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【100分de宮台】No.3|コロナと宗教|2020.05.02ライブ文字起こし|後編2

投稿者:miyadai
投稿日時:2020-06-01 - 13:46:35
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(0)
(以上後編1、以下後編2)

▶コロナ禍における不確定性が良い宗教にとっての「培養地」でもある

宮台:■僕はね、昔まさに『サイファ 覚醒せよ!』って本でね、「宗教者であれ無宗教者であれ、世界の規定不能性に向き合うことをちゃんと決断できる存在でいてほしい」って書いた。「見たくないものは見ない、見たいものだけを見たい」っていう態度を捨ててほしいんだね。かわりに、「見えないところ」に何があるのか、「自分が見たくなくて見ないところ」に何があるのか、そこで誰が痛みを被っているのか、をちゃんと見る存在でいてほしい。結局みんなは「そこに痛みを被っている人がいるのを気付かなかったよ」でスルーするわけ。それって僕は、倫理的に許せないって思うんです。
■そのことに関連して、田川建三の『イエスという男』が今日届いたんです、これが(と、本を掲げる)。

ダース: あ、バーチャ背景で見えない(笑)。あ、そこなら見えます。

宮台:■見えますか?(笑)田川建三が72年から書きためて81年に出版した『イエスという男』。大学生の時に読んだのに、なぜまたこれを読もうと思ったのか。やっぱり迷いがあるんだよね。その迷いってかなりユニバーサルなものだと思うけれど。さっき、「見たくないものを見るのが倫理だ」って言ったけれど、人間には快・不快の限界があるから、「できないことはできない」。痛みに耐えきれなかったら叫んじゃうのと同じだよね。叫ぶなって言われたって「叫ばないことはできない」でしょ?
■だとしたら、どうしたら「見たくないものを見る」ことができるんだろう? 僕は長らく「見たくないものを見ろ」って言ってきたけれど、言いながら「できないものはできないよな……その場合どうしたらいいんだろう」って考えてきたんだよ。そこで田川建三を思い出した。つまりね、田川建三が想像する「イエスという男」は、そのことについてどう考えていたんだろうって知りたくなった。これは僕のクセで、迷った時に「イエスという男」はどう考えていたんだろうって考えるんです。
■ちなみに、僕の授業では──ダースさんは聞いてらっしゃるけれど──、カール・グスタフ・ユング(スイスの精神科医)が「イエスはグノーシズムの原型的な感受性を持っている」って考えていたことを話してきたよね。グノーシズムと言っても、みなさん解りづらいかもしれない。一言でいうと「神も聖霊も悪魔も含めて、もろもろは、結局は人間が考え出したものだ」ってこと。システム理論の言葉でいえば「もろもろは、心と社会が作り出した内部表現だ」ってこと。これがグノーシズム思想の出発点で、僕は「原グノーシズム」って呼んでいるけれど、イエスは同時代の原グノーシズムに連なっていました。
■人々は一生懸命戒律を守っている。なのに何もいいことがない。悪いことばかり起こる。だから人々は「神はどこにいるんだ!?」って探し回る。挙句は「神なんていないじゃないか!?」って憤慨する。そんな人々に対してイエスは「神はいつもあなたとともにある」って説く。イエスは譬え話の名人です。喩(ゆ)の達人なの。ユングによると、イエスが言いたかったのは、神も天使も悪魔も、あるいは世界にある万物も──ソレが人間だってのも含めて──心と社会が生み出した内部表現だということ。もっと厳密なシステム理論の言葉でいうと、「もろもろは、社会システムと心理システムの作動が、社会システムと心理システムの内側に投影した、ただのビジョンだ」という思考です。
■そのことに気がついたとします。実際、イエスという男は気がついた。とすると、これはヴィトゲンシュタインの言語ゲーム理論と同じで、「全ては内部表現だ」という認識もまた内部表現にならざるを得ない。そのことについてもイエスはちゃんと気がついていた、っていうのがカール・グスタフ・ユングの見立てなのね。この見立てをベースにして、あるいは、この見立てゆえに、イエスという男が、何を考えて、何をしようとしていたのかを、やっぱり知りたいって思ったんだよね。
■いま内部表現の話をしたのは非常に大事でね。Netflixみたいなコンテンツ・プラットフォームが僕らの社会認識どころか世界認識を作りつつあります。「世界は確かにそうなっている」というベンヤミン的なアレゴリー(寓意)でさえ、コンテンツ・プラットフォームでの体験をベースに作られつつある。だから僕が「ウンコのおじさん」として、子供たちの体験をデザインする「体験デザイナー」になれって言う時、いつ何をどんな順番で見せるのかっていうような「コンテンツ体験のデザイン」を含んでる。でも、リアル体験もコンテンツ体験も、全ての体験は、社会を前提に心が作り出した内部表現なんだよね。
■ちなみに、僕の考えでは、そのことを分かりやすく喩的に表象したのが、『攻殻2045』の「シンクポル=思考警察=思考投票」だ。「社会を前提に心が作り出す」というリーズニング(理路)が貫徹しているからね。『攻殻2045』のモチーフの一つでもあるんだが、もろもろが「社会を前提に心が作り出した」内部表現に過ぎないって分かった時、人はその事実にどの程度耐えられるのか。耐えられないとすればどこに限界線があるのか。限界線を越えたらどうなっちゃうのか。それを僕は知りたいわけ。だから今の僕は「イエスという男」に戻ろうとしているんです(笑)。

ダース: いまの、内部表現の、結局投影されたものだっていう……これまた藤子・F・不二雄の話になるんですけれども、藤子・F・不二雄はその違和感を感じた少年のーーちょっとタイトル忘れちゃったんですけどーー短編を描いていて。なんか日常生活を送っているけど、なんか怪しいと。「なんなんだこれは?」というふうに思って、突然、窓からものを投げてみたりとか。突然叫んでみたりすることによって、裂け目がつくれるんじゃないかっていう考えをはじめて、その後周りが「なにを妄想にとらわれているんだ」「ちょっとパニクっちゃって不安なんだね、大変なんだね」っていうふうに言われるけど、「いやなにか違う。これは見せられているものだ」っていうふうに悩んで、それで、内部表現……これは僕らは見せられているに過ぎないんじゃないかっていう疑問をどうにか破ろうと試行錯誤して。
 その短編自体は結局、予期せぬ動きをしたら、シナリオライターみたいな人がいる部屋にポンッて出ちゃったっていう話になるんですけど。これは藤子・F・不二雄はクリエイターなんで、そういう落とし所を用意しているんですけど。でもその部屋が、クリエイターが脚本をつくって世界をつくってましたよっていう部屋が、あるってことは、その部屋がある世界が、もう1個そこにあってっていうことになっていくわけだから。それをイエスは分かっていて、そういうことにずっととらわれるしかない僕らが、どう生きていくのかっていうことを、イエスはどう僕らに伝えてくれていたのかっていうことを想像するっていうのが……。
 いまはコロナを巡るもろもろで、宮台さんの第1回・2回目で具体的な施策とかそういったものとか、僕らがいま生きている社会がやるべきことってレベルでの話っていうはいろいろ聞いてきたんですけれども。そもそも存在している世界自体がどうなっているのか分からないってときの考え方の構えとして言えば……ちょうどこれ100分間お話を伺っているんですけれども、宮台さんが最後に言った、イエスという男っていうところ。
 それはファウンディング・ファーザーズの意思を考えることだったり、まあこれを見ている人はそれぞれ戻れる参照点っていうのがもしかしたらいろいろあるかもしれないんですけれど、そこに戻って、「あのときのあの人だったらこれはどう思うのか」っていう時間軸を想像して、いまに戻ってくるっていう行動を繰り返していく。本来は、宗教はそういった役割をしていたものだよってことも踏まえて。
 でもいまは宗教自体がある種のポピュリズム、大衆的なものに堕してしまって、その機能を失いつつあるのを、宗教自体が分かって、もう1回それを回復する動きになるのかどうかっていうのも、すごく今後見ていく必要があるってことですね。


宮台:■ありがとう。うまくまとめてくれました。少し付け加えると、前回言ったように、新型コロナを巡る社会的な大騒ぎって、ちょっと変なところがある。多くの人は、コロナで苦しむ人や死ぬ人を見ていていない。「〜という事実があるそうです」という情報によって大騒動が引き起こされているわけ。むろんメディカル(医療)関係者は、目の前でそれらを目撃し、自らの死の危険に瀕しながら、命を賭して治療行為を行っていらっしゃる。とはいえ、多くの人にとっては、それさえ「医療従事者には〜という事実があるそうです」という情報に過ぎないの。
■ってことは、僕らがテレビを通じて「感染者数は……」「検査数は……」「各国は……」「政府は……」って思ってるけれど、全部情報じゃんね。情報だから、社会を通じて──たとえば無能なディレクターやコメンテーターによって──加工されているし、情報を受け取った各人のヘタレぶりによって──たとえば「安心厨」的に──加工されている。つまり社会システムと心理システムによって体験加工されている。ウイルスが見えないだけじゃなく、ウイルスに感染して苦しむ人も見えないし、それに命をかけて対処している人も見えないんだ。それを思うと不思議な営みだよ。
■だからこそ、そうした逆説的事情に薄々勘づいた、不安であたふたするヘタレが、そのヘタレな心ゆえに「いや、コロナウィルスなんて、本当は居ねえんだよ」って(笑)極端なポスト・トゥルース方向に向かうことだって、本来できるんだよね。実際、アメリカのアンチ・ロックダウン運動にはそうしたところがあるでしょ? そうしたところから世に言う「陰謀論」が蔓延していくわけさ。じゃあ、そこで問われているものは何か。陰謀論に与しちゃいけない理由は何か。そこでも、やっぱり「倫理」が問われているわけですね。
■何が本当の世界なのか。あらゆる全体が本当はどうなっているのか。合理性を理性的に突き詰めると分からなくなる。だって、エビデンスないどころか、それが本当らしいと思える材料さえ見ていない。でも、そのことに気付いたとしても、僕たちの多くは「コロナ・ウィルスなんて存在しない」っていう前提では振る舞えない。思えば、同じことが、コロナ禍みたいな非常事態に限らず、普段の日常をも貫徹しているのね。地球が太陽の周りを回っているとか、水分子は水素原子2つと酸素原子1つから成るとか。全部「人がそれを事実だと前提にしているから、自分にとっても事実だ」というふうに体験加工されている。
■合理的理路を突き詰めた時に現れてくる、この不確定性──規定不能性──こそが、僕は「良い宗教」にとっての培養地になると思ってきた。たとえば福音書は、「全ては内部表現に過ぎない」という事実に気付いてしまったイエスという男が、にもかかわらず、というか、だからこそ、人々のどうしようもない「痛み」に寄り添うという決断をしたことを伝えている。冒頭に話したように、痛みには、神経システムが作り出す誰にも避けがたい内部表現から、合理的な理路を突き詰める営みだけが作り出す規定不能性という内部表現まで、広くが含まれる。イエスは全ての痛みに寄り添うことを決めている。なぜなのか。
■それを知りたかった僕は、ずっと旧約や新約を読んできた。それでも、確たることは言えない。でも、それが肝腎なんだよ。確たることは言えないものの、「かつてイエスという男がいて、こういうふうに生きた、ああいうふうに言った」という「事実」を知ることで、「なるほど、だったら、僕もそういうふうに生きよう、そういうふうに言おう」って思えるのね。それがミメーシス(感染的摸倣)ということなんだ。ミメーシスは能動じゃなくて、コンヴァージョン(回心)がそうであるように、不意に襲われる受動だ。でも、求める者にだけが襲われるという能動の契機もある。こういう能動的受動は出産によく似ている。僕のゼミで長く問題にしてきたように、それを「中動態」というんだ。
■翻ってみれば、ユダヤ教にもキリスト教にも仏教にもイスラム教にも、いま言ったのと同じ契機が「丸ごと」含まれている。ユニバーサルに言えば、ロジカルじゃない、散文的なロゴスでは表現できないような「何か」が、すごく大きなものとして感じられて、促しの動機づけを与えてくれるってことがあるでしょ? そのことが「良い宗教」とは何かを暗示してくれている。ドラッグ体験やゲーム体験が与える「痛み止め」の機能にだけ留まるような「凡庸な宗教」との違いを指し示してくれていると思うんだよ。さっきコンテンツと宗教の機能的等価性の話をしたよね。でも、飽くまで凡庸な等価性だった。その意味で、コンテンツにとっても今こそが正念場でね。コンテンツが「良い宗教」とコンペティティブ(競争的・競合的)に争ういいチャンスだよ。宗教にとっても、コンテンツにとっても、深いものが出て来るチャンスだと思っているんですよ。

ダース: 不確定性というものの認識。いまは割と分かりやすく不確定だっていうのを体験できている、結構珍しい時期にきていて、「あれこれってよく分かんないじゃん。誰も分かってないじゃん」っていうことを分かることができるっていう状況なので(笑)。
 今回まとめると、そんな中で僕が最初にちょっと想像していた、コロナによって生まれる新興宗教的なあり方っていうのが、いまの宮台さんの話と全部ひっくるめて説得力を持つのは、重篤化した患者さんの誰か、つまり実際にそれを体験した、「私はそのときこう生きた。私はそして戻ってきてそのときこういうふうに考えた」っていうことを伝える人っていうのは、一定の説得力がでる。みんな分かんないものに対して不安なんだけど、「私は分かるよ」って人がでてきたときに……ツイッターで「いまコロナにかかってます」ってアカウントが何人か出て、僕も見つけて「あー、こうなんだ」とか見ながら思ったんですけど。その人のほうが、なんか分かんないけど知ったように喋っている人よりも、実は説得力あるんじゃないかと思わせるものがあって。で、その人がなんかしらカリスマを身につけて、「私はコロナのギリギリのところまでいって、それを体験して還ってきました」って話をはじめた場合、ある種それが、いまの情報の不確定性に対する回答のようにみんなが思い込む、ネオを見つけた感覚になる可能性っていうのはあると思っていて、それってサイファーになる人たちもいまいっぱいいるけど、モーフィアスになったとしてもそれは、まだその先があるんだよってことも考えなきゃいけないって、宮台さんの話を聞いてて思いました。
 で、第3回の『100分de宮台』もあっという間に100分お話を聞いていて……いまね、1432人。


宮台:■この話題で1400ってすごいね(笑)。

ダース: すごいですね。結構難しい話をしていたと思うんですけども。ちなみに投げ銭もたくさんいただいていました。ツイッターでね、「ダースレイダーは投げ銭を集めるのに必死で宮台のいう損得野郎じゃねえか」というツッコミがあったんですけれども。

宮台:■ふふふ(笑)。生きていくには損得も必要だって繰り返してきてるだろ?

ダース: 僕はあくまでも、この話を聞いて「面白いなあ」と思った人が、それに対して「私はこういった価値を与えます」というのと、僕らが生きている社会上、僕だったり宮台さんだったりがジュースを買いに行くにも、実は先立つものがないとできないっていうのがあったりね(笑)。

宮台:■そう。ちょっとダースさんね。本当に困るなと思うのは、損得勘定はいけないっていう「原理主義」だよ。自分だけじゃない。家族や仲間が生きていくためにも金が必要なんだよ。よく出す例だけど、20年近く前に、あるNPOイベントに出たとき、若い男女が「これからはカネの時代じゃない、思い遣りの時代だ」って尤もらしく壇上から語っていた。違和感を感じた僕は、「何だよ、その二分法は。思い遣りを貫徹するためにも、カネが必要なんだよ、たわけが」とコメントタイムで一蹴した。社会を生きていくって時に、損得勘定と無縁に生きられるヤツは、余程の親の財産でもない限り、あり得ないんだよ。

ダース: 親の財産とかがあるってことは、ある種の損得勘定ベースの、スタート地点が違うってだけの話ですよね。

宮台:■そうなんだよね。だから、そいつだって、いざとなったら、生きなきゃいけないので損得勘定をするわけだ。そんなことは自明すぎて、否定すべくもないんだけど。「カネじゃなくて、思い遣りだ」って「言葉の自動機械」だろうが。意識高い系のクズにありがちだよね(笑)。ウェーバーが言っていたように「カネのために何かをする政治家と、何かをするためにカネを使いまくる政治家は、根本的に違う」。政治家だけじゃなく、ユニバーサルに同じことが言えるよね。僕が言うのは、損得勘定の外側を──そのためにカネを使わざるを得ない何かが「やむにやまれぬ感染源」の結果としてあるかどうかを──意識するべきだってことだ。それが倫理的であるということの本質だよ。

ダース: 僕もその方に言ったのは、損と得っていうのがなにを基準に……お金の数字の基準での損得っていうものだったり、この話を聞いて、「なんかいい気持ちになったな」っていう損得だったり、様々あって、しかもそうじゃないものもあるっていうところから、いろんなことを考える思考がはじまるんじゃないかなっていうふうにお返ししたんですけれども。
 まあそういった意味でも、僕はなんだかんだ宮台さんのゼミに通っているので慣れてきてしまっているんですけど、結構濃厚な話を聞かせていただいたかなと思います。ゴールデンウィークで、前回から間を空けずに登場していただいたんですが、緊急事態宣言も伸びますから、みなさん家にいる時間も増えると思うので、ちょっとまた宮台さんにぜひ、4回目もお願いして、また100分ほどの講義をしていただければと思います。みなさんご視聴ありがとうございました!


宮台:■ありがとうございました。

(終了)