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承前4

投稿者:miyadai
投稿日時:2007-08-27 - 18:33:16
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(0)
承前3につづく

宮台 近代社会の社会システムでは、以前とは違ったことが起ります。たとえ〈社会〉の外側に〈世界〉が拡がると観念される複雑な社会でも、近代以前には〈社会〉のクロックと〈世界〉のクロックがシンクロしました。日の出と日の入が典型ですが、〈世界〉の時間に合わせて〈社会〉を営むしかなかったのです。社会が複雑になってくると、至る所にサブシステムができて、それぞれ特別なクロックを持った作動領域になります。そうなると、人が〈世界〉のクロックなんぞに共振されちゃたまらない。ランディさんのおっしゃる通り、近代社会では僕たちが〈世界〉から隔離されがちになるわけですね。
 複雑な〈社会〉が回るには僕たちが〈世界〉から隔離される必要があります。以前の社会のように僕たちが〈世界〉に開かれていたのでは〈社会〉が回らない。だから、複雑な〈社会〉になるほど、僕たちから〈世界〉への敏感さが免除されるどころか、敏感さが制約される。それが近代社会です。近代社会にはまだ二通りの人間がいる。一方に〈世界〉との接触の記憶を鮮やかに持つ人がいる。他方に〈世界〉から隔離されて〈社会〉に閉ざされた状態しか知らない人がいる。前者は「超越系」、後者は「内在系」になりやすい。
 〈社会〉の外に出て〈世界〉と接触できる人から見ると、レヴィ=ストロースやランディさんがそうですが、〈社会〉と〈世界〉はとりたてて区別すべきものじゃなく見えます。でも〈世界〉と接触した経験がない人から見ると、〈社会〉と〈世界〉の区別は巨大です。だから、とりわけプラトン以前の初期ギリシャ哲学で繰り返し主題化されてきたように、〈世界〉と自在に接触できる人かどうかで、人間の質が決定的に異なるのです。端的にいえば、〈社会〉の中しか見えない人間にはヘタレが多い(笑)。何かというと不安や不信で右往左往するのです。〈世界〉と接触する力を持つ人間は、不安や不信でおたおたせず、内発性に基づいて前に進みます。ハナ・アーレントなら「依存か自立か」と仕分けします。
 プラトン以前の初期ギリシアは自立を推奨し依存を退けました。〈世界〉に感染する力のある者は〈社会〉の原理――意味や立ち位置――に縛られず内発的に前に進めます。この内発性とは〈世界〉に感染する力です。こうした力のない者は意味や立ち位置を気にして〈社会〉を生きるしかない。初期ギリシアのアテネでは市民が全て重装歩兵でファランクス(集団密集戦法)という戦闘形態をとったことが、こうした価値観をもたらしました。社会システムのあり方が変われば価値観を社会的に維持するのは難しくなります。でもかつてそうした価値観がかつて存在したと知ることは実存的指針にはなります。折口信夫もそうした価値観に憧れた。社会を生きながら星々によって貫かれているようなあり方です。

田口 (省略)

宮台 ランディさんがおっしゃったことで重要だと思ったのは、多くの人は星々を見て、山に登って、海を見渡して、「ああこれでまた明日から仕事がばりばりできるぞ」みたいになることですね。僕は以前からそれをシャワールームに喩えてきました。週に一度シャワーを浴びてはまた汚れた仕事場に戻るようなあり方。別に悪くない(笑)。でもそれは〈社会〉自体が想定し、〈社会〉が自らに積極的に組み込んだレクリエーション装置です。確かに多くの人は〈世界〉との接触というとリゾートをイメージする。でも大乗・小乗・密教という区分を使えば、認識としては出鱈目だけど、大乗的な入門編としていいかなと。

田口 (省略)

宮台 僕はある時期まで今とはまったく違う考えを持ってたんです。僕のような「超越系」の人間は、やっぱりどこかおかしいんだろうと。神経症みたいなものかもしれないと。普通の人間は「内在系」なんじゃないかと。そういう普通の人間のほうがむしろ自由なんじゃないかと。そう。近代社会を生きる上では「内在系」のほうが自由なんですよ。そういうふうな考えがあったからこそ、ブルセラや援交する女子高生を「まったり革命」の名のもとに擁護したんです。

田口 (省略)

宮台 そう思ってました。だから、彼女たちのなかに、「内在系」であるがゆえに流動性を軽々サーフィンして生きていけるような、僕から見るとあり得ないような「自由な存在」を見ていたんです。俺もそういうふうになれたら素晴らしいなと憧れてたんですよ(笑)。

田口 (省略)

宮台 でも、九七年の酒鬼薔薇事件から少年犯罪ラッシュが続いた頃、援交する女子中学生や女子高校生たちが「メンヘラー」になっていくんですね。それで僕は分析し直す必要にせまられました。分析し直してみると、ブラセラ&援交女子高生たちは、第一世代・第二世代・第三世代にに分かれるんです。ブルセラ&援交現象が拡がり始めた92年に高校生になる77年生まれからが第一世代。援交がピークをすぎた96年に高校生になる81年生まれからが第二世代。ウェブサイト出会い系が拡がる2001年に高校生になる86年からが第三世代です。第三世代についてはちょっとスキップします。
 第一世代と第二世代の間には断絶があります。前半の子たちは「内在系」じゃなく、むしろ「超越系」が多かったんですよ。いわば日常を普通に生きているだけでは収まらない子。幸せにしているだけでは幸せになれない子。だから周囲から自意識や好奇心や冒険心が強いと思われている「とんがりキッズ」。彼女たちは非日常的な全能感にアクセスしようとしていて、援交がカッコイイことだったのね。そんな彼女たちはとても豊富な「自己物語」を持っていました。「なんでそういうことをしてるの?」と尋ねると、しゃべることが山のようにあって、とまらない(笑)。

田口 (省略)

宮台 そうそう、そういうやつ。ところが第二世代の子たちになると喋らなくなるんです。当初、僕は援交する子たちから自意識がなくなったのだと思いました。でも間違っていました。実は、端的に援交がカッコワルくなったことが大きい。理由の第一は、援交がフォロワーに拡がって、先端的な子がやってるイメージじゃなくなったこと。第二は、94年のデートクラブ一斉ガサ入れ以降、それまでセックス抜きで援交していた子たちがテレクラに流れて元々のテレクラルールに適応してセックスしはじめ、価格破壊が起ったこと。価格が安いのはカッコワルイ。第三に、96年から「お部屋族」化が起こり、街でガンガン遊ぶ「安室奈美恵」的な生き方が陳腐化し、街での居場所稼ぎの必要が減ったこと。第四に、カッコワルくなってるのに「まだ」やってる子は、95年からオンエアされる『エヴァンゲリオン』の碇シンジみたいな「生きにくい系」だというイメージが拡がったこと。
 つまりね、援交が、自由のシンボルから不自由のシンボルに変わったわけ。先端的な子というよりも自傷的な子がやるというイメージに変わったんですね。これは「超越系」の子が撤退したという意味では必ずしもない。むしろ「超越系」であることが、カッコイイものからカッコワルいものへ、先端的なものから自傷的なものへ、と変わっちゃった。そのせいで、「超越系」の中でも、周囲からリスペクトされて集団をひっぱる子は援交から撤退し、周囲からダサいと思われている「生きにくい系」が援交するようになりました。
 僕が「メンヘラー化した」と言うときに、主に注目するのは、この第二世代です。第一世代の子たちは「頭がいい超越系」ですから、「援交が輝いた時代」が終わって万能感が頓挫した結果、一時的にはメンヘラー化しました――当時取材した子たちの多くがそうなりました――が、まあ世間の基準からいえば過剰に身を持ち崩さず、あるいは持ち崩した後に立ち直っています。彼女たちは今ではたぶんランディさんの本とかを読んで……。

田口 (省略)

宮台 「メンヘラー」になって、おクスリ漬けになったり精神科リピーターになったりしたのは、当初の僕が「自意識がない」と思った子たちです。結局「都市的現実」を軽々サーフィンして生きていける「内在系」なんてそれほどいなかったのですね。僕にとって「希望の星」が消えたけど、入れ替わりにやるべき別の仕事が見えた。“そうか。「内在」だけで生きていけない人間がむしろ多数なんじゃないか。だったら僕のやるべきことはいっぱいあるぞ”という感じ。そのことが伏線になり、99年の読者自殺で僕の勘違いを修正するべき責任を感じて、『美しき少年の理由なき自殺』『サイファ』で方向転換した。
 確かに「内在」だけで生きていけるように見える人間がいることはいます。でも僕の考えではそれが実は前提に満ちているんですね。一定の環境条件に支えられてはじめて可能なことであって、条件が変わると途端に挫折しちゃうんですよ。ラッキーな条件に支えられて「内在」だけで生きてきたような人間は、〈社会〉と〈世界〉の二項図式についての免疫がないので、「老いらくの恋がやばい」のと同じで、突如〈世界〉に触れると、死んじゃうことを含めて過剰な方向にいっちゃうんじゃないか、というのが僕の観察ですね。

田口 (省略)

宮台 さっきジャック・マイヨールに触れたとき「北」と「南」の話が出ました。「北」と「南」のどこが違うのかってことなんです。〈世界〉という全体性との接触を憧憬するロマン派の中にも、峻厳な山並やリアス式海岸に象徴されるような北方的なものや北欧的なものに関心を持つ勢力と、シチリアやマルタ島といった南欧的なものに関心を持つ勢力と、ふたつあるんですね。僕は若松孝二監督のある映画の企画の相談を受けたときに……。

田口 (省略)

宮台 そう。そこで再び「北」と「南」をめぐる同じ疑問につきあたります。なぜあの少年は母親を殺した後、自転車を何百キロもこいで「北」に逃げたのかという謎。歴史を振り返っても、事を起こして社会の中でいられなくなったときに、「北」に逃げる連中と「南」に逃げる連中がいるんですよ。実は「南」に逃げるやつは『ソナチネ』じゃないけどヤクザが多い。「北」に逃げるやつは過激派みたいなカタギの思想系に多いようですね。

田口 (省略)

宮台 ロマン派の問題もあって、これは何なのかなって考えてきて、何となくこうじゃないかなと思うことがあるんです。キーワードば「人の海」ですね。ランディさんが『7-days in BALI』にも書かれているように、「南」のインドとか東南アジアを旅行する経験が与えることは何かというと、「人の海」の中に沈むという経験です。日本や欧米にいるときには自明だったはずの「個人の尊厳」という観念が急速に漂白されて「ここで俺が死んでも誰も気がつかないんだろうな」と感じる。しかしそれが不思議と幸せな感覚なのですね。
 「北」のツンドラで死んでも誰も気がつかないでしょう。でも意味が違う。氷や雪の中で静かに凍死していく感覚と、人の海の中にホワイトノイズのように消える感覚は違います。「北」に行っても「南」に行っても、自分の輪郭を成り立たせてきた〈社会〉のイメージが溶解して、未だ経験したことのない全体性のイメージが立ち現れるのは、確かに同じです。でも〈社会〉のイメージが溶ける仕方が違う。「北」では〈世界〉の絶対性が立ち現れ、その前で〈社会〉が相対的なものとして縮んで消えていく。「南」では〈社会〉の絶対零度が立ち現れ、その前で既知の〈社会〉が幻のように霞んでいく。
 たぶん田口さんもそうでしょうが、僕は「南」系なんですよ。〈世界〉と接触しようと思うとき、人がいない「北」に行こうと思うことはありません。「南」ですよね。人だけでなく魚も亀も鳥もごまんといます。魚や亀や鳥は自分とはまったく違った時間を生きている。それだけじゃなく、そこに生きる人も自分とは違った時間を生きているのです。こうした違った時間同士が重なりあい、まるで真夏の森のなかの蝉の声のような趣きです。さっきホワイトノイズといったのは、そうしたことを意味します。人や植物も含めた生き物たちの異なる時間が醸し出す交響が〈世界〉を告げ知らせる、それが「南」ですね。

田口 (省略)

宮台 二つの軸がありますね。人の海があるか、人が孤立しているかという軸。肥沃か、肥沃じゃないかという軸。さっき僕がいった「南」は、人の海と肥沃さとがある場所で、「北」は、人が孤立していて肥沃さがない場所です。田口さんの行かれたウクライナは、「北」は「北」でも、人が孤立していながら肥沃な場所です。それとは別に、アフリカの大半は、「南」は「南」でも、人の海がありながら肥沃さが欠けています。それでいえば、日本は、人の海があり、かつ肥沃さもありますから、それ自体僕がいう意味での「南」です。単に〈社会〉の零度が見えなくなっているだけです。ポリネシアンの影響が強いと言われるのも、単に文化伝播の問題ではなく、人の海と肥沃さが両方あるという〈社会〉形態から来ています。
 人の海[−]で肥沃さ[−]を「北A」とします。人の海[−]で肥沃さ[+]を「北B」とします。人の海[+]で肥沃さ[+]を「南A」とします。人の海[+]で肥沃さ[−]を「南B」とします。こうした〈社会〉分類は宗教社会学で重視されます。「南A」の典型がポリネシアです。自然が豊かなので、自然は「非競合的」な公共財になります。そういうところでは女という財も「非競合的」に扱われ、性愛規範が緩くなります。女の労働力の希少性が高くないところでは、俗に言う「やっても減るもんじゃない」という性質が前面に出る訳です。
 ところが「北A」では逆に、食うためには多くの労働力が必要で、労働力の希少性から女という財が希少になって「競合的な財」になるので、性愛規範が厳しくなります。「北B」だと、食うために必要な労働量は多くないので、労働力の希少性はありませんが、人が疎らなので物理的にシェアしずらくなります。「南B」は人口が密集するので、労働力の希少性ではなく労働機会の希少性が焦点化されて、売買春化しやすくなります。
 こうした違いを含めて「南」と「北」の違いを再確認すると、さっきの定義では「北」とは人がいない場所を言うので、実は砂漠も含まれることになります。人の海に揉まれて生きるがゆえに社会的承認力も社会的制裁力も強い「南」では、規範のキツいユルいに関係なく人は〈社会〉を気にして生きるしかないけど、人が疎らで社会的承認力も社会的制裁力も小さい「北」では、こうした承認と制裁の力を〈社会〉の外にある存在、すなわち超越神ないし唯一絶対神へと、投射しやすくなります。
 この超越とか絶対というのは神学的には契約の片務性を意味します。人間と取り引きしないし、取り引きしたように見えて一方的に破るということです。これに対し、人間と取り引きする「御利益神」があります。「南」では、社会的承認力や社会的制裁力の延長線上に「御利益神」を創造しますから、自動的に多神教的なコスモロジーを構成します。部族が違えば違った神がいて、あれこれ離合集散を繰り返し、シンクレティズム(宗教的習合)が進んだ結果、「人がいっぱいいて、いろんな神がいて」というイメージになります。

田口 (省略)