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理解できた上で「あり得ない思い違いだ」と感じたにせよ……

投稿者:miyadai
投稿日時:2005-06-14 - 17:00:02
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(1)
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理解できた上で「あり得ない思い違いだ」と感じたにせよ、それでも他者の主観性を尊重して「尊厳死」を認めなければならないか、との問題提起を映画『海を飛ぶ夢』に見出す
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■91年4月に東海大学付属病院医師が入院中の末期癌患者に塩化カリウムを注射して死亡させる「安楽死」事件が起きた。意識不明の患者に生前の意思表示のなかったことが争点となり、95年に横浜地裁で有罪判決が出た。その際に提示されたのが安楽死四条件である。
■第一に、治療法のない末期患者で、第二に、耐え難い肉体的苦痛があり、第三に、苦痛除去の手段がなく、第四に、本人の意思表示がある場合に限り、消極的安楽死(治療行為の打切り)以上の積極的安楽死(積極的に死を招く行為)が合法的たり得るとするものだ。
■検察側も弁護側も控訴を断念したことで、安楽死四条件は日本の司法と検察によるの事実上の安楽死容認基準となった。だが、この容認基準は国際的なものではない。同一国の中でさえローカルな裁判所ごとに異なる基準が示されてきた。今はまだ暗中模索の時期だ。
■92年には米国カリフェルニア州で安楽死法案が住民投票で否決。93年にはオランダで安楽死法案が可決。94年には米国オレゴン州で安楽死法案が住民投票で可決。96年には米国サンフランシスコとニューヨークの連邦高裁が「死ぬ権利」を容認。オーストラリア北部準州では安楽死法が施行されたが、97年にはこれを無効とする連邦法が可決・成立した。
■その間も、96年に京都府の国保京北病院長が古くからの友人である末期癌患者を筋弛緩剤の点滴で死亡させる事件が起きたが、点滴量が致死量未満だとして翌年不起訴。02年には、川崎協同病院で95年に植物状態の患者を筋弛緩剤で死なせていたことが明るみになり、本年3月25日、横浜地裁で「安楽死四条件を満たさない」として有罪になったばかりだ。
■安楽死四条件を導いた東海大事件の判決は、自己決定権と緊急避難の法理を援用するが、問題を含む。第一に、患者の自己決定権は医者に義務を生じさせる。四条件を満たせば医者は死なせる義務を負うのか。負わないなら医者が拒否した時に患者の権利はどうなるか。
■第二に、緊急避難の法理(刑法37条)は、第三者の法益を犠牲にしても保護される自己または他者の優越利益を規定する。だが安楽死の場合、37条で規定された優越利益も、犠牲にされる第三者の法益も欠く。厳密に考えれば現行法の枠組を逸脱することは明らかだ。
■第三に、患者の自己決定権を認めつつ、先進各国で万人に認める治療拒否権を「末期患者にだけ」限定するのは法の下の平等に反するし、「肉体的苦痛に満ちた」末期患者にだけ積極的安楽死を認めるのも法の下の平等ならびに刑法13条の通説的解釈に反している。
■こうした齟齬を解消しつつ安楽死を容認しようと思えば、当事者が自らスイッチを入れられる安楽死マシンを開発する必要が出て来るし、安楽死四条件よりも軽い基準で安楽死を積極的に容認するような法律の制定が必要になる。だが自殺の容認とどこが異なるのか。
■現に諸外国では、末期患者でなくても(第一条件緩和)、肉体的苦痛がなくても(第二条件緩和)、本人意思で安楽死を認めるべきか、あるいは本人が意識不明でも(第四条件緩和)生前の意思や家族の証言による推定意思で代用できるか否か、が激しい議論の的だ。
■象徴的なのが安楽死マシンの考案者ケボキアン。90年から98年までに130人の安楽死を手伝って自殺幇助容疑で四回起訴され、いずれも無罪となった。四回目の判決後にはNHKが特集番組も流した。98年にミシガン州法で自殺幇助を処罰する新法施行の直後、安楽死の模様をCBS系列で放映。殺人容疑で起訴され、99年に禁固10〜25年の判決を受けた。
■折しも本年3月31日、15年間植物状態だったフロリダ州のシャイボさんが栄養チューブを外されて死亡した。01年には尊厳死を容認した州地裁に対し、ブッシュ州知事が新法を制定して延命。州最高裁が新法に違憲判決を出し、連邦最高裁が州知事の上訴を棄却した。
■3月18日にシャイボさんの栄養チューブが外された後、21日に上下両院が尊厳死阻止の緊急措置法を可決、ブッシュ大統領が署名。しかし22日に連邦地裁が、23日に連邦高裁が、24日に連邦最高裁が尊厳死を容認し、27日にはブッシュ州知事が介入を断念するに至った。

【安楽死の肯定がもたらすシコリ】
■複数の場所で表明してきた通り、先に紹介した横浜地裁判決の法解釈学的な是非は別にして、私自身は、公式には「死の自己決定権」の観点から消極的安楽死にも積極的安楽死にも賛成する立場だ。だが正直を言うと、今まで表立って表明しなかったシコリがある。
■安楽死を禁じると、人道的な問題を生じ、幸福追求権に反する。だが安楽死を認めると、法の下の平等に忠実たらんとする限り、末期患者でなくても肉体的苦痛がなくても自死を認める方向にならざるを得ず、自殺の容認に近づく。そのことにシコリを感じる。なぜか。


■健康上のハンデを負うことを条件に、末期患者でなくとも肉体的苦痛がなくても自死を認めること。これついての迷いは、先のNHK番組でケボキアンの発明した安楽死機械のスイッチを自分で入れる直前の患者たちの証言ビデオが流されたときに、決定的になった。
■アレハンドロ・アメナーバル『海を飛ぶ夢』(04)を観て、先の証言ビデオを見た際の嫌な感覚を思い出した。アカデミー賞外国語映画賞受賞の、各誌で感動的だと絶賛される実話ベースの映画だ。主人公は末期患者ではなく、肉体的苦痛に苛まれている訳でもない。
■因みに、「尊厳死」と言う言葉は、「治療打切りによる消極的安楽死」を指す用法もあるが(日本の法学者など)、「末期患者でもなく激痛に苦しむ訳でもない者の尊厳上の理由による積極的安楽死」を指す用法もある。映画の中では後者の用法で使われている。
■主人公のラモンは19歳からノルウェー船のクルーとして世界中を旅したが、25歳の夏に引潮の海にダイブして頸椎骨折、四肢麻痺となる。寝た切りの彼は、意識の中で海と戯れることだけを生き甲斐にするが、26年目に「そんな人生は尊厳を欠く」として死を望む。
■以降2年間、様々な人の手を借りて自殺するまでが描かれる。「自分らしく生きるには死しかない」と思う主人公の周囲には、兄ホセ・兄嫁マヌエラ・甥ハビ・父ホアキンに加え、尊厳死支援団体のジュネ、弁護士フリア、女工のロサなど、彼を愛する者たちが集う。
■一方に、愛に包まれていれば前向きに生きられる筈(愛する者のために生きる義務を負う筈)と考える者たちがいる。他方に、自分らしくありたいとの願いを聞き入れて死なせることこそ愛する者の義務だと考える者たちがいる。そして判断がつかずに迷う者がいる。
■役者ではなく本人がそこにいると錯覚するほど誰もが素晴らしい演技を見せる。だから、思い込みの激しい尊大な神父を除いて誰にも感情移入できる。即ち映画は今述べた三つの立場のどれかを裁いたりはしない。どの立場もどうにもならない必然として描かれている。
■だから、どの立場を肯定しても別の立場の者を傷つける。「自分を愛する者のために生きる義務を負うのなら、自分は自分であり得なくなる」と思う者がおり、「自分が自分であるために死んでいいのなら、愛する者は存在を否定されることになる」と思う者がいる。
■このトレードオフが見事に描かれるほど、映画は寓話的になる。世界は確かにそうなっているとの深い感動を観客に与える。しかしそのように感動するのであれば、なおさら「感動的だった」で終わる訳にいかない。観客は必ずシコリを持ち帰ることになるからである。
■主人公ラモンは、女弁護士フリアと女工ロサとの三角関係ないし兄嫁マヌエラを加えた四角関係を享受する。兄ホセは、彼の為に猟師から退屈な農業に転業する。父ホアキンと甥ハビは、主人公の為に工作やパソコン入力に尽力する。主人公は実に愛されまくるのだ
■それだけではない。主人公には文章を書く才能がある。想像の中で海と戯れる才能がある。軽妙なジョークで人を魅惑する才能がある。その才能に周囲は魅惑される。なのに主人公は自死直前のビデオ証言で《私の人生は尊厳とは無縁でした》と告白するのである。
■常人にない才能を持ち、常人にあり得ないほど愛されていながら、しかし主人公は「自分らしく生きられない=尊厳がない」と感じる。観客は困惑する筈だ。これで自死を認容するのなら、寝たきりの病人や老人は全員自死の資格を持つことにはなるではないか、と。

【人の尊厳は主観性に宿るのか】
■かつてケボキアンのNHKドキュメンタリーで、自死直前の患者たちのビデオ証言を聞いたときに、私はどことなく嫌な感じがした。彼らは思いを数限りなく反芻してきたからだろう。そこでは死への思いが淀みなく滔々と語られる。それはある意味で説得的である。
■だがそうであるほど、私はそこに強い主観性ないし抒情性を感じ取る。「不安ゆえの高度な主観的構築」を見出し、ゆえに「別様の主観的構築の可能性」の所在を嗅ぎ取る。分かりやすく言えば、全く違った仕方で〈世界〉を体験する仕方はないか、と思うのである。
■実際巷には「主人公が自死する理由が説得的に描けていない」として、この映画を評価できないとする者が少なくない。彼らの多くは、恐らく私と同じように感じたのだと思う。ならば、主人公の動機を説得的に描けば、映画はもっと感動的な傑作になったのだろうか。
■違うと思う。感動的な凡作になっただろう。むしろ、この作品は敢えて、主人公の主観性を前面に押し出すことによる観客の違和感を、狙っている。そのことによって、観客たちにある種のシコリをお土産代わりに持ち帰ってもらうことを、明白に意図している。
■例えば、映画の前半、テレビで見た主人公ラモンの姿に感動した女工ロサが、ラモンを訪ねて来て《人生が生きるに値することを伝えたい》と言うのに対し、ラモンが《僕をダシにして自分に価値を見出したいだけだ》という具合に、滔々と反論するところがある。
■一部同感しつつも観客は微妙な感覚を抱くだろう。彼は恐らく似たセリフを幾度も投げかけられてきて、その度に同じように反論してきた。だから自動機械のように反論がよどみなく口をついて出る。哀れなるはロサなり──。これは、明らかに意図的な演出である。■自死を望む者の主観性を前面に押し出し、観客の違和感を誘い出すことで、何が可能になっているだろうか。作劇上は、この主観性ゆえにこそ、女弁護士フリアを初めとする人々が主人公の主観を翻えそうと努力する余地が与えられるという論理的な仕組になっている。
■それによって、主人公を翻意させようとする試みが、主人公の主観性を否定するがゆえにこそ尊厳の侵害であり、同時に、愛する者ならばこの主観性を丸ごと肯定するべきだ、とする主人公自身の主張にも意味が与えられる。さて、観客はこれに同意するべきなのか。
■作り手側は観客の同意を意図していよう。例えば、主人公の動機をもっと説得的に描き、周囲の人間は当初主人公のことをよく知らなかったから善意の押し売りをしようとしていたのだという形に仕上げる選択も、あり得た。だが、そうすると微妙に意図からはズレる。
■むしろ、主人公のことをよく知らなくても、あるいは知ろうとして理解できなくても、主人公の主観を──それがどんなにありそうもない構築であろうと──尊重しなければならないというところに、尊厳死を巡る主人公ならびに作り手側の主張があると思われる。
■理解できなかったにせよ、いや、理解できた上で「あり得ない思い違いだ」と感じたにせよ、それでも他者の主観性を尊重することこそが、尊厳に敬意を払うことになる──。この主張は明らかにシコる。そこにシコらず、感動して帰るだけでは、主題を取り逃がす。
■私自身は、先に述べた通り、そのことがたとえシコっても、他者の主観性を尊重し、自死を許容するべきだとの公式見解をとる。しかし、私はそれを自明のことだとは思わない。主観性を尊重するがゆえの自死の許容が、主観性を生きる身体の消滅を帰結するからだ。
■映画はこのアンチノミーに自覚的だ。だが映画を評するこの国の言葉を見る限り、アンチノミーには鈍感だ。そもそも主観性がそんなに重要か。人の尊厳は主観性に宿っているのか。そういう反問があってこそ、私の公式的立場の「仕方なさ」の深さが際立つのに。