・コーポラティズム・アジア重視・重武装というポジションをとるべきだと考えます。これは、アメリカ軍の強大なゲバルトに依存した状態を「平和主義」と呼ぶ寄生虫的な堕落状態を払拭するものですが、従来の日本の左が考えてこなかったものです。どうお考えになりますか。
■安保と抱き合わせの日本の平和主義
○宮台 平和と武力の問題に関するシミュレーションは重要です。いじめについて調べると統計的に面白いのは、第一に、日本やイギリスやアメリカの小中学校では一貫していじめが多いということです。いずれも学校中心主義的な色彩が強いからです。ところが、日が、イギリスやアメリカで決定的に違う点があります。
イギリスやアメリカではいじめが一番多いのは小学五、六年生で、中学校では激減します。これに対して日本の場合、いじめが一番多いのが中学二年生。中三になると受験に気がとられるのかやや下がります。なぜこういう差があるのか。最も重要な要素は、一つはアングロサクソンには「自立」を以て「一人前」とする観念があるということです。
簡単に言えば「中学生にもなってまだイジメてるの?」という社会的な目差しを内面化しています。だから「共同体的同調圧力に負ける奴はかっこ悪い」という発想になります。加えて、第二に、「自分の隣にいる奴が友人であろうが知らない奴であろうが、暴力を振るわれていたら体を張ってでも止めに入るのがカッコイイ」という教育がなされています。
韓国の学生に「日本はそういうことを何も教えていない」と話すと驚かれます。「何があっても僕は無抵抗です」的な平和主義は趣味でしかない。隣人が暴力を受けているときにそれを放置するのですからね。イジメが中学時代にピークがあるという特異性は「他人が暴力を受けているときどうするか」というシミュレーション教育が欠けるからでしょう。
日本の平和主義というのは一体何なのか。核の傘の下で平和を享受することに言及せず、平和主義を唱導する輩の何と多いことか。平和主義と対米自立という両立しない政策を唱導する旧社会党的な立場さえあります。社会党委員長だった石橋政嗣の『非武装中立論』によれば、他国が攻めてきた時すぐに降参すれば誰も殺されないそうです。馬鹿な(笑)。
平気でそんなことを言うのは万年野党だからです。村山内閣になったら自衛隊合憲&安保容認へと反転しましたね。平和主義は無責任な主張です。加えて概念事態が非倫理的です。非武装中立のコスタリカは厳密には「平和主義」じゃない。A国がコスタリカに攻め入ったらB国がA国を攻めるという類の、ゲバルトを前提とした均衡主義をとるだけだからです。
日本が非武装中立で安全保障を調達するには、コスタリカに倣い、均衡状態を作り出すしかありません。周辺国の武力によって支えられる非武装中立です。むしろA国が日本に攻め入ったらB国がA国に攻め入ってゲバルトを展開してもらわないと困るのです(笑)。これが平和主義ですか。そんなことを言う輩は、脳天気以前に、非倫理的です。
補足させていただきたいのですが、EUの場合、安全保障概念はミリタリー・アスペクトに留まりません。姜さんがおっしゃったように、欧州統合はヨーロッパ石炭鉄鉱同盟というエネルギー安全保障から始まっています。それが今日では、オイルルートを守るアメリカの軍事力に依存し過ぎないための再生可能エネルギー政策に結びついています。
日本で再生可能エネルギーというと「自然にやさしいから」という発想しか出てきません。この間ドイツのテレビニュースを見ていたら、「再生可能エネルギーは、安全保障政策の要であり、環境負荷も低いので…」とキャスターが解説していました。ヨーロッパでは当たり前ですね。でも日本のニュースでそういう解説を聞いたことは一度もありません。
農産物の域内自給率にこだわる食糧安全保障の観念もあります。国内の技術的インフラが「ウィンテル同盟」に依存するのは危険だという技術的安全保障の観念もあります。ディズニー文化を含めたアメリカ発のメディア情報に汚染されないための教育という文化的安全保障の観念もあります。英連邦から始まったメディアエデュケーションが典型ですね。
日本はどうですか。電力会社利権ゆえに再生可能エネルギーは微々たる比率である上に、活断層データの捏造で「豆腐の上に原発が建つ」状況です。中国の食品が危険だと騷ぎながら、食料自給率は四割を切ろうとしています。政府のIT基幹システムは大半ウィンドウズ・ベースです。愛国心教育が唱導されるけどメディアリテラシー教育はありません。
最近子供が生まれたので玩具について調べました。カナダ発のメディアリテラシー教育とシンクロするかのように、ディズニーのキャラクターグッズの悪影響を論じたパンフレットが欧州に流通しています。私の家にはディズニー系もベビーザらス系もありません。近所の母親たちが家に来ると「頭よさげな環境!」と驚かれますが、欧州風なだけです。
これを日本風と言えないところが愛国者である私としては残念(笑)。そういう一見瑣末なことまで含めて、安全保障という概念を、『正論』『諸君!』的な「マスターベーション右翼」や「ミリタリーおたく」のお座敷芸から解き放ち、私たち愛国者の概念として成熟させる必要があります。そうなって初めて本来の亜細亜主義的アライアンスがあり得るでしょう。