前半の2分の1:文字起こし|DarwinRoom|料理を通じて倫理を回復する|2020.05.30
【DarwinRoom】料理の人類学No.9 料理を通じて倫理を回復する 2020.05.30(土)
清水隆夫さん:ダーウィンルーム代表
鶴田想人さん:東京大学大学院総合文化研究科修士課程(科学史・科学哲学)
宮台真司 :社会学者/東京都立大学教授
(文字起こし:大上隼人/立石絢佳)
【まえふり:前回までを受ける】
清水隆夫(以下、清水): 本日は第9回「料理の人類学入門」にご参加いただきありがとうございます。私、DarwinRoomの代表の清水隆夫でございます。よろしくお願いいたします。今日はゲストに社会学者で東京都立大学教授の宮台真司さんをお招きして、「料理から見える逆説」というテーマでスタートしたいと思っております。今日の担当のキュレーターは鶴田想人さんでございます。
「料理の人類学」がはじめての方もおられますので、簡単に「料理の人類学」のコンセプトのお話をさせていただきます。今回のコロナ騒動で大変なことになっておりますが、今はある人によれば「第3の革命」、環境革命じゃないかというふうに言われています。「第3の革命」というのは、第1回目が農業革命、第2回目が産業革命という意味で、第3の革命というふうに言われておるわけです。ホモ・サピエンスの我々にとっての3回の革命ですが、今回の「料理の人類学」は、その前に「料理の革命」があったんじゃないかという考え方からスタートしております。
第1回の「料理の革命」というのは、およそ200万年前のホモ・ハビリスとかホモ・エレクトス、私たちの先祖が火を使って料理をはじめたというところから、私たち人類の進化ははじまっているんじゃないか、そういう観点で「料理の人類学」を注目いたしました。それは200年前、料理というのは内的にあったものを外化してはじめたという、他の生き物にはない行為を人類ははじめたわけです。それによって脳が大きくなり、二足歩行をやり、今日まで進化してきた。
こういうことからすればですね、今も進化の途中であって、おそらく料理が私たち暮らしを動かしているOSなんじゃないかと。そういう観点で料理自体を研究するのではなくて、料理から見た社会というか、「料理のメガネ」を発明しようと。「料理のメガネ」というのは、チャールズ・ダーウィンが進化の概念を作ったように、「進化のメガネ」に対して「料理のメガネ」というふうに呼んでいます(笑)。そういう俯瞰したモノの見方で考えていこうと。今日はそういう意味で、コロナウイルスの騒動の真っ只中ではありますが、宮台さんのご提案いただいている「料理から見る逆説」というのはとても大きなテーマで、今の私たちの現実を考える意味でも大きなところに触れるテーマなんじゃないかなというふうに考えております。それでは鶴田さん、よろしくお願いします。
鶴田想人(以下、鶴田): よろしくお願いします。今日の担当をさせていただく鶴田と申します。僕は東京大学で科学史の修士課程の学生なんですけども、去年の8月からDarwinRoomで「料理の人類学」というイベントに参加してきました。今日は宮台真司さんをお迎えしてお話を伺うんですが、以前、宮台さんには3月28日に「料理の人類学」の第7回を、はじめてオンラインで開催した際にご参加いただいて、そこで本質的な、クリティカルなコメントをいただいたので、それを文字起こししたものを今回、配布テキストという形で配らせていただきました。このテキストを読んだ方、どれくらいいるかお伺いしたいのですが。
宮台真司(以下、宮台):■これは前回の長い質問をブラッシュアップして、皆さんにお見せしたということですよね。
鶴田: はい。一応今日は、これを前提にということなんですが、この話も簡単に振り返っていただきながら、この先を話していただくことなので、よろしくお願いします。今日は前半で僕から質問させていただいて、後半には皆さんからの質問コメントに対して、宮台さんからお話をいただきたいと思います。
その前に、もう少し僕のほうから、これまでの流れをご説明させていただきます。これまで実際にゲストとしては、たとえば関野吉晴さんという文化人類学者・探検家の方に「ヤノマミ族」という、我々とは正反対の暮らしをしている人たちの暮らしのあり方、料理のあり方のお話。あるいはホモ・サピエンスの起源から現在までの料理以前の料理の話を伺ったりだとか。一方で石川伸一さんという、分子調理学の専門家の方をお招きして、料理とテクノロジーが掛け合わされることで、今後どのような料理を我々は食べていくのかという、そういうお話をしていただきました。その中で、長期的なスパンで、人類の誕生からその先まで、見通してきたわけなんですけども。今回宮台さんには、もう少し我々の時代に近接したお話、質問をしたいと思います。
まず、これまでの探求は長期的スパンだったので、上手に扱えてなかった部分というのが「料理・食の産業化」の部分だったんですね。料理や食が産業化する中で、我々が火を囲むようにして、料理を中心として最初に発展してきたホモ・サピエンスというのが、いつしか料理を中心から周縁に追いやって、料理を周縁化して、かつ周縁化した料理すら自分でしなくなったと。できあがった製品を食べるようになっていった。そういう歴史を少しクローズアップして見てみたいと思っていたところに、宮台さんの(前回の)問いかけがありました。
この中に「システム化」という言葉があって、その前提として「料理は技術である」というお考えがあるかと思うんですけども。この「料理が技術である」ということが引き起こすシステム化の逆説というか、それについて、もう一度お話いただきたいと思います。
【準備1: 技芸からテクノロジーへ:社会に閉じ込められる】
宮台:■鶴田さんありがとうございます。ざっくり言うと、僕らは便利で負担のないものを求めるんです。どうせある場所に行くんだったら、特に理由がない場合は近道をしようとするわけですよ。これはゲノム的な基盤に基づきます。近道しないと獲物をたくさん捕れなくて、生き残り競争に負けるといった事実があったということですね。だから便利で快適なもの、負担が少ないものを求めて技術が進化してきたわけです。それが、負担免除――負担を我々から取り除いてくれるもの――が技術だというハイデッガーの理解です。
■ここから先、ここにいらっしゃる方はハイデッガー[ドイツの哲学者]に詳しくないという前提でハイデッガーのことを出さずに言うと(笑)、技術って、たとえば僕ならば武術とか楽器演奏とかも、技術なんです。ただ、これはテクニックというふうに言えるようなもので、それを特に指す時は「技芸」とか「芸事」と訳してもいいでしょう。弓矢をうまく使えるとか、人をうまく組織して集団でマンモスを狩れるとか、これらも負担免除という意味での、技芸的な技術です。注意してほしいのは、ここでは僕らが主体であることです。別の言葉で言うと、僕らが僕らのために技術を使っているのは自明なことだ、と体験しているんです。
■ところが、技術は、最初は技芸や芸事だったものが、やがて一部がテクノロジーに進化していきます。これは社会学の重要な主題だけれど、テクノロジーの進化は社会の分業体制の進化と表裏一体なんですね。テクノロジーと分業の進展は「鷄・卵問題」です。その結果どうなるかを考えてみてください。皆さんお分かりのように、分業体制そのものが、自分で全部はやらないで他に任せるものですね(笑)。国際分業体制を正当化したリカード[イギリスの経済学者]の比較優位説を見れば分かります。「自分たちは自分たちが得意なものを作ればいい、他は国際貿易で他に売って、他から必要なものを買おう」と。これも、国際貿易が回っているという事実に、依存できることを、前提にしているわけです。ちなみに「テック」という場合はハイテクノロジーを指しますが、今回は立ち入りません。
■まとめると、技術の「技芸からテクノロジーへ」という流れは、負担免除の複雑化というだけじゃなく、「依存化」なんです。ぶっちゃけ「自分だけでは立てない状態になっていく方向」ですね。これは必然的な流れなので、方向を間違ったわけじゃありません。まず、こうした分業化とテクノロジー化が一体になった結果としての依存化を「システム化」と呼んでいます。だから、システム化とは、今お話しした国際分業体制に象徴されるような、あるいは、デュルケーム[フランスの社会学者]という人が言った「有機的連帯」に象徴されるような、複雑な全体性の中で自分がまさにparticipantとして――分業体制の分掌に参加する形で──生きるようになることです。だから、システム化とは依存化なんです。
■「システム化」の英語はsystemizationなんですけれど、ある段階から敷居=thresholdを超えて、「汎システム化pan-systemization」という主客が逆転した状態になります。主客逆転って難しいように聞こえるかもしれないけれど、簡単な事実です。最初、人間は、自分が便利で快適になるために、入れ替え可能な道具としてシステムを使いますが、やがて、人間のほうが、システムにとっての道具になります。僕らの側が自己維持的な当体bodyなのではなく、システムの側が自己維持的な当体になっていくわけですね。これも、どこかで道を間違えたのではありません。システムが複雑化していけば、やがて起こらざるを得ない体験です。
■その結果、残念だけれど、pan-systemizationによってあらゆる領域で例外なく不透明性が増大して、僕らは尊厳を失いがちになります。鶴田さんに読んでいただいた『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』という本も、pan-systemizationによる不透明化を、犯罪や消費や宗教やサブカルチャーなど、いろんな分野に則して事細かに記述したものです。僕らはもう国際分業体制がどうなっているのか知らない。国際分業サプライチェーンの末端がコンビニですが、なぜコンビニのレジでお金を払うと弁当が食べられるのか知らない。弁当の食材たちがどんなふうに僕らの手元までくるのか知らない。pan-systemizationとは、システムへの過剰依存ゆえに、僕らが世界や社会が分からなくなった状態に相当します。それが先ほどの「僕らが便利になるためにシステムを使っていたのが、いつのまにか自分たちの意思に関わらずシステムに使われる状態になる」です。
■これは、マックス・ウェーバー[ドイツの政治学者]が『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』──「プロ倫」──などに、資本主義や行政官僚制の特徴としてすでに書いていることです。「我々が、宗教的に形成された資本主義の精神によって、資本主義を営みはじめた時期とは違って、資本主義が一旦回るようになると、資本主義からこぼれ落ちると生きていけないから、資本主義の精神があるかないかに関係なく、過剰な損を被らないように否が応でも資本主義に参加していくのだ」と。官僚制について書かれた数多の論文は、人事と予算の動物である官僚を「没人格」──いわばボット──として記述していますが、同じ没人格化が資本主義においても生じるというわけです。
■再確認すると、全ての人間が、入れ替え可能なボットとして、システムに使われるようになる、というpan-systemizationの概念的なコアは、「ウェーバーの予想」としてに語られていることです。そうなってくると、ウェーバーも想定していなかった次の段階が生じます。僕らが負担免除――コストダウンとかですが――を狙ってシステムを使っていたところが、今度はシステムにとって人間がコストになるんですよね。人間って面倒くさいじゃないですか。食わせなきゃいけないし、ご機嫌を取らなきゃいけない。そんな人間を労働力として使うよりも、マシンに置き換えたほうが便利でしょう。そういうふうに20世紀前半には社会学者が「フォード化」と呼ぶオートメーション化が進んだわけですね。
■今、システムが人間をコストと見ているだけでなく、僕ら自身が人間をコストだと思っています。たとえば、消費においては、お店で店員と話したり交渉することを面倒くさがるようになっています。性愛においては、生身の女を相手にすることを面倒くさがって、ヴァーチャルに向かっています。「無人レジのほうがいい」「ゲーム・キャラのほうがいい」という感受性が拡がりつつあります。人間をコストだと感じる人間自体が、システムから見るとコストとしてカウントされている皮肉な状態です。このことが、僕が、料理だけじゃなく、ポップカルチャーとかいろんなものを論じる時の前提になっています。
■前回、鶴田さんにお話したのは、日本でpan-systemizationが顕著になるのが1980年代だということ。セブンイレブンのようなコンビニが大爆発しました。コンビニでは顕名性と「善意&内発性」が支配する地元商店と違い、匿名性と「マニュアル&役割」が支配します。その出発点が70年代から世界に拡がったマクドナルドのようなファストフード。調理師が技芸を使って料理を作るのではない。マニュアル通りに調理器具を操作する役割をしたり、接客する役割をしたりします。変わらずにどーんと存在するのはマシナリー(マシンの集合体)で、簡単なマニュアルをこなせれば人間は「誰でもいい」。技芸がテクノロジーに変わったんです。だから各国で「ミミズ肉伝説」と呼ばれる都市伝説が拡がりました。日本だけがなぜか「猫肉伝説」。マクドナルド関係者がいらしたら、そういう都市伝説があったという事実を話しているだけなので、気を悪くしないで下さい(笑)。
■人々にとって得体のしれないものが拡がると、都市伝説が生まれます。1800年前後のロンドンで、人々は初めて知らない人に作ってもらった料理をお店で食べるようになり、初めて知らない人に喉をさらしてヒゲをカミソリで剃ってもらうようになりました。それって今までありえない「得体のしれないこと」だったので、スウィーニー・トッド伝説が生まれます。繰り返し芝居が打たれ、映画にもなってますよね。スウィーニートッドの床屋でヒゲを剃ってもらっていると、店主に頸動脈をスパッと切られる。店主がペダルを踏むと椅子がどんでん返しになり、滑り台で死体が裏隣りのミートパイ屋の地下に送られる。そこで死体がミンチにされて…という話。モータリゼーションが幕を開けた20世紀初等のアメリカでは、『13日の金曜日』の元になった都市伝説が拡がります。車の中で男と女がイチャイチャしてると、ぬっと怪物ジェイソンが現れる…という話。1985年に世界初の出会い系であるテレクラが出てきた時にも、女が待ち合わせた白い車に乗ると…という都市伝説が日本全国に拡がります。これら全てが匿名化に関わる都市伝説です。
■マクドナルドの都市伝説は少し違ってて、匿名化が自明になっていた時代の、新たなシステム化に関わります。マクドナルドは歩行者天国のハレ=非日常でしたが、それがコンビニになると近所のケ=日常になります。つまり、1970年代に種が蒔かれたpan-systemizationが、1980年代半ばに花を開きます。コンビニ弁当が男女共同参画が可能になる一方で、共食の時間が減って家族が空洞化したことを、前回に話しました。コンビニ化と並行して、ワンルーム・マンションに象徴される単身世帯化も進んで、地域の空洞化に拍車がかかりました。男女共同参画にみられるように、ミクロには僕らの選択肢が増えて主観的には自由になったと感じます。でも、マクロで見るとシステムに依存しないと生きていけない状態が拡がっています。客観的にみると「依存しないこと」はもう選べないんですよね。これが「システムに使われていて、使われないことを選べない状態」です。
■さて、ファストフードの料理も、ファミレスの料理も、最終段階を除いては、すべてが工場で作られています。マクドナルドのハンバーガーもそう。ファミレスのビーフステーキ(といっても多くが工場で圧着したコミートステーキ)もそう。だからロイヤルホストがファミレスと呼ばれることを嫌がるでしょ?「ふざけるな、我々の店には工場で作っているものはないから――本当は全くないわけはないんだが、まぁ一応――ファミレスではなくてレストランなのだ」と。ファミリーレストランもレストランなんだけど(笑)。まぁいいや、そういう流れが生じてきているわけですね。
■つまり、今の話の中にも含まれているけれど、冒頭に清水さんがおっしゃったように、最初の料理はdigestion(消化)の外部化として始まったもので、しかも技芸techniqueに関わるものとしてありました。間をすっとばして、重化学工業化以降でいうと、20世紀半ばからは「家庭料理」という形で専業主婦が作るわけだけど、当たり前でもなんでもなくて、専業主婦が作るだけの余裕がある、あるいは、専業主婦が作らざるを得ないという社会構造があったので、「家庭料理」というものが存在し、いろんなものが「家庭料理」に流れ込んでいきます。たとえば、家庭料理に日本料理の伝統をどう活かせばいいのかという土井勝から善晴[料理研究家]に受け継がれた問題設定が出てきたりとかしたんですね。
■僕の母親は結婚する前に、土井勝の料理教室に通っていて、通った時の大学ノートが5冊あるんですよ。すごく事細かに書いてあってビックリしたのを覚えています。僕は昭和34年(1959年)生まれの長男だけど、昭和30年代に入ると、あるいは1950年代後半になると「お袋の味」とは違う「家庭料理というもの」が開発されたことが分かります。この「家庭料理」という新しいジャンルに、日本料理や西洋料理をどうやって落とし込むかということに、土井勝が本当に力を尽くしていたのだと、母のノートを見るだけでヒシヒシと分かるんです。なぜこの話をするか分かりますか。ノート5冊分のノウハウを習得して技芸techniqueとしての料理を作るなんて、いま考えられないからです。ちなみに母がノートを見て作っている姿を見たことはありません。すべて技芸として習得していました。
■さて、久保明教さんの『「家庭料理」という戦場』で描かれているのが、「小林カツ代[料理研究家]」対「栗原はるみ[料理研究家]」っていう対立なんですね。それは、いま申し上げたような「5冊の大学ノートを習得して自在に家庭料理を作る」なんてことができなくなった時に、2つの方向がでてきたってことです。1つは「家庭料理」をより簡略化する方向。小林カツ代の「時短」です。もう1つは「家庭料理」ってカテゴリーをやめる方向。これは栗原はるみの「レストランの味を手軽に」です。僕らの社会の分業体制が変化したことで、技芸としての料理の余地が狭められてきたことの結果です。このことからお分かりのように、技芸としての料理から、テクノロジカルなプロダクツとしての料理へという流れが、はっきり見てとれます。
■昔と違って、グルメ番組はたくさんあるけれど、基本は「どこに行けば美味しいものが食べられるか」という話と、「家庭料理にこだわらないで、美味しいものを食べたい時にどうしよう」という話だけになっているでしょ? 何度も言うけれど、これらは僕らの選択じゃないんですね。「選択して、美味しいところに食べにいく」とか「選択して、美味しいものを食べたい時にこうする」とか思っているけれど、そう思うしかないように、ハイデッガー的に言うと「駆り立てられてGe-stellt」いるだけなんですよね
■この間、第8回で鶴田さんたちに質問させていただいたのは、そういう意味で「料理の勝利は明るくないんじゃないか」ということです。そもそも人間自体がコストとしてカウントされつつあるような状況では、当たり前だけれど「料理を作らなきゃいけない人間」どころか「料理を食べなきゃいけない人間」も、システムから見ればコストなんですよ。ときどき食材を消費してくれるって意味では必要だったりもするけど、マクロに言えば産業構造を変えちゃえば、別に食材を消費してもらう必要はないんでね。ということで、前回の僕のコメントは「僕らは料理を必要としなくなっていくだろう」ということでした。
■そして、これから「人間モドキ」が確実に出て来ます。人間によく似た、人間よりも人間的な、AIとかゲノム改造哺乳類とかです。これらの登場はもはや時間の問題です。彼らには、エネルギーは必要だけど、人間が食べるような料理は必要ない。消化もそうですけれど、燃焼とは違うゆっくりとした酸化によってエネルギーを取り出せればいいだけです。だから、まさにアニメ『攻殻機動隊』(1995年)問題が出てくるわけです。「人間モドキ」が、人間に合わせて、時々ご飯を食べてあげるとか、一緒にお酒を飲んであげるとか。「面倒くせえな」とか思いながらね。ということで、僕のような社会学者から見ると、最終的に料理の話そのものよりも、料理を通して見えてくる変化が重大です。
■具体的には、僕らがどんなふうに断片化され解体されて没人格化しつつあるのか、あるいは、してしまったのか。僕らがどれほど自分を選択できない存在になりつつあるのか、あるいはなってしまったのか。思えば、社会の各所が「金太郎飴」みたいに同じ方向に変容しています。たとえば民主政。「民主主義のもとで僕らはいろいろな政策を討議を通じて選択できます」っていうんだけど、ジョナサン・ハイトがいうように、大規模に資源投入して人々の5つか6つの「感情の押しボタン」を押しさえすれば、ほぼ確実に「人々の選択」を誘導できるんですね。という次第で、「僕らに選択ができるようで、実は選択の余地がない」という事態を徹底的に利用したpan-systemizationが進んでいるのだという話をさせていただきました。
【準備2: 台所からキッチンへ:倫理基盤の空洞化と無効な処方箋】
鶴田: ありがとうございます。そうすると、食の産業化とか料理の産業化っていうふうに、「産業化」って言葉を使うと「産業革命」を連想させて、そうすると18~19世紀に遡る現象のような気がしますけれども、それが先ほど申し上げた、自分たちが食を作らなくなって、完全に外注するようになったという産業化っていうのは、80年代以降、コンビニ化・ファミレス化の現象というふうに言えるってことですね。
宮台:■はい。料理に限ると、「技芸からテクノロジーへ」という流れと、それが必然的にもたらさざるを得ないpan-systemizationが、1980年代半ば以降に急進展したということになると思うんですよね。楽器演奏みたいなものも確かに技芸として残されてはいるものの、プロを除けば、所詮は娯楽ですよね。それに比べると料理は、少なくとも僕にとっては、最後に残された「生きるために必要と結びついた技芸」っていう感じがしていました。とはいえ、それがすごく微妙になりつつあるということなんです
■昔は男が料理をすると「へぇ~すごいじゃん」って言われた。「暇なんだね」という意味も含めてね(笑)。いまは女だって、毎日わざわざ料理作っているって言ったら、やっぱり「へぇ〜すごいじゃん」ですよ。やっぱり「暇なんだね」って意味が含まれている。ある種レクリエーションとしての料理になっているわけ。実際、僕らが自分の身体性を使って技芸や芸事を現実化して、自分を取り戻したような感じになれるのは、料理ぐらいでしょ? 楽器や武術はすごく修練がいるからね。つまり、料理は、生きるために必要な技芸じゃ、なくなったんです。残ったのは「へぇ〜すごいじゃん」。だって、久保明教さんの本を読んで、「へぇ〜久保さん、料理するんだ、すごいじゃん」って思わなかった?
■システム理論的な言い方をすると、そこに残った共同体や生活世界は、残ったように見えて、システムが「そのぐらいのコストだったら人畜無害なので残してやろうか」みたいな感じで残してくれているものになっている。「手つかずの自然」と同じです。「開発するの面倒なんで手をつけないでおいてやろうか」っていう。そうした、システムによる「不作為omissionという作為commission」の場所として存在するだけになったものが、昨今の料理であって、いまやそれすら消えつつあるというのが、現状だと思っているんです。「家庭料理」だって本質的には同じことですが、今は「消えつつある」というのがポイントなんですよ。
鶴田: 「料理の人類学」では料理を通して人類社会を把握し返すとともに、ある種の共同性の回復というか、宮台さんの言葉で言うと「生活世界」の復権みたいなものにつなげていけないかと。それを、料理を考察することでできないかという探求をしているんですね。たぶんそれは、身体性。料理をするには身体を使い、かつ完全に自然とは言えないまでも、野菜とか生の素材に触れる。そこで一種の野生性みたいなものというのが、料理をするたびに立ち現れる。そういったことを通して、社会変革を考えられないかっていうのが根底にあって。もともと清水さんがおっしゃっていたことなんですけど、料理って普通は作られた食べ物のことを意識しますけども、そうじゃなくて我々が「料理する」ということを名詞ではなく動詞で捉えることで、料理ってことが昔からある、一種の共同行為のようなものの名残り――今は一人ですることが多いけども、もともとは狩りをする人、それをみんなで解体する。共同的な、祝祭的なイベントだったりする――そういった名残りが人間の中にあるはずだと。だからそれを梃子にしてひっくり返せないかっていうコンセプトがあります。そういうことに関して宮台さんに少し、批判をいただきたんですが(笑)。
宮台:■そうですね。批判という以前に、これ(料理を通じた共同行為の回復)はすごく難しいプロジェクトなんですよ。僕の経験談から始めます。実は、小学校1年生のときから日曜の昼ごはんは、家族4人分、僕が作るってことになってました。作るって言っても、インスタントラーメンとか、野菜炒めとか、その程度のもの。時々、1年生なのに餃子を作ったりしてハシャいだんですけれど(笑)。餃子の皮をちゃんと結ぶって、「大阪王将」や「餃子の王将」じゃなくても技芸・芸事でしたので、「これは僕が作った餃子だよー!」って家族に自慢してたし、お客さんが来た時に「僕が作った餃子だよー!」って出してた。それもあって、僕は小さい頃から料理番組を見るのが好きでした。
■グラハム・カーの「世界の料理ショー」が小学校高学年くらいから放映されます。時代としては1960年代後半くらいから。よく見ていたんだけど、超~~~違和感があった。まずジューサー、ミキサー、チョッパー、ミル、そういう機械を使いまくる。「え~!?」っていう感じ。僕らが箸1本で済ませるのに、欧米人はナイフ、フォーク、スプーンを使い分けるのに似てる。僕らは包丁1本でやっているのに、「じゃがいもには皮むき器を」「トマトのヘタを取るときはこの特殊ナイフを」とか。「え~!? それって卑怯じゃん!」みたいな。「皮むき器使うの!? 皮は技芸を使ってむくんだよ!」みたいな。この違和感、分かりますか。「皮むき、散々練習したのに、ズルいよー」みたいな感じ。
■その頃から、実は始まっていたわけ。技芸の場だった「台所」に、テクノロジーが入って「キッチン」になるという。もうそれだけで「家庭料理」じゃないよ。だから「世界の料理ショー」は最後は観客を二人テーブルに招いてパーティーになる。結局パーティー料理を作っているわけね。パーティーは祝祭です。「仕込みはできるだけ機械を使って楽して、パーティを楽しんじゃおうね」ってコンセプトだった。「台所にそんな機械ないしなぁ…」って違和感を抱いてるうちに、違和感を忘れて、気がついたらジューサー、ミキサー、チョッパー、ミルがいっぱいあって、皮むき器もある「キッチン」で料理を作るようになっていた。
■また同じ問いだけど、僕らはそれに抗えたのか。抗えないよね。昔は「まず、林檎の皮を、次に、じゃがいもの皮を、むく練習をしましょう」だったのが、今は「皮をむくのは危ないから、皮むき器を使いましょう」ってね。この間話したように、1980年代からは「安心・安全・便利・快適」のクズ系の人たちがどんどん増えてきちゃったんで(笑)。でも、僕らの小さい頃からも、既に「鉛筆を削るのは鉛筆削りを使え、ナイフを使うのは危ないから」っていうのがあった。僕の親父なんか昭和一桁だったから「鉛筆くらいナイフで削れなくて、なにができるってんだ!」って言ってた。最後の身体性の固執が、ナイフで鉛筆を削ることだったっていうね(笑)。それも気がついたら全部なくなっている。
■そういう流れの中で、料理を通じた自己回復って「いまさら鉛筆をナイフで削るの?」みたいなところがあって、非常に難しい課題だと思う。とすれば、僕らが考えるべきことは、「なんで、今の自分には、こんなに難しくなっているんだろう」あるいは「なんでこれだけ僕らが、技芸を失って、テックシステムにべったり依存してるんだろう」っていうことじゃないか、という思いがすごくしますね。だから鶴田さんのおっしゃる批判というよりも、技芸を失った自分について「ちょっと違和感があるな」って感じるみんなが、どうしたらいいか知恵を出し合わないと、ちょっと一人で解決できる問題じゃない。一人で何かできても、さっきの「暇だからやってるんだね」って言われるのと同じになる。そう言われないような状況をもたらすには、圧倒的にマクロの問題として問題を考えなきゃ。
■問題をマクロに考えるのに役立つ本として、最近だったら、といっても、もう15年くらい前になるけど、藤原辰史さん[農業史研究者]の『ナチス・ドイツの有機農業』っていう本がある。ナチスとシュタイナーの違いや関係について描き出した素晴らしい本です。でも、皆さんは読まないほうがいいかも。あまりにも情報が多すぎて、なにを読んでいるのか分からなくなってしまう可能性があります(笑)。
鶴田:ふふふふふ(笑)。
宮台:■余程ナチスが好きな人向きです。僕はナチス大好きだけど。大好きって誤解しないでくださいね。学問的な興味の対象として昔からいろいろ書いてきてるし、映画批評家としてもナチスを描いた映画に批判的に言及してきてる。だいたいがナチスを極悪として描く勧善懲悪でしょ。僕は「違うんじゃないの?」って注目してきた。これは戦後直後のフランクフルト学派が言ってたけど、「気が狂ったヤツ、まともに頭が働かないヤツが、ナチスになったんだ」という考え方じゃ太刀打ちできない。そうじゃなく、ナチスの最大の問題は「過剰な理性主義」「過剰な合理主義」にあったんだっていうね。
■フランクフルト学派は、フロイトの神経症概念をベースに社会を分析したので「フロイト左派」とも呼ばれるけど、ナチスに迫害されてアメリカに亡命したユダヤ人たちです。今の若い人は、こういう古いフロイト系やマルクス系の議論を知らないので、藤原辰史さんの本を読むと、「え!? ナチスと有機農業? エコロジーってナチスがルーツなの?」とびっくりしちゃうかも。ただ、正確に言うと、ナチスがルーツっていうよりも、ナチスにも見られるゲルマン的な「森の哲学」がルーツなんですね。そう言えば、みんながびっくりするほど不思議な話ではない。。
■昨年、映画批評ラボで、シーロ・ゲーラっていう先住民の血が入った中南米コロンビア出身の監督の『グリーン・フロンティア』っていうNetflix作品を論じた時に、その話はしましたね。「絶対に近代に汚染されないぞ」っていう原理主義的な先住民部族が、なぜかナチス残党をボスにしている。ボスがなぜナチスなのか。若い人は、みんなすごく驚くわけね。「これって思いつきにしても、突拍子もないな」と。そうじゃない。中南米にたくさんのナチスが逃げたってこともあるけど、ゲルマンの「森の哲学」を体現したナチスがエコロジーのルーツだってことも知らないの?っていうね。エコロジーをただの「自然は大切」という思想だと思っている人は、このことは知っている義務がある。ドイツの「緑の党」だって、80年前後まではナチスに連なろうとする右翼政党だった。
■右翼時代の「緑の党」の思想を「ディープ・エコロジー」つまり「深いエコロジー」と言って、これが事実上──というのは言葉自体は同じゲルマン民族であるノルウェーの哲学者が使い始めたものだから──ゲルマン自然信仰をルーツにしたナチスをさらにルーツにしていたわけです。だからドイツでは1980年代までエコロジーを語ることがタブーだった。「エコロジーってナチスの思想でしょ」と言われたからね。5年前に出した『まちづくりの哲学」に書いたけど、実際ディープ・エコロジストの中には、「地球生命圈を生態系として維持するには、人類が6億人まで減る必要があり、そのためには、核戦争でミサイル撃ち合って人類がほぼ全滅するのがいい」みたいに言うヤツがゴロゴロしていた。
■そんな中で、こうしたドイツ的な状況に抗いながら、注目すべき仕事をしたのが、ベアード・キャリコットという環境倫理学者。アメリカの人で、ネイティブ・アメリカンやインディアンの研究もたくさんやってた人なんだけれども。皆さん、僕の『まちづくりの哲学』って本を読んでいただくと書いてあったと思うんだけど、僕の学問遍歴の中ではすごく大事な意味を持っている。彼はマイケル・サンデルにも大きな影響を与えた。80年代にこういう図式を出しているんです。生き物を守るべき理由は何か。シンガーみたいな功利論と、レーガンみたいな規範論の立場がある。功利論は最大多数の最大幸福。快不快をカウントしてあげる対象を人間に限ろうが限るまいが、多数者の御都合主義になる。義務論は、たとえば動物に限っても、何を人倫の対象に含めるかで、人間の御都合主義になる。共通して人間中心主義がアポリア(細道)である。アポリアを抜ける唯一の方法が、全体論だというんですね。
■要は、場こそが1つの「生き物としての全体性」だと言う。ただし人間よりもどんな生き物よりもライフスパン(寿命)が長い。だから人間のスパンが短い人間の都合でずたずたにされる。でも場の「生き物としての全体性」が損なわれると、人間の尊厳も損なわれる。なぜなら、人間の尊厳は、1つの生き物としての場に結びついているからだ、と。生き物としての場には、人間や動植物だけじゃなく、岩や山や川や海も含まれている。そして、場を1つの生き物として捉える力は、共同体が与える共通感覚と結びついている。彼は自分の議論を京都学派から得たとしているけど、本体の多くはナチスの生態系平等主義から得ているのは明らかです。唯一の違いは「無生物を含めた生態系の全体が、人間の尊厳を与えている」という主張です。つまり、「最後は人間の尊厳に資するかどうかが大事だ」って話になる。
■これって唐突です。僕の尊厳に生態系は関係ないという人だらけであれば通用しない。藤原辰史さんだと、「やっぱり排除はいけない」って結論になる。これも唐突すぎて、全く処方箋にならない。僕らの企画に引きつけていえば、人間がコストとしてカウントされるだけになっていく脱料理化の流れに抗うって段になって、「やっぱ人間が主人公だよね」とか「システム依存も程々がいいよね」と言うのも、全く処方箋にならない。なぜなら、単に結論の先取りだからです。だって、「排除はいけない」とか「人間が主人公だ」とか「過剰なシステム依存はダメだ」という倫理に到達するために、どんな道筋があるかを、僕らは問うているんだからね。その辺の困難が、「いまさら鉛筆をナイフで削るの?」「いまさら料理を作るの?」という問いに答える困難のコアになります。
■「排除はいけない」「人間が主人公だ」「過剰なシステム依存はダメだ」みたいな批判をしばしば僕がするのは、御存知の通り。でも「過剰に楽天的だなあ」って思うでしょ? そんな話は散々言われてきたし、そんな処方箋モドキが全く役立たないってことは僕らはすでに知っているよね。僕が「排除はいけない」「人間が主人公だ」「過剰なシステム依存はダメだ」という趣旨の批判をする時には、「感情が劣化したクズ人間」とか「僕らが社会に閉じ込められたままになるようなクソ社会」といった物言いをするけど、これらは、処方箋としての無効さを承知の上で、「なるほど、そう思う」みたいな感情的シンクロが起こるという「事実性」を当てにしてのこと。つまり、一周した後の戦略なんです。
■さきほどの鶴田さんの投げかけに、答えるのが難しいといったのは、なぜか。僕らが「なんかおかしい」って違和感を解消する方向に動くとして、「どう動けばいいんだろう」って時に「えー、それってまた昔の繰り返しで、無効が証明されてるじゃん」っていうふうにならないことが、すごく難しいということですね。この難問を解くには、「そもそも倫理とは何か」というところに遡らなければいけない。それを、これから語ります。
鶴田: ありがとうございます。かなりお話も、抽象的で難しくなってきていると思うんですけども。今のに関連して、僕らが現状の、食の産業化の状態を「なにかおかしい」と感じると。その処方箋を探すときに、つい家庭料理の時代に戻ってしまう。つまり「家庭料理の時代に回帰すればいい」という、すごく安易なバックをしてしまいがち。でもそういった共同体性は、たとえば専業主婦に過剰な負担が押し付けられるとか……そこに戻ってはいけないという考えもあるわけですね。
【本題1: フュージョンからコントロールへの頽落:共同身体性・共通感覚・共同体的前提】
(以上、前半の2分の1。前半の2分の2に続く)
関連記事: 前半の2分の1:文字起こし|DarwinRoom|料理を通じて倫理を回復する|2020.05.30