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中編【DarwinRoom】料理の人類学.9 料理を通じて倫理を回復する 2020.05.30(土)

投稿者:miyadai
投稿日時:2020-06-22 - 11:01:25
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(0)
【DarwinRoom】料理の人類.9 料理を通じて倫理を回復する 2020.05.30(土)
清水隆夫さん:ダーウィンルーム代表
鶴田想人さん:東京大学大学院総合文化研究科修士課程(科学史・科学哲学)
宮台真司  :社会学者/東京都立大学教授
(文字起こし:大上隼人/立石絢佳)

中編

宮台:■まぁ音楽の話を続けると、「感覚の共同性」が分断された状態で「オレはこれがいいと思う」というようになる。それを「こだわり」という言葉で表現するようになったのが、この25年間。「イタイ」という言葉と並行して拡がってきたんだよね。「イタイ」ってのは、僕のいろんな文章にあるように、過剰さを忌避する言葉です。ってことは「分断されているがゆえに、むしろ過剰さを忌避するようになった」んだね。僕の十八番のサブカルチャー研究からは、そのように言えます。だからさ、鶴田さんが一生懸命料理して、みんなにごちそうしたとしても、それは共同体的共通感覚やそのベースになる共同身体性を欠いているから、「他の人がやらないことをやってすごいね」で終わるっていう。
■共通感覚やそのベースになる共同身体性を欠いた状態だと、僕のよく使う言い方で言うと「技芸がmimesis(感染)を生じさせない」。「僕も料理してみたいなぁ」とか「自分も楽器が弾けるようになりたいなぁ」とかね。身体性をベースにした感染がどんどん生じなくなってるでしょ? だからoperational goal(作業目標)としては、mimesis(感染)が容易に生じるような条件を、どうやって回復するかが、戦略的に大切になるんですね。鶴田さんがみんなの前で料理をふるまうだけじゃ、回復しないんですよ。「わざわざ作らなくてもいいのに、どうもありがとう」で終わっちゃう(笑)。だから、僕は子どもを相手にする場合、虫取りとかトカゲ取りみたいな外遊びとかから始めるわけです。
■最近ちょっと面白いことがあってね。コロナによる外出自粛要請で、子どもたちが外で遊ばなくなったでしょ? うちの虫好きだった6才のガキも、あんなに虫好きで、いつもバッタを取ってカマキリにあげていたのに、マインクラフトしかやらなくなっちゃったんですよ(笑)。いや、マイクラも、一応ゲームの中では一番クリエイティブだなっていう信念で、子どもたちにオススメをした結果なんだけれど、マイクラの外に全く出なくなっちゃった。「散歩しようよ」「面倒くさ~い」「あんなに虫好きだったじゃん」「昔の話~」ってね、箸にも棒にもかからないわけだ(笑)。
■ところがね、こないだ外出自粛要請も軽くなったので、山梨のある場所で虫取りをしたんです。正確にいうと、虫がたくさんいる所に行った。すると面白いですね。6歳児が、虫を取ろうと思っていないのに、気がつくと体が動いちゃってるの。イナゴとか蜘蛛とかを自動機械のように採っているんです。「お~やっぱ虫取り好きじゃん」って言ったら、「別に好きなんじゃなくて、虫がいると自然に捕まえちゃうんだよ〜」って言ってね。これってすごいなと思った。これだよなって。つまりギブスン流の生態心理学が言う「環境によるアフォーダンス」が生じていたんですよ。まさに虫がアフォードしていたわけ。アフォードするってのは「モノの配置がヒトに行為を〝与える〟」という意味ですけどね。
■まぁとにかく、すごい光景を見ちゃったわけよ。料理でいうと、冷蔵庫を開けて何か食材が見えた途端、選択としてよりも、視界に入った素材によってアフォードされて、気がついたら料理を作っちゃってた、みたいなこと、あるでしょ? 生態心理学の発想からすると、技芸的な意味での技術的遂行って、簡単に言うと「モノから呼びかけられて」やってるもんなんですよ。生態心理学がよく出す例でいえば、ある場所に石があって、思わず腰掛けたとする。すると、「どこに腰掛けようかな」と思って、石を探して座ったんじゃなくてね、石が座るに適した形状があると──正確にいえば「座っている状態を〝身体的に〟想像させるような物理的性質があると──気がつくともう座ってるっていうね。
■だから、技芸の本質って2つあることになる。1つは、ヒトから心身への呼び掛けとしてのmimesis(感染)。もう1つは、モノから心身への呼び掛けとしてのaffordanceなんですね。ガキを見ていて思い出しました。子どもの頃、僕もそうだったんですよ。っていうか、今でもそうなんだけど、虫を見ると思わず捕まえちゃってる。選択じゃない。虫を見た瞬間ガーッと体が動く。ちなみに、子どもって虫目(むしめ)なんですよ。視線が低いせいもあるのかな。これは子どもに適わない。僕が1匹見つける間に、ガキが5匹見つけてるの。そうやって、どんどん森にアフォードされて自動機械みたいに動いているガキを見ると、僕はどう思うかって、「お~やっと仲間に戻ってくれた~!」ってね。その感じですよ。あっ、伝わってますね。みなさん、笑ってくださってる(笑)。
■これは昭和の問題じゃなくて──しつこいけど(笑)──、すごい普遍的な問題だと思うんです。人はね、選択している限りは、ヒトから呼び掛けられるmimesis(感染)も生じないし、モノから呼び掛けられるアフォーダンスも生じない。なんか、気がついたらそれをやってちゃってるっていう状態。それこそが、キャリコットがいう「生物も無生物も含めた場が与えるcommunal(共同体的)な感覚」の出発点だということです。
■かつて性愛ワークショップをやってた時に言ったことだけど、「どうやってセックスすればいいのかな」って考えている状態は、「どうやって虫を取ればいいのかな」って考えているのと同じで、それは「クズの始まり」なんです(笑)。そこは技芸。修行して、慣れて、アフォードされるしかない。人間は、モノからだけじゃなく、ヒトからもアフォードされるんです。表情とか姿勢とか体温とかバイブレーションとかによってね。そんなふうに、「だからこうしよう」って判断する以前にアフォードされて、自動的にある振る舞いが生じている状態が、僕がいうフュージョン。性愛はコントロールではなくフュージョンです。ってことは、既に心身の体制が「フュージョンからコントロールへ」と頽落している場合、性愛だけをうまくやることは到底無理だということになりますね。
■共同体のベースは、ヒトから呼び掛けられる感染と、モノから呼び掛けられるアフォーダンスです。ただし、アフォーダンスにはヒトの心身からの呼び掛けも含まれます。そして、「他者を起点とする、感染とアフォーダンス」を、僕はフュージョンと呼びます。ただし、この他者には、動植物も無機物も含まれます。共同体の定義は「みんなが同じように体験していると信頼し合うこと」だと言いましたね。「同じように体験する」というのは、「他者を起点とする、感染とアフォーダンス」、つまりフュージョンがベースです。言葉はその後にやってくる。だからフュージョンを「共同身体性」と呼びます。共同身体性common physicalityが与える共通感覚common senseが、言葉に共同体的共通前提communal common-premiseを与え、それが共同体community=communal groupつまり仲間を与えます。それが性愛論などで示してきた概念系ですよね。
■だから、共同体的communalなものを取り戻すとは、共同身体性に裏打ちされた共通感覚・に裏打ちされた言葉の共通前提を、取り戻すことです。それが「言外・法外・損得外のシンクロ」と呼んでいるものです。感覚が人ごとの言葉によって分断されている状況に抗って、communalなものを取り戻すことが、『美味しんぼ』の主題でもあったことを思い出してください。「料理の美味しさってなんなんだろう?」と。グルメ的な意味での、つまり意識高い系的な意味での「これは1つ星・2つ星・3つ星の美味しさだ」っていうんじゃなく、長い道のりを歩いていって、やっと着いたナントカ庵で、美味しい湧き水を1杯飲ましてもらったら、何にも増して美味しかった、っていうような体験。この体験を味わえることこそ「最高のグルメ」なんだって『美味しんぼ』が描いていたでしょ?
■ここまで語って、やっと、料理って何なのかを語れます。作るプロセス、食べるプロセス、遡って、食材を育てるプロセス、食材加工のプロセス、流通のプロセスを含めて、今話した意味でのcommunalなものを取り戻さないと、僕らは「料理を通じて倫理を回復する」ことはできない。言い換えると「言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシン」の状態から外に出て「言外・法外・損得外のシンクロ」を体験することできない。それが体験できないと、料理が味わえないだけでなく、性愛が忌避され、祭りが忌避されることになる。逆に言うと、その意味において料理や性愛や祭りを味わえれば、「共同身体性→共通感覚→共同体的共通前提」という回路が回復されている。単に言葉で何かを想像する営みではないということです。あの、鶴田くんに伝わってますか、これ(笑)。

鶴田: まぁ、消化中ですね(笑)。


【本題2: ナチスとシュタイナー:能動と中動】

清水: 1つちょっと、いま宮台さんのお話を聞いていて、いろんなお話が混在しているなと僕は思っています。たとえばアフォーダンスの話をすると、最初のアメリカのミキサーを使ったり皮むき器を使ったりっていうところから考えると、日本の箸とか包丁とかっていうのは、全く文化が違うわけですよね。そこにはアフォーダンス的な要素が過分に入っているような気がするんですけど、我々は機械との共生において、人工物に命を持っていく前のチャンスがまだ残っているんじゃないかなというふうな観点でいうと、「料理のメガネ」の私なりの目標は、地球という惑星が生命の1つのシステムだということを認識することが、あると思うんです。
 さっき第3の革命「環境革命」ということを申しましたけども、まだ革命は終わっていなくって、これから起こさなきゃいけないと。そこで気付かなきゃいけないのは、地球が1つの生命の1つのシステムであるという認識が必要だと思うんですよ。それがないために、産業化だとか、いろんなことが今、人間中心主義と言われる私たちのエゴが充満しているわけですよね。そこに料理というものが関わっていて、機械との共生において追いやられていって、そのまま為す術もなくいくとですね、環境革命の前に我々はおかしくなっちゃうという状態。それが今だと思うんですね。そういう観点でいうと、どうなんでしょうか。


宮台:■問題意識はよく分かるんです。ガイア(地球生命圈)という意味での生態系の全体性を考えなければいけないと。これはよく『朝生』のときに言っていたけれど、「~しなければいけない」と言って済むのであれば、社会はもうこんなふうになってないんです。清水さんがおっしゃったようなことって、少なくとも1960年代後半からずっと言われていて、ナチスやシュタイナー[神秘思想家]に遡ると、戦間期やそれ以前から言われていることなんですね。なので、それも、処方箋と言うより、先取りされた帰結そのものです。ガイアという意味での生態系のことを感じたり、考えられるようになること。それがまさにターミナル(終着点)です。僕らは、終着駅に到達する可能性が、もうほとんどない状態で、さてどこから始めようかということを、考えざるを得ない段階にあるわけですよ。
■さっきの「アフォードし、アフォードされる関係」とか「感染し、感染させる関係」とか。あるいは「自分で選んでいないのに体が動いている」とか「自分で楽しもうと思っていないのに、人の表情で楽しくなってしまう」とか。そういう体験をベースにして、出発点になる感情の働きを習得する以外に、もうないだろうというふうに僕はずっと思っています。だから、親も教員もここでイベントやる僕らも、全員が常に既に「体験デザイナー」として機能していると言うんです。これを聞いている若い人たちには、そのことを意識してほしい。建築家も都市計画家も、映画監督も劇作家も「体験デザイナー」として機能している。料理を作る人も、プロか素人かを問わず「体験デザイナー」として機能している。料理を作る場合にさえ、自分が作ったものでどんな体験が可能になり、逆にどういう体験が不可能になっているのかを、たえず意識しつつ前に進むことができるんですよ。
■僕が『サイファ 覚醒せよ!』という本を2000年に出した頃から、ずーっと考えてきたことです。キャリコットがいう「人間中心主義という非人間性」を脱することは重要だ。でも、それに気付いても「脱人間中心主義という人間性」が獲得できるとは限らない。藤原辰史さんがおっしゃっる「人間中心主義から生命圏平等主義──僕の言葉では無生物を含めた生態系平等主義──へのシフトが、どうすればナチスを帰結しないで済むのか」という問題意識。キャリコットも藤原さんも答えあぐねているこの問題に、うまく答えることができるかどうか。これは、体験デザインという実践の方向性にかかっているんです。
■今日はそれが主題ではないから、詳しくは『ウンコのおじさん』に譲るとして、ちょっとだけ言います。ナチスは確かにゲルマンの「森の哲学」の延長線上にある。ゲルマンの「森の哲学」を知りたければ、『ミッドサマー』(2019)というアメリカ映画を見るといい。スウェーデンの山深い村で「森の哲学」を生きている村人たちが、森のために──森の祝祭のために──人を殺しまくる、半分コメディの半分ホラーです。最後に、アメリカ人旅行者の主人公女子が、森にシンクロしている村人たちにシンクロして、旅行仲間たちが殺されていくのを享楽の対象として味わえるようになる……ってところでニッコリ笑って終わる。とはいえ、森が要求する数だけ殺すのであって、際限なく殺そうと思っているわけじゃない。そこがナチスと違うところです。そこに問題のヒントがあります。
■ナチスの基本は「コントロール志向」です。「フュージョン志向」ではない。たとえば「森の哲学」に相当するものを、ナチスは「土と血の思想」って言う。これは「土が血を育てる」という思考です。土とは「生態学的な全体性」という意味で、血とは「優れた民族」という意味です。併せると「生態学的な全体性が、優れた民族を育てる」です。これがナチスによって、あれこれパラフレーズされます。「全体性を取り戻した農法で作った食材」が「健康で賢い人間を作る」とかね。お分かりのように、後段が目的で、前段がそのための手段。つまり、生態学的思考を最終的にコントロールに結びつけるんです。全てのコントロール志向は、必然的に排除主義です。だから、排除と選別を現に伴うわけです。
■「ナチスは生態学的全体性を考える『のに』、排除主義じゃないのか」と問うても、意味がない。そんなのはナチスが百も承知です。なぜなら、生態学的全体性を、コントロールのために──目的のための手段として自覚的に──使っているんだからね。ナチスは「土によって育てられない血」を「劣等な血」として排除し、「土によって育てられた地」を「優良な血」として選別にしようとします。つまり、ナチスの思考は「クズは死ね」というもの。そこに最大の問題がある。おい、宮台だって、いつもクズって言ってるじゃねえか。違います。どう違うか。僕がやってきた「コントロールからフュージョンへ」という体験デザインの性愛ワークショップ・親業ワークショップに答えがあります。
■「クズ」という言葉はワークショップで使い始めました。「クズになりたくないだろ」「クズに育てたくないだろ」と。土によって育てられない血は良くない。感情的に劣化する。クズになる。血を「心身」という意味で使うなら完全に正しい。だから僕はワークショップをします。性愛ワークショップは「クズをどうすれば元に戻せるか」を、親業のほうは「クズを育てないにはどうすればいいか」を、つまり回復と回避を主題にしている。だから、排除主義exclusionismではなく、普遍主義universalismなのです。無論、クズを回避せよという意味では差別している。皆さんが不勉強による頓馬を回避せよというのと同じです。クズや頓馬という言葉を使うかに関係なく、どのみち皆さんは「感情的に劣化した人間」や「頓馬な人間」になりたくない。そうした倫理的に正しい感情が存在する。その事実性を踏まえて、成長への欲望を惹起するために、言葉を選んでいるだけの話です。
■だから僕のゼミは、ウヨ豚大歓迎。ウヨ豚みたいなクズ男も、結構簡単に変わる。最近は女もクズだらけ。だけど、やはり変わる。繰り返すと、クズとは「言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシン」です。これは神経症の症状「だから」治せるんです。そこでは「土が血を育てる」メカニズムを使う。ただしゼミ生は成人以降だから、条件が必要です。ある種の素養です。ゼミで回復する子は押し並べて、幼少期から武道やスポーツ──経験的にはテニスやラグビーや新体操──に激しくコミットした経験があります。なぜなら「その時のこと思い出してみて」と言われた時に、想起できる体験質があるからです。僕からすると、「選択じゃなかっただろ。体動いてただろ」と取っ掛かりを探せるんです。
■その意味では、選別と排除を伴うとも言えます。実際、これから紹介するような話題をゼミで続けると自動的に脱落します。これは中高生にも使える方法です。他方、小学生以下は「そんなヘタレを育てないために」と親業ワークショップでカバーします。さてどんな話題か。武道では、言葉で全体戦略を考えたりするけど、「相手が動いた場合、こう避けるのと、ああ避けるのと、どっちがいいか」って考えていたら終了(笑)。相手の身体性になりきることが必要です。「相手に生じた全反応が同時に自分にも生じる状態」じゃないと勝てない。この物言いは相手に武道経験があれば伝わります。伝わったら、そこから「あれもこれもそうなんだよ」って芋づる式に色んなものを引っ張り出せるんですね。
■それが、清水さんが言った「今はまだ完全な劣化はしていない」って意味をどう考えるべきかに、つながります。相手が僕の物言いを言葉で概念的に理解できても、当てになりません。言葉のクオリア(体験質)が問題だからです。夕陽を見ている清水さんが「赤いね」と言う。僕が「うん」と言う。でも、清水さんが体験するアカさ──アカさのクオリア──を僕が体験しているとは言えない。そこで当てになるのは身体性──心身の態勢──だけです。その意味で、全員じゃないけど、一部の人に多かれ少なかれ、まだ緒がある。適切な実践を通じて、感染やアフォーダンスやそれらをベースにした共同身体性が生じるんですね。それってフュージョンに引き金を与えるだけで、コントロールではない。一旦フュージョンを知れば、後は身体性をベースに言葉の世界は自己運動的に展開する。
■藤原辰史さんのようにナチスとシュタイナーを対比させれば、違いは一言で言えます。2つは「森の哲学」がベースだから、よく似ています。でも決定的に違う点がある。ナチスはコントロールの思想です。「ゲルマン以外は全体性を考える力がない。ゲルマンは土によって育てられた優れた血ゆえに全体性を考えられる。だから戦争を含めた総ゆる戦いに勝てる。だからゲルマンが世界を支配できる」というコントロールの話に落ちます。シュタイナーはそうじゃない。確かに共通して「土と血の思想」だ(ただしここでの血は個体の身体性)けれど、シュタイナーの場合は「力の流れの思想」です。「力の流れの思想」は元々ギリシャ・ルーツだ。皆さんは「バーチャル」って言葉を使う。これは「ヴァーチュー」ってラテン語からきてる。「力」って意味です。「力の流れ」がそこにあるのかを見るのがギリシャ思想の本質。「力の流れを、言語的に理解しているから、何物も制御できるぞ」がナチスだとすると、「力の流れに気づいているので、流れに心身を委ねられる」というのがシュタイナーです。
■シュタイナーはご存知のように、ミネラル(鉱物界)・エーテル(植物界)・アストラル(動物界)・エゴ(人間界)って4段階で考える。ただしステップ・バイ・ステップの上昇じゃない。僕らのエゴ(自我)が全てアストラルに、アストラルがエーテルに、エーテルがミネラルに繋がっている。だから、それを逆向きにした「ミネラル→エーテル→アストラル→エゴ」という「力の流れ」にいつも動かされている。さっきのアフォーダンスの話と似て、言葉によるコントロールが「力の流れ」を阻害します。だから言葉を解除して「力の流れ」に心身を委ねるんです。つまりコントロールを手放して「力の流れ」にフュージョンしろと言うんです。僕の言葉でいうと「社会に閉じ込められている状態から世界へと開かれろ」と言ってる。ナチスがコントロール系だとすると、シュタイナーはフュージョン系。性愛ワークショップのキーフレーズだけど、コントロールはいつも「コントロールする主体つまりコントロールタワーを要求する」けど、フュージョンはむしろ「コントロールタワーを放棄する」。そこにナチスとシュタイナーの決定的違いがあります。
■フュージョンって、口で言うのは簡単だけど、実際、劣化した僕らにとっては難しい。難しいけど、たとえば疲れた時に、なんかそこに石や岩があったら座ってしまうってアフォーダンスの延長線上で、僕らがどんな風に感覚・感情・意思・体が動くのかってレベルからの観察を始めて、感覚や想像力を、ロゴスじゃなくレンマのレベルで取り戻すための長い道のりが必要になります。レンマってのは中観派の言葉で、ロゴスを使う時に「常に既に」踏まえられている「世界はこうなっている」という触知された全体性を言います。スペンサーブラウンの原始代数が記述する「書かれざる囲い」に当たります。それについて別の文章に書いたけど、こんな感じです。
■言語の全ては指示だ。指示を「紙に囲いを描く」営みに喩える。囲いが意味を持つには、囲いをどこに書いたのか指示されてなきゃいけない。囲いをどこに書いたのかを指示するには、囲いの外にもう1つ囲いを書いて指示しなきゃいけない。今の外側の囲いが意味を持つには、外側の囲いをどこに書いたのか指示されてなきゃいけない。これは無限退行する。無限退行には無限時間がかかる。でも僕らは、指示を一瞬で了解する。ってことは、最初の指示=囲い描きの前に、無限回の営みを「常に既に」終えていることになる。この先取りされた規定不可能な無限性=全体性が、レンマ。規定不可能なのは、無限の囲いの後にもう1つ囲いを加えても、その外側が囲われていないので、何も変わらないから。
■あるいはさっきの人類学の話で言うと、ヒトは昔から別に資源が有限だから食べ過ぎなかったわけじゃない。それは後知恵。基本的には、囲いの同心円なんですよ。「すごく親しい仲間」「ちょっと親しい仲間」「あんまり親しくないけどまぁ仲間」「親しくないけど仲間」という同心円になっていた。シュタイナーの「力の流れ」で言うと、「親しくないけど仲間=ミネラル」「あんまり親しくないけどまぁ仲間=エーテル」「ちょっと親しい仲間=アストラル」「すごく親しい仲間=エゴ」っていう向きに力が流れている。それぞれが別領域に分断されていなくて、外から内に力が流れるという感じなんですね。
■これはロジックじゃなくクオリアです。つまり、現にそういうふうに世界が体験されていたということです。そうした体験をどう取り戻すのか。これはスローフード問題と似た課題です。「有毒なものを使ったら罰せられるから良いものを使う」とか「儲かるからオーガニックでトレーサブルなものを作るとか売るとか」を、スローフード運動は嫌います。かわりに、「仲間に対して作るんだから、いいものを作りたい」という「仲間の存在からアフォードされる体験」を愛でるんです。そうした体験枠組を、いろんなところに実装できれば、「ユダヤ人は一人残らず殺せ」にはならない。
■「ユダヤ人だから殺していい」って「言葉の自動機械」じゃんね。ユダヤ人とそれ以外っていう言葉のカテゴリつまりロゴスさえなければ、友達になれるはずなのに。恋人にもなれるはずなのに。実際、そういうユダヤ人とドイツ人のカップルも少なからずいたでしょ。そう、性愛は社会の外だからです。言外・法外・損得外だからです。そんな風に、社会=特定のヒトの集まりの、外側で働く僕らの感覚を取り戻せば、ナチスのようなクズな「コントロール系」にはならないで済むんです。ナチスは、僕に言わせると「森の哲学を信奉している、と自分たちを意識している」だけの、自意識のオバケです。
■他方、ヤノマミのようなアマゾン先住民には、「森の哲学を信奉している、と自分たちを意識する」類の自己意識はなく、「森の哲学を生きている」だけ。その差異は、先ほどの『グリーン・フロンティア』にも描かれていましたね。別の言い方をすると、先住民たちの営みは受動的能動つまり中動態ですが、ナチスの営みは過剰に能動態です。同じことですが、シュタイナーは中動態ですが、ナチスは過剰に能動態です。その意味で「森の哲学」とは、イデオロギーみたいな選択肢じゃなくて、体験様式そのものなんです。ロゴスではなく、レンマだということです。結果としては同じように森を大切にしていると見えても、体験様式が全然違うんですよね。
■体験様式とは、感情や感覚の働きの形式です。これは選択じゃなく、選択できない感覚の働き。能動態ではなく中動態。問題は、そうした感情や感覚の働きが実装されているかどうかです。そう、これまた性愛ワークショップで話してきたことと同じです。『グリーン・フロンティア』でも、先住民のボスに収まった元ナチスの在り方に、問題が集約されていた。彼の書斎が描かれるけど、あらゆる「森の哲学」の文献を勉強し、全体性の原理を「知っている」。だから、先住民のグルに比べても遜色ない、カッコ付きの「神通力」を使えるわけですね。
■事情を知らない人は「先住民のグルもすごいが、このナチス残党もすごいわ!」となる。でも違う。先住民グルは「フュージョン系」。元ナチスは「コントロール系」。コントロールのためにフュージョンテクニックを勉強した。もちろん映画全体としては「共に神通力が使えてるけど、片方はクズだ、なぜならば……」っていうふうにロゴスでは描いていません。後から勉強したからいけないとは描いていないんです。かわりにレンマ的に断定している。理由を言語化できないけれど、とにかく不快感を与える存在だと。佇まいが不快なんですね。実に素晴らしい映画だと思う。
■思えば、僕がクズって言葉を使うのも、みんなに不快になってもらいたいからです。一部の頓馬は、僕の言葉に不快になるけど(笑)、それは言外のシンクロ能力が存在しないか、自分がクズだから認知的に整合化しているだけです。「言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシン」って端的に不快じゃん。そんなヤツと友達になりたい? 恋人になりたい? 結婚して家庭を築きたい? ありえないよ。「言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシン」って存在の佇まいそのものが端的に不快だからだよね。「言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシン」ってクズなんだぜ、と一万回言明することで、〝「言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシン」=クズ〟っていう感覚や感情の働きを実装させる実践なんです。そうして「言外・法外・損得外」のシンクロ可能性を回復しようとしている。それだけです。
■「排除はいけません」みたいな藤原達史さんの物言いの気持ちは分かるけど、単なる終着点の言語的先取りに過ぎません。「排除はいけない」って伝えても、物事は1ミリも変わりません。必要なのは、感覚の実装です。「伝達ではなく、実装implementation」と今申し上げたことは、実は「真理ではなく、『内なる光』」「認識ではなく、動機づけ」というプラグマティズムの定理のパラフレーズでもある。そうした認識も一重に紀元前5世紀の初期ギリシャやインドに遡ります。認識そのものじゃなく、認識によって何が引き金を引かれるかが問題なんです。

鶴田: ありがとうございます。そろそろ前半を終えて休憩に入らせていただきたいと思うんですけれども、僕の方から感想を述べさせていただきたいんですが。
 まず今おっしゃったような終着点についてはある程度色んな人が昔から言ってきているところであって、そのための処方箋っていうものが考えられないが故に、終着点ばかりの言説が繰り返されてきていると。そして「その処方箋の1つに料理がなり得るか?」ということをここまで考えてきたんですけども、お話を伺っていると、どうなんだろうって感じで。
 料理をするっていうときに、道端に生えている木から何かをもぎ取って食べるってことではなくって、スーパーで食材を買って、整備された台所という環境に立って料理をするわけですよね。だからいくら身体性だって言っても、かなりコントロールされた空間でやっている選択的行為に過ぎないと思うわけですね。なので、そこで感染性が生じないっていうのは確かにそうなのかなと。料理もやはり技術だとおっしゃったので、技術のもともとの語源はギリシャ語のテクネーとかで、もともと芸術と同じ意味なわけですよね。
 最近宮台さんも本を出されましたけれど、音楽とか、ここで映画批評ラボもやってらっしゃって、「アートと料理はどこがどう違うのか」っていうお話も伺いたかったんですけども、今おっしゃったことでなんとなく分かったような気もして。やっぱりちょっと料理の感染性が今のままでは低いのかなっていう。誰かが料理をやっていると「それ、やりたい!」ってならないような、既に切り離された人工化された空間になっているが故に、いま宮台さんがおっしゃったように「あぁ、ありがとう、助かった」って、それだけの話になっちゃってんのかなっていう気がして。



【本題3: 料理とアート:外に連れ出すもの】

宮台:■そうですね。僕が話しているアートの概念って、18世紀末から出てきたロマン主義のものなんですね。ロマン主義のアートの概念は、初期ギリシャを参照します。ってのは、何を参照してることになるかっていうと、要は「社会に閉じ込められるな」っていうことなんです。社会の外に出れば、もはや社会の原理は通用しない。つまり、社会から見れば、言葉や法や損得勘定が通用しないデタラメがあるだけなんです。
■それだけじゃない。頽落した後期ロマン派は、「社会の外に世界がある」と描きました。でも、本当は「社会の中にも世界がある」んです。ソポクレスの「ギリシャ悲劇」がそうでしょ。ゼミでも『オイディプス』や『アンティゴネー』を議論してきました。「社会の中にも、世界は闖入している」んです。ベン図で描けば、世界に相当する円の中に、社会に相当する円がある。正確には「書かれざる囲い」を意味する点線で描いた世界の円の中に、実線で描いた社会の円がある。だから、世界の性質は社会をも貫徹する。世界がデタラメであるように、社会もデタラメ。初期ロマン派はそれを自覚していたんです。
■皆さんは、社会に不愉快なことが多くてイライラするでしょ。「なんで安倍晋三が首相をやってんだよ」ってイライラしているはずです(笑)。それは皆さんが「社会に閉じ込められている」からです。社会に安倍やトランプがいて首相や大統領をやっているというデタラメは、当たり前であって、そんなものは社会のデフォルトに過ぎない。それを突きつけるのが、ギリシャ悲劇の役割でしたし、ギリシャ叙事詩の役割でした。殺人・強盗・強姦・放火のオンパレードだった「暗黒の400年」を忘れないための営みでした。
■すると、社会に閉じ込められていた人が、社会の外のみならず社会の中をも貫徹している世界のデタラメに、触れることになります。すると、傷つきます。「あぁ、俺達は何を見てたのだろう」「俺たちが社会だと思って見てたものは、何だったのだろう」「社会って、所詮は幻みたいなものなのかなぁ」ってね。だから、近代のアート論、つまり、ロマン派起源のアート論は、「社会の中に閉じ込められた人々」を傷つけることで「開く」ことが作業目標になります。人畜無害なものは、いかなる意味でもアートとは言えません。
■桜を見て「美しいなぁ」って、どういう次元で感じているのか。同じ意味で、アートを見て「美しいなぁ」って、どういう次元で感じているのか。その美しさには、「社会に閉じ込められていた自分」が「社会の外に連れ出されて震える」ような凄まじさが、含まれているのかどうか。坂口安吾の『桜の森の満開の下』の美しさは、死の残酷さと表裏一体で、「墓場の桜は美しいのは、死体が埋まった土の上の桜が美しく咲くからだ」という民間伝承を下敷きにするけれど、そういう美しさなのかどうかということです。
■料理に戻ると、料理がアートと機能的に等価であるには、料理を通じて、僕らが社会の外に連れ出されるかどうか、閉じ込められている僕らが閉じ込められていない状態に移行できるかどうかってことです。できるならば、料理はアートでありうる。それが『美味しんぼ』の主題です。雁屋哲原作の『美味しんぼ』は昭和的コンテンツなので、若い人はもう知らないかもしれないけど、「フィジカル(物理的・身体的)に舌で味わって美味しいっていう問題じゃねぇんだよ!」ってことをずっと言ってきているのは、そういうこと。つまり「世界は思っていたようなものじゃなかった」っていう気づきを与える契機に、料理がなるわけです。

清水: 後半に入る前に忘れる前に私も言いたいことがあるんですね。地球は1つの生命のシステムだ、これはもう随分前から言われていることなんですが、それの根本が今のコロナの問題で今チャンスなんじゃないかというのがあって、宮台さんが常に言われる損得マシンが実はこれが一番問題で、全人類が今考えているのは消費というウソのモーターをどういう風にコロナ前に戻すかっていうことが、みんなの頭にあるわけですよ。
 これは何かっていうと、今の地球っていうその惑星の生命の一つチームのシステムっていう前に、今まで動かしてきたシステムが政治であり、経済っていうところで損得マシンが消費を回すわけですよ。ここを何とかする力が料理なんじゃないかと直感的に思っていて、料理を経済の中に組み込んで資源として流通させるっていう農業革命以降そうなったのも分かるし、産業革命以降工業化まで工業製品にしてしまっているわけですよ。
 そういうことが、一つの生命システムってことが認識できる前に、今問題になっている一番元なんで、ここを何とかする方法がないのかと思っている。法に触れる問題なんですけど、本当にいつも宮台さんのラジオをいろいろお聞きしていて損得マシンっていわれる度に、そういうことを考えているんですけどね。この消費のモーターに入っている食・食べるっていうものをもう一度取り出すっていうことはできないもんですかね。


宮台:■今は普段の生活じゃ無理だと思う。僕だったら、これも昭和的なものだけど、キャンプファイヤーとか焚火とかを使う。いいですか、皆さん。昔も各自治体の火災消防条例でも焚火はダメだったんだけど、1990年代半ばまでは焚火をやって通報されて消防が来るなんてことはなかったんですよ。代々木公園の中でも、1991年くらいまでは、みんな焚火しがなら花見をしていました。打ち上げ花火も男の子はみんな水平に撃っていたよね。それが禁止されている学校もあっけど、大人を含めて「法の奴隷」じゃなかったから、さして問題にしなかった。大人も、焚火や、花火の水平撃ちに関する、共同身体性を持っていたってこと。つまり、大人も花火を見ると、思わずアフォードされていたわけ(笑)。
■昭和の料理と言えば、家庭料理もあるけど、焚火の焼き芋とか、飯盒炊飯とか、キャンプファイヤーもあったよね。外でみんなで調理をした。飯盒炊飯といえば、僕の家族や複数の家族が集まって、何十回もやりました。よく小学生たちみんなでカレーを作ったよ。今の若い人たちは調理の面倒を考えてコストだと思うかもしれないけれど、振り返ると、コストどころか1つの財産、宝だったことが分かります。お腹が空いていたら、本当はすぐにレトルトで食べたいじゃん。小学生のころはレトルトじゃなく、缶入りカレーだったけれど。お腹空いてるのに、水を沸かして、玉ねぎとじゃがいもと人参を切って、って始まるわけ。昔は水を沸かしてから玉ねぎ入れたのね。まちがった順序じゃなくて。昭和の順序は、水を沸かして玉ねぎとじゃがいも人参を入れるの。どうでもいいけど(笑)。
■そうやってみんなでカレーを作ると、お腹が空いてるのになかなかできないの。やがて「結構いい匂いしてきたじゃん」とか言って、みんなでがつがつ食べる。空間性も時間性も、当時からして既に「体験デザイン」だったんです。それを思うと、料理をめぐる「体験デザイナー」が今どれだけいるのかってことが、ポイントです。だから、繰り返しているけれど、料理って、体験デザインの橋頭堡なんです。料理を媒介にしてどう共通感覚や共同身体性を回復するのかを考えれば、料理を越えた他の営みについても処方箋が見えてくる。そういう風に分野や界隈を串刺しにして、普遍的な処方箋を見つけ出す。すると、それを一つの「体験デザイン」の方法論として確立し、拡大していけるようになります。
■さっき言ったことをもう一度言います。「排除はいけません」とか「いつも全体性を考えましょう」とか「全体性を考えるからといって人間を蔑ろにしちゃいけません」とか──これらはキャリコットの枠組みだけど──そんな中途半端なロゴスを幾ら展開しても、無意味です。処方箋として意味があるのは、体が動くのか、それゆえに心が動くのか。つまり共同身体性と共通感覚だけです。これも繰り返すと、そこで大切なのは、動かないヤツをどうするかっていう問題です。クズがクズであるのはクズのせいじゃない。だから「土によって育てられない劣った血の輩」とかじゃない。クズもまた包摂し、治していく方法を考えることが重要です。僕のゼミはそのための方法論のカタマリです。料理は、美味しいと誰もが食べたくなるよね。料理を食わないでナリシング・ピルだけで生きる人も幸い今はいないよね。将来は分からないけれど、今のところ料理は重要な橋頭堡。
■だから、清水さんへのお答えは、「工夫すれば出来る」ってことです。とにかく工夫が大事です。さっきの、うちの一番下の子と同じで、「虫取り? それ一年前の話でしょ? 今はマインクラフトなの!」って言ってる子に、「いや、虫取りでしょ!」なんて幾ら言っても、「パパ、一人で虫取ってきたら」で終了(笑)。言葉なんて通用しない。彼を再びアフォードするには何をしたらいいかを考えて、言葉の外側に体験を組織してみせること。それが『ウンコのおじさん』で示した「体験デザイナーの極意」です。だから、多くの場合、「料理に関わる体験デザイナー」が、料理する人とは別に必要になるんです。

鶴田: はい、我々がコストだと思っているものが、実は財産であると、そういう発想の転換をデザインする体験デザイナーの先頭に料理が立ち得るっていうかなり前向きな結論がでたところで、いったん休憩にしたいと思います。


休憩


以下、後編