前半の2分の2:文字起こし|DarwinRoom|料理を通じて倫理を回復する
(前半の2分の1からつづく)
【本題1: フュージョンからコントロールへの頽落:共同身体性・共通感覚・共同体的前提】
宮台:■そう。前置きが長かったけど、ここから本題です。いつもの僕の言葉だけど「社会はいいとこどりできない」。どんなリベラル思想も「我々の平等」を主張するので、「誰が我々か」を巡る排除を必ず伴います。そのことに敏感であれと主張したのがシャンタル・ムフみたいな「ラディカル・ディクラシー」です。でも、彼女らの「処方箋」は、「討議を闘議にレベルアップすることで、『誰が我々か』の境界線を絶えず動かすべきだ、動かさないから問題が生じるのだ」というもの。はい、その通りです。だけど、さっきと同じ単なる「結論の先取り」だよね。「そうなればいいなぁ」という誰もが抱きがちな願望を、「それが倫理だ」と結論しているだけ。所詮は「処方箋モドキ」に過ぎない。
■ただ、僕自身も、まさにその水準で「クズ」「クソ」「クソがついたケツをなめるクズ」という言葉を使っている。誰もが倫理を口にした瞬間、結論の先取りにならざるを得ない。なぜなら、倫理には「時間的貫徹の構え」が含まれるからです。だから、あくまで「仮の姿」で「これが共同性だ」──正確には「これが共同性たるべきだ」──という結論を先取りした倫理を語る限り、その営みは否定されてはならない。実際僕は、いつも3人の子どもたちに「パパ、また昭和かよー」って言われてる。6歳児にさえ言われてる(笑)。それは悲しい状況だけれど、僕が昭和を生きてきた以上、何をどう語っても必ず「昭和すごろく」的な昭和プラットフォームが残響する。それは仕方ないんです。僕が言いたいのは、いいとこどりの倫理を語る「だけ」じゃダメだということです。問題はその先です。
鶴田: 僕みたいに昭和を実際に知らない人間でさえ……。
宮台:■知らないんだよね、おっそろしいことに(笑)。
鶴田: ははは(笑)。でも昭和の家庭的な雰囲気、昭和の食卓みたいなものを、一種の規範化されたカッコ付きの理想の食卓としてイメージしてしまいがちだと思うんですよ。ただ、それはいけないってことも、平成のフェミニズムとかの流れを知っていると分かるんですね。ただ具体的にどのような、一種の共同性とか、どのようなものに向かえばいいのかっていう、そのイメージがすごく貧困なんですね。昭和ではいけないと分かっているけども、でも昭和しか思いつかないという状態があって。その上で、前回宮台さんにお話いただいた、先の人類学が言っているような、人間と動植物まで含めたそれらに成り切ることで、仲間であるという意識を育んでいた、かつての共同体とか。宮台さんもテキストの中で、「そういった感覚ってものから倫理は生じるんだ」ってお話をされていて。やっぱり「共同体」ってことは、なにがしかの手がかりになると思うんですね。
宮台:■そう。一定の条件を備えた環境の中でだけ「倫理が育まれる」。
鶴田: 僕もそうですけど、短絡的で貧困な共同体のイメージではない、いかなる共同体が可能なのかってことを、料理に関連させていただければありがたいんですけども。宮台さんの理想とされる共同体のイメージって、どんなものなのかなっていう。
宮台:■イメージの話はなかなか難しい。粗雑な具体例をあげると、鶴田さんでさえ「また昭和かよー」って僕を揶揄することになる(笑)。
鶴田: ははは(笑)。
宮台:■具体的水準ではなく、抽象的に──正確にはfunctional(機能的)に──考えなければいけない。共同体の定義って社会学でも幾つかあるが、古くから知られているのは「みんなが何事も同じように体験していること」。正確にいうと「そのように当てに出来ること」。これを「共通感覚をお互いに当てに出来る」とも表現できる。人間の感覚が本当に同じかは検証しようがないので、「お互い当てにし合っている」ってところで議論を進めるのが社会システム理論の特徴。「共通感覚」っていう言葉もその意味で使います。それを踏まえると、取り戻すべきは「僕だけがそう思っているんじゃない」「僕だけがそう感じているんじゃない」って思えるという意味での、お互いの共通感覚への信頼だと思います。それが問題だということは、料理だけではなくて、あらゆる問題について言えます。
■なぜ共通感覚を取り戻さねばいけないのか。そうしないとこの社会から倫理が消えるからです。倫理っていうのは、ロジックやロゴスが基盤じゃない。「それは許せない。みんなも許せないはずだ」という感情が基盤です。「許せないという感情を自分が持ち、それを不特定の他者に対しても当てにできる」というfactuality(事実性)です。短く「許せないという感覚の共同性」と言ってもいい。factualityだから、倫理が社会から消えることがあるってことです。「それは許せない、みんなも許せないはずだ」なんて誰も思っていなくても、単に「監視と処罰」だけで秩序が保てる社会を考えることができるでしょ?マイケル・サンデルがアリストテレスの『ニコマコス倫理学』を引いて「倫理で回る社会」から「監視と処罰で回る社会」への変化を憂えていたでしょ?抽象化には「内発性から損得勘定へ」への頽落です。中国のような「全面信用スコア化」がもたらす変化です。
■僕の定義では、クズ=「言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシン」。この3つは同時に起こるんだけれど、僕は「人間がただの損得マシンになる」のを許せないし、みんなも許せないはずだと確信する。何かいいことをする場合、「得になるから」じゃなく、「いいことをしたいから」やるんだっていう態勢が圧倒的にいい。そうじゃなくなることが、僕は許せないし、みんなも許せないはずだと思う。福音書が語る「善きサマリア人の喩え」が告げることです。僕は、「それは許せない、みんなも許せないはずだ」という感情が社会から脱落すること自体に「それは許せない、みんなも許せないはずだ」という感情を持つ人が、まだ社会に残っているというfactuality(事実性)への信頼をベースに、尻すぼみになりがちな「それは許せない、みんなも許せないはずだ」という「許せない感覚の共同性」をどうやって取り戻すかっていうところから、ものを考えます。
鶴田: そうすると、共同体ってことでイメージしがちな、横並びの共同性というよりは、縦の共同性というか、そういう感覚を持っているものと持っていないもの、そういうところを含めた共同性なのかな……。
宮台:■まさにそう!社会学でいう社会とは、言葉と法と損得勘定がないと回らない定住社会のことだけれど、事実として、社会には「許せないという感覚の共同性」を持つ者たちと持たない者たちが必ずいて、事実として、現世代の「許せないという感覚の共同性」を持つ者たちが次世代の「許せないという感覚の共同性」を持つ者たちに「感覚の共同性」をsuccession(継承)してきました。鶴田さんが言う通り、横の共同性が生じるためにも、縦の共同性が必要なんです。コミュニタリアンが先祖代々から子々孫々まで含めた「時間軸の共同性」を重視するのも、そのことがあるからですよね。たとえば僕はプログレ系のドラムスをプレイするけれど、昔は音楽っていうとバンドでやる、あるいはオーケストレーションでやるのが基本だったでしょ? 今はDTM(デスクトップミュージック)のテックがダウンサイジング化して、打ち込みでやる人が増えてるよね。すると、昔と違って……まぁこの例も「また昭和かよ」になるなあ(笑)。
鶴田: ふふふふふ(笑)。
宮台:■まぁ音楽の話を続けると、「感覚の共同性」が分断された状態で「オレはこれがいいと思う」というようになる。それを「こだわり」という言葉で表現するようになったのが、この25年間。「イタイ」という言葉と並行して拡がってきたんだよね。「イタイ」ってのは、僕のいろんな文章にあるように、過剰さを忌避する言葉です。ってことは「分断されているがゆえに、むしろ過剰さを忌避するようになった」んだね。僕の十八番のサブカルチャー研究からは、そのように言えます。だからさ、鶴田さんが一生懸命料理して、みんなにごちそうしたとしても、それは共同体的共通感覚やそのベースになる共同身体性を欠いているから、「他の人がやらないことをやってすごいね」で終わるっていう。
■共通感覚やそのベースになる共同身体性を欠いた状態だと、僕のよく使う言い方で言うと「技芸がmimesis(感染)を生じさせない」。「僕も料理してみたいなぁ」とか「自分も楽器が弾けるようになりたいなぁ」とかね。身体性をベースにした感染がどんどん生じなくなってるでしょ? だからoperational goal(作業目標)としては、mimesis(感染)が容易に生じるような条件を、どうやって回復するかが、戦略的に大切になるんですね。鶴田さんがみんなの前で料理をふるまうだけじゃ、回復しないんですよ。「わざわざ作らなくてもいいのに、どうもありがとう」で終わっちゃう(笑)。だから、僕は子どもを相手にする場合、虫取りとかトカゲ取りみたいな外遊びとかから始めるわけです。
■最近ちょっと面白いことがあってね。コロナによる外出自粛要請で、子どもたちが外で遊ばなくなったでしょ? うちの虫好きだった6才のガキも、あんなに虫好きで、いつもバッタを取ってカマキリにあげていたのに、マインクラフトしかやらなくなっちゃったんですよ(笑)。いや、マイクラも、一応ゲームの中では一番クリエイティブだなっていう信念で、子どもたちにオススメをした結果なんだけれど、マイクラの外に全く出なくなっちゃった。「散歩しようよ」「面倒くさ~い」「あんなに虫好きだったじゃん」「昔の話~」ってね、箸にも棒にもかからないわけだ(笑)。
■ところがね、こないだ外出自粛要請も軽くなったので、山梨のある場所で虫取りをしたんです。正確にいうと、虫がたくさんいる所に行った。すると面白いですね。6歳児が、虫を取ろうと思っていないのに、気がつくと体が動いちゃってるの。イナゴとか蜘蛛とかを自動機械のように採っているんです。「お~やっぱ虫取り好きじゃん」って言ったら、「別に好きなんじゃなくて、虫がいると自然に捕まえちゃうんだよ〜」って言ってね。これってすごいなと思った。これだよなって。つまりギブスン流の生態心理学が言う「環境によるアフォーダンス」が生じていたんですよ。まさに虫がアフォードしていたわけ。アフォードするってのは「モノの配置がヒトに行為を〝与える〟」という意味ですけどね。
■まぁとにかく、すごい光景を見ちゃったわけよ。料理でいうと、冷蔵庫を開けて何か食材が見えた途端、選択としてよりも、視界に入った素材によってアフォードされて、気がついたら料理を作っちゃってた、みたいなこと、あるでしょ? 生態心理学の発想からすると、技芸的な意味での技術的遂行って、簡単に言うと「モノから呼びかけられて」やってるもんなんですよ。生態心理学がよく出す例でいえば、ある場所に石があって、思わず腰掛けたとする。すると、「どこに腰掛けようかな」と思って、石を探して座ったんじゃなくてね、石が座るに適した形状があると──正確にいえば「座っている状態を〝身体的に〟想像させるような物理的性質があると──気がつくともう座ってるっていうね。
■だから、技芸の本質って2つあることになる。1つは、ヒトから心身への呼び掛けとしてのmimesis(感染)。もう1つは、モノから心身への呼び掛けとしてのaffordanceなんですね。ガキを見ていて思い出しました。子どもの頃、僕もそうだったんですよ。っていうか、今でもそうなんだけど、虫を見ると思わず捕まえちゃってる。選択じゃない。虫を見た瞬間ガーッと体が動く。ちなみに、子どもって虫目(むしめ)なんですよ。視線が低いせいもあるのかな。これは子どもに適わない。僕が1匹見つける間に、ガキが5匹見つけてるの。そうやって、どんどん森にアフォードされて自動機械みたいに動いているガキを見ると、僕はどう思うかって、「お~やっと仲間に戻ってくれた~!」ってね。その感じですよ。あっ、伝わってますね。みなさん、笑ってくださってる(笑)。
■これは昭和の問題じゃなくて──しつこいけど(笑)──、すごい普遍的な問題だと思うんです。人はね、選択している限りは、ヒトから呼び掛けられるmimesis(感染)も生じないし、モノから呼び掛けられるアフォーダンスも生じない。なんか、気がついたらそれをやってちゃってるっていう状態。それこそが、キャリコットがいう「生物も無生物も含めた場が与えるcommunal(共同体的)な感覚」の出発点だということです。
■かつて性愛ワークショップをやってた時に言ったことだけど、「どうやってセックスすればいいのかな」って考えている状態は、「どうやって虫を取ればいいのかな」って考えているのと同じで、それは「クズの始まり」なんです(笑)。そこは技芸。修行して、慣れて、アフォードされるしかない。人間は、モノからだけじゃなく、ヒトからもアフォードされるんです。表情とか姿勢とか体温とかバイブレーションとかによってね。そんなふうに、「だからこうしよう」って判断する以前にアフォードされて、自動的にある振る舞いが生じている状態が、僕がいうフュージョン。性愛はコントロールではなくフュージョンです。ってことは、既に心身の体制が「フュージョンからコントロールへ」と頽落している場合、性愛だけをうまくやることは到底無理だということになりますね。
■共同体のベースは、ヒトから呼び掛けられる感染と、モノから呼び掛けられるアフォーダンスです。ただし、アフォーダンスにはヒトの心身からの呼び掛けも含まれます。そして、「他者を起点とする、感染とアフォーダンス」を、僕はフュージョンと呼びます。ただし、この他者には、動植物も無機物も含まれます。共同体の定義は「みんなが同じように体験していると信頼し合うこと」だと言いましたね。「同じように体験する」というのは、「他者を起点とする、感染とアフォーダンス」、つまりフュージョンがベースです。言葉はその後にやってくる。だからフュージョンを「共同身体性」と呼びます。共同身体性common physicalityが与える共通感覚common senseが、言葉に共同体的共通前提communal common-premiseを与え、それが共同体community=communal groupつまり仲間を与えます。それが性愛論などで示してきた概念系ですよね。
■だから、共同体的communalなものを取り戻すとは、共同身体性に裏打ちされた共通感覚・に裏打ちされた言葉の共通前提を、取り戻すことです。それが「言外・法外・損得外のシンクロ」と呼んでいるものです。感覚が人ごとの言葉によって分断されている状況に抗って、communalなものを取り戻すことが、『美味しんぼ』の主題でもあったことを思い出してください。「料理の美味しさってなんなんだろう?」と。グルメ的な意味での、つまり意識高い系的な意味での「これは1つ星・2つ星・3つ星の美味しさだ」っていうんじゃなく、長い道のりを歩いていって、やっと着いたナントカ庵で、美味しい湧き水を1杯飲ましてもらったら、何にも増して美味しかった、っていうような体験。この体験を味わえることこそ「最高のグルメ」なんだって『美味しんぼ』が描いていたでしょ?
■ここまで語って、やっと、料理って何なのかを語れます。作るプロセス、食べるプロセス、遡って、食材を育てるプロセス、食材加工のプロセス、流通のプロセスを含めて、今話した意味でのcommunalなものを取り戻さないと、僕らは「料理を通じて倫理を回復する」ことはできない。言い換えると「言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシン」の状態から外に出て「言外・法外・損得外のシンクロ」を体験することできない。それが体験できないと、料理が味わえないだけでなく、性愛が忌避され、祭りが忌避されることになる。逆に言うと、その意味において料理や性愛や祭りを味わえれば、「共同身体性→共通感覚→共同体的共通前提」という回路が回復されている。単に言葉で何かを想像する営みではないということです。あの、鶴田くんに伝わってますかこれ(笑)。
鶴田: まぁ、消化中ですね(笑)。
【本題2: ………
(後半の2分の1に続く)
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