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【100分de宮台】No.3|コロナと宗教|2020.05.02ライブ文字起こし|後編1

投稿者:miyadai
投稿日時:2020-06-01 - 12:43:45
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(0)
(以上中編、以下後編1)

▶「痛み」の意味がなくなった世界では宗教が基盤が掘り崩される

宮台:■そこを、冒頭に持ち出した「痛み」という概念を使って、有効にパラフレーズできると思う。たとえば、ゼミでも扱ってきた新反動主義者、なかんずく加速主義者の発想に従えば、こうなる。社会を生きるのが苦しい人たちがいる。昔だったら「再配分しろ」「いやだ」「同じ国民は仲間だろ、革命するぞ」「同じ国民だから仕方ない、再配分しよう」となる(笑)。今はならない。「再配分しろ」「いやだ」「同じ国民は仲間だろ、革命するぞ」「同じ国民は仲間? 知るか? どうでもいいクズに再配分なんかするものか。でも苦しいなら、ラクになれるゲームとドラッグをあげるよ。それでいいだろ?」となる。
■金持ちの言い分を補完すると、昔は国家の外はあんまり見えなかった。だから「みんな平等」と言えば国民の平等のことだった。でも、今は国家の外が見える。だから「みんな平等」と言えば「みんなって誰だよ」ってなる。「国民だよ」「は? イヤだね。俺は本当に痛みを感じている弱者のために財産を使う。豊かな自国のずるい怠け者より、貧しい他国の正直者にね」。実際、私財をメリンダ&ビル・ゲイツ財団に注ぎ込んだゲイツや、そこに財産の9割を寄贈したウォレン・バフェットみたいに、自国アメリカのためより、貧しい他国の弱者のために自分のお金を使いたいと思う有名な金持ちが目立つようになった。僕は全面的に共感できる。
■金持ちの言い分を、もう一つ補完すると、脳科学が進歩して、人々の考え方が変わってきたのもあるよね。さっき話したように、オウム教団は、法悦を、ドラッグと電極でもたらせる脳内環境の問題だと考えた。すると、豊かな生活で幸せになれるように、ゲーミフィケーションがもたらす仮想現実・拡張現実でも、大麻のような安価で無害なドラッグでも幸せになれるじゃないか、となる。そして実際、脳内環境を整えられるのだったら全く問題ないかもっていう発想をする人が貧乏な若者たちにも増えてきた。すると、金持ち寄りの統治権力が「それで痛みは消えるだろ?」と言っても「確かに!」と思うようになった。
■今のトランプ政権が「オピオイド政権」なのが象徴的だよね。アメリカではこの十年でオピオイド中毒がめちゃめちゃ増えた。日本人もタイガー・ウッズの一件や米国トヨタの幹部が日本にオピオイドを持ち込もうとした一件で知ってるよね。オピオイドって人工オピウムのことだ。オピウムは「阿片」と訳されてけど、昔は「痛み止め」として使われた。マルクスが言った「宗教は阿片だ」も「宗教は痛み止めだ」と訳すべきなんだ。「痛みの原因である貧困を取り除かなくても、痛み止めだけで満足しちゃうこと」を批判していたからだよね。今アメリカではラストベルト(錆びた地帯=旧製造業地域)を中心に心身に痛みを抱えた人が大勢いる。だからトランプは大統領選挙で「俺が大統領になったら痛みを止めてやる」と訴えた。実際大統領になると、反中国や排外主義で彼らの溜飲を下げて、痛みを軽くした。そのトランプを「テックによる痛み止め」を推奨する新反動主義者が支持してるって図式(笑)。
■さっきダースさんが言ったのは、「キスできない痛み」とか「ハグできない痛み」とか「一緒にいられない痛み」とかは、昔それらをやっていた人たちが感じるものであって、生まれたときから「キス」や「ハグ」や「一緒に長く過ごす営み」を知らない人たちにとっては「痛み」にならないでしょってこと。すると、これは、さっきニューウェイヴSFの問題設定に仮託して話した、倫理のfactualな(事実的な)基盤としての「それは許せない」っていう感情の共同主観性──みんなが「許せない」という感情を持つとみんなが当てに出来ること──という問題に、直結しているのが分かるよね。だから、痛みを痛みとして継続できなければ、「コアな倫理」を支える基盤が失われてしまうことになる。
■人間関係も選べる。ドラッグも選べる。ゲームも選べる。そうすると、「生きているのがつらい」っていう痛みを感じていたとしても、「私的なつながりが悪いんだよ」「見ているコンテンツが悪いんだよ」「使っているドラッグが悪いんだよ」という話になっちゃう。っていうか、既にそうなってる。これを社会学者たちが「社会の心理学化」って呼んでる。というのは、アンタが痛むのは、痛みを与える社会が悪いというより、心身から痛みを取り除く方法を知らないからだよってことだから。「私的なつながりが悪いんだよ」「見ているコンテンツが悪いんだよ」「使っているドラッグが悪いんだよ」ってのは全部それ。すると、痛み、社会制度の問題というより、ミステイクの問題になっちゃう。

ダース: あ、選択を間違える。「間違ったもん見ちゃった!」「間違ったヤツとSNSでやり取りしちゃった」とか。

宮台:■そう。すると、「この社会を生きる痛み」っていう物言いの意味がなくなるじゃんね。そしたらどうなるか。倫理が消えるんだけれど、その現れとして、宗教の基盤が掘り崩されることになる。宗教は、単なる栄養ドリンクやスタミナドリンクと同じようなものになっちゃう。マンケル・サンデルが言っていたようにコンバージョン(回心)が襲うという受動性が宗教の本質だったのが、宗教が「どんなスピリチュアルを選ぼうかな」っていう能動性、つまり選択の問題になっちゃう可能性がある。だから、宗教とスピリチュアルの違いって、僕の言葉でいえば、全体に関わる「ソーシャル・スタイル」の問題か、個人的な「ライフ・スタイル」の問題か、っていう違い。先のスローフードとロハスの違いに重なりますね。倫理が消えるって、そういうことなんですよ。

ダース: ちょっと元気づけてくれる。オヤジの小言みたいなのがトイレに貼ってありますけど。そういうレベルになってしまう可能性があるってことですよね。
 いま言っていた宮台さんの話って、たとえばNetflixでもAmazonでもなんでもいんですけど、要は予測しながらオススメをしてくるってことがどんどん高度化していって、なんだったらAmazonでもNetflixでも「なんで知ってんの?」っていうレベルどころか、「こんなの面白いの?」って見たらめちゃめちゃ面白いってものすらも提案してくるようになってきていて。これに抗うことって、僕は基本的にはできないと思っていて。「Amazonのオススメなんて一切買わないぞ!」っていうことをやっていった結果、ただひたすら不利益を享受し続けることになるのがもう分かっちゃうわけで(笑)。
 だからこの流れは、横に美味しそうなものが置いてあって、「ほらこれ君、好きでしょ?」ってずっと言われ続けているような環境にこれから生きていくってときに、痛みっていうのがなんなのかっていうのは……概念が変わってしまうっていうのは、たしかにあると思っているんですよね。それを、痛みを残さなければいけないって言い方って、警鐘しづらいというか、そのまま字面通り言うとなんか悪いことしているように感じられるから(笑)。今日1時間以上話したら、なんとなくそういうことなのかなって分かると思うんですけれど、たとえばこれをいま、そういったことがない若者に、「痛みを伴う改革が必要だ!」とか小泉純一郎みたいな話になっちゃうと意味がないわけで。概念自体をつたえることも結構ハードルが高くなってきている気がするんですよね。


宮台:■そのことに対処するための、最近の僕の活動の工夫があると考えてほしいんですね。ダースさんが参加しておられるゼミを含めてね。こないだのDarwinRoom映画ラボのテーマは、「世界は世界であるとはどういうことか?」だった。複数の切口を使ったけれど、その1つが、「快・不快は脳内環境の問題です。だからクスリとゲーミフィケーションで解決できます。適切なクスリの選択と、適切な仮想現実や拡張現実の選択があればOKです。適切な選択肢の存在と、それに向けたナッジ(小突いて知らせる営み)の存在があれば、全ては解決するのです」という意見に、「違和感がありますか?」という問いかけだった。これにはほとんどの人が違和感が表明したわけ(笑)。
■でも、「じゃあ、なんで違和感があるんですか?」って尋ねると、ほとんどの人が「えー……なんでかなあ?」ってなっちゃう。そう。この問題は、すごく言語化しにくい。でも、なんとなくモヤモヤとみんなが気づいているんですね。で、この言語化しにくいけどモヤモヤって、どれだけ継続できるものなんだろうということが、僕には不安なんです。学問的な答えは出せるし、それを今語れるけれど、せっぱつまった痛みを抱える人たちにそんな物言いは届かない。だから、実践的には今のような違和感を惹起してそれを継続させる営みが専ら必要で、そのために映画コンテンツを使ってるんです。
■これは、僕がよくいう「ゆでガエル問題」に関係してる。みんなが新しいテックを実装した社会に単に適応していった場合、もやもやとした違和感が消えてしまう可能性がある。違和感が消えれば、違和感がもたらされる理由について答えを知っていたところで、なんの足しにもならない。また、そうした違和感を主題化したコンテンツが単に散在しているだけでは、敢えてそうしたコンテンツを選んで見ようとは思わないでしょ? たとえ見ても、大きな流れの中では、違和感を感じるのは少数派なんだろうと思ってしまう。すると、少数派になりたくないから、認知的な整合化で違和感を忘れちゃう。
■なにごとにつけ原理主義は、人を社会の中に──言葉や法や損得の中に──閉じ込めるので、よくない。痛みの原因である社会を放置して痛み止めに淫するのはダメだと言ったけれど、ドラッグやゲームは絶対にいけないなんて思っちゃいない。なにせ僕は3歳の頃からアーケード・ゲーマー(ゲームセンターで遊ぶ人)で、体感ゲーム華やかなりし1980年代末には当時のセガ開発部長に話を聴きに行ったり、アーケード・ゲームの業界紙に連載記事を書いていたほどだから。ダースさんが言ったように、痛み止めにせよ何にせよ、自分の心身が要求するゲームやコンテンツを享受したがるのは当たり前。NetflixやHuluのアーキテクチャを利用しないなんてことはありえない。ただ、利用しながら、そうした利用で問題解決よりも問題放置に貢献してるんだろうな、と、ぼんやりとではあれ思えること。そこに僕らがどれだけ働きかけていけるのかです。

ダース: 宮台さんね、ちょっと前の、ナッジと選択の話がでたところなんですけれども。要は「お前の選択が悪い。この中からもっと良い物を選べばそれで済む」とか「このゲームをやればいいんじゃないか/このドラッグをやればいいんじゃないか」という選択に問いする問いで、キャス・サンスティーンの『選択しない選択』っていう本があって。選択肢っていうものが用意されていて、選択肢が乗っかっているテーブルがあって、それは誰が選択したのかっていう選択肢がそもそもそこにはあって、そこに乗ってないものはなんなのかっていうことを考えていくっていう考え方を、常に実装してけば、「コレです!」って言って「この中から選べばいいんだよ」って言ったのはなぜそれが選ばれているのかとか。そこに入っていないものはどういうものなのかってことを想像しながら当たっていけば、少しずつブレーキを自分にはかけられるかなと思うんですけれど。そういった考え方、選択肢ってなんなのかっていうのを、僕、日本の政治状況・社会状況を話すときに、いつも僕が疑問に感じるのは、これはどういう選択肢から誰が選択したのかっていうことが、明示されていないものになぜみんな従ってしまうんだろうっていうのがあって。
 これはコロナ対策で言うと、すごく分かりやすく言えばクラスター対策班っていうのがバンッて出てきたときに、僕が一番違和感を感じたのは……「日本独自の手法です」って言われたけど、どの選択肢からなにをオミットして、クラスター対策班っていうものを看板にしてやるって選択肢は、誰が、どんな選択肢から選んでやったんですか、とか。政策決定で「30万円を渡します」とか「10万円を渡します」とかいろいろ出てきているのは、なんの選択肢からどう選んで誰が決めているのかっていうのが僕は全部気になるから、そこが出ていないと「ちょっと待って」って言うようにしているんですけれども。
 その疑問をまず持つことによって、ガーッと進んでいくテクノロジーって、基本的にはいま、選択肢をどんどん与えられて、しかも選択肢の最適化をされて、「あなたにとっていい選択肢はコレとコレとコレですよ」って言われている状況に対しての疑問を提示し続けるってことが、少なくともスピードコントロールする上では大事かなと思うんですけれど。

宮台:■はい。ダースさんのおっしゃったのは、僕がよく言う「3択問題という問題」です。「正解はどれでしょう?」と3つの選択肢が提示される。その中からどれを選んでも自由だと。でも、考えてほしい。なぜ3択であって、4択じゃいけないのか。そもそも、そんな問いに答える必要があるのか。問いを選んだのは誰なのか。結局、回答者には問いを選ぶ自由も答えない自由もないじゃないか。そのことに気付かないまま、自分は自由だと思うヤツは、頓馬という他ないじゃないか。そこからダースさんが言ったディクスロージャー(情報公開)の問題をパラフレーズすると、こうなる。
■単にソレをしているという「目に見えるところ」だけじゃなく、どんな選択肢がある中でソレをしているのかという「目に見えないところ」にも着目しなきゃいけない。経済学者アマルティア・センはこれをケイパビリティ(行為の潜在的可能性群)と呼んだ。ディスクロージャーで社会成員のケイパビリティが増すんだね。どんなプレイをしたかという目に見える部分だけじゃなく、どんなプラットフォームがあるから然々のプレイの選択肢があるかという目に見えない部分が分からないと、プレイの「意味」が分からないんだね。
■だからダースさんが言ったのは「プラットフォームをまず明らかにしてくれ」ということに当たる。プラットフォームを示されれば「コレに満足しかけていたけれど、騙されるところだったぜ。コレ以外にアレもソレもあるじゃないか、隠しやがって」となる。日本の統治権力は被治者がそう言い出すのを嫌う。だから統治のエコノミーを考えてプラットフォームを知らせない。これを「依らしむべし、知らしむべからず」と言う。これは僕が言う「任せてブーたれる政治」と表裏一体。でも、これだと日本は到底生き残れない。「全選択肢を吟味して何かを選ぶ」過程がスキップされて、知識社会化ができないからだ。だから統治権力は政策選択に際してプラットフォームをアナウンスすべきなんだ。
■クラスター対策班は「クラスター対策以外に選択肢がないのか、それとも他にあれこれ選択肢があるのか」を情報公開すべきだった。ところが2002年のSARS大流行の時に被害を被らなかったので、アメリカにCDCみたいな感染症専門機関を作らなかった。だから制度やノウハウを含めたPCR検査インフラが皆無で、今回クラスター対策「しか」できなかった。ならば厚労省やクラスター対策班は「日本のプラットフォームは然々なので未感染者や軽症者の検査体制はなく、発症者のクラスター対策しかできない。その外側で市中感染が拡がったら選択肢はないので病床確保の緊急措置を発動する」と言うべきだった。当然「偶然SARSの流行がなかっただけなのに隣の韓国を含めた他の国にあるプラットフォームがないのは何故だ?」「2009年の新型インフルエンザ大流行でCDCが検討課題になったのに厚労省や感染症専門医は何をやってた?」と批判を受ける。それを異様に恐れたのね。
■しかし、日本の政治家や行政官の低能力ぶりを考えたら、予想通りの体たらくだったわけで、どうってことはない。それより、僕が注目したいのは、プラットフォームが全ての選択の意味を決めてしまうという抽象原理だよ。ゲームの仮想現実や拡張現実が、リアルな現実とどこがどう違うかは、そのことに関係している。「ゲームは世界足り得るか」という問題は、そのことから自動的に導かれるということだ。ヒントは、ゲームには作り手がいるが、世界には作り手はいないということ。世界の作り手は、強いて言えば神だ。神が世界の中にいたら世界を作れないから、神は世界の外にいる。でも、世界はあらゆる全体だから、世界に外はない。映画ラボでは、このスコラ神学的問題に切り込んだんだね。

▶Netflixに違和感をもたず享受することは「感情の劣化」である

ダース: いまのちょっとね、宮台さんのその話が、僕は何度も聞いているのでなんとなく自分の中で……要は中にいて、外をつくるってことはできない。つくる人は常にその外側にいなきゃいけないって前提がまずあって。みんながいる世界って……よく分かんないすんごい広大な宇宙とかも銀河も何個も入っている全ての世界をつくるための、その外側にいなければつくれないっていう前提があってっていうことですよね? 中に神がいないっていうのは。

宮台:■そうです。初めて聞くと難しいから、僕の映画批評を読んでほしいところだ。けれど今できるだけ平たく言うと、世界を作るには、世界の外に作り手がいなければならないが、世界はあらゆる全体なので、世界の外に作り手が存在するなら、その作り手も世界の一部になってしまう、という逆説がある。この逆説は原理的に、解くことができない。映画批評ラボなどでは、そのことを語った途端、みなさんが変性意識状態(ハイな状態またはトランス)に陥るんだね。そのタイミングで、みなさんに問うわけ。ユダヤ教やキリスト教やイスラム教でThe God(世界の創り主)の偶像崇拝を禁止する理由を。

ダース: これは教科書ではただ単にアイコンを作るなっていうふうにしか書いてないんですけれども。

宮台:■そう。でも「アイコンを作るな」というのは恣意的な規範じゃないんだよ。むしろ今話した逆説にロジカルに関係する。神は「世界の外」なのでイメージできたらおかしいでしょ。ちなみにイエスはもともと神じゃない。人だ。だからイメージできる。つまり、偶像化して構わないんだ。そもそも人として実在したんだから。ただし、イエスは世界の外にいる神と交信できる、という設定だ。世界の中にいる人が、世界の外にいる神と交信できるはずがない。だから、イエスは特別な存在、つまり「神の子」でなければならない。ルーマン的に言うと、この設定は、さっきの逆説の痕跡を指し示すサイファ(暗号)なんだね。
■という具合に、偶像崇拝禁止はロジカルな要請だ。世界の中にいる人は、世界の外にある神を認識できないし、ましてコミュニケートできない。だから、神に偶像があるはずがない。でも、人は神の存在を知っているし、神からのメッセージも知っている。これは逆説だ。この逆説を特異点に集約したものが、神と人を媒介する特別な存在だ。それがアブラハムであり、モーセであり、キリスト教ではイエスだ。逆に言えば、普通の人はたとえ聖職者であれ、神とはコミュニケートできない。だから、偶像崇拝はもとより「生贄を捧げて許してもらう」「罪を犯さないことで許してもらう」という交換取引もあり得ない。これをウェーバーは「御利益信仰は神に交換を強いる神強制は瀆神だ」としたわけ。ところが、この基本ロジックを教えられる学校の先生も聖職者もいないという惨状がある(笑)。
■ここで宗教を離れよう。世界と違って、社会には普通の作り手がいるし、社会に作り手がいても、逆説は存在しない。ちなみに、それが、世界の創造譚と違って、社会の創造譚が単なる英雄譚──スサノオ伝説や折口信夫の貴種流離譚──である理由だ。さらに伝説も離れれば、社会の作り手は1人じゃなく、複数の人々が作り出した歴史だ。ということは、「歴史次第で社会はどうとでもあり得た」ってことだ。世界の創造譚が、神の意思に言及して「神次第で世界はどうとでもあり得た」とするのと同じだ。でも神は、存在しないのに存在する逆説的存在つまりサイファ(暗号)だ。他方の人は、存在するので逆説はない。この違いが、世界と社会の違いに並行するんだね。
■いわゆるゲームはどうか。PCやスマホのゲームだ。ゲームにも作り手が存在する。作り手がなければゲームはなかった。別の作り手がいたら別のゲームになった。「作り手次第でゲームはどうとでもあり得た」ってこと。ゲーム「の中で」僕らはプレイする。だから、ゲームはプラットフォームだ。「作り手次第でプラットフォームはどうとでもあり得た」ってことになる。ゲームのプレイに複数の選択肢があるように、ゲームのプラットフォームにも複数の選択肢がある。つまり「その3択問題」以外に「別の3択問題」があり得た。そして、ここが肝腎だけれど、ゲームのプラットフォームの作り手は、社会「の中に」存在する。それは、僕にとってのダースさんだったりする。だから、それを意識できるかどうかが、「ゲームは世界であり得るか」に答えるポイントになる。つまり結論は自明。「ゲームは世界であることができない」んだね。
■今は多くの人たちが在宅を続けていて、退屈でつまらないと思うんだ。だから、一生懸命NetflixとかHuluとかAmazon Primeを探す。探して見た後に「あー、今日もクソつまんなかったな」「チョイスを誤ったわ~」と思う。それは半分以上真実だけど(笑)。でも、そこで思考を止めちゃダメだ。「なんでチョイスがこれだけしかないのか」とを意識しなきゃいけない。クイズの3択問題で言えば、「3択問題に正解したヤツは賢い」という『東大王(東大生が答えるクイズ番組)』的な発想もあるだろう。でも「なんでその3択問題に答えなきゃいけないんだ? そんなことに答えることが大事なのか」ってことを見失っちゃいけない。それが「プラットフォーム制定権力」を意識することにつながる。

ダース: いまの3択問題の話で、すごく重要な描写が1個入っているなと思うのは、宮崎駿の『千と千尋の神隠し』なんですけど。それの1番最後ーー「ネタバレすんな」みたいな話はさすがに千と千尋くらい見ておいてほしいって話なんですけどーー最後に、豚に変わっちゃった両親を探せっていうふうに千尋が言われて、「この中に豚がいるから、この中にお父さんとお母さんがいるから、それを見つけたら返してあげるよ」ってなったときに、千尋が「お父さんとお母さんはこの中にはいない」って答えを出すんですね、それが正解なんですけれども。あの描写の意味っていうのは、湯婆婆がつくった選択肢が正解だと思い込んだら、湯婆婆の世界からは出れないわけですよ。湯婆婆がつくった世界から出るためには、湯婆婆がつくった世界の中で用意された選択肢の外に正解がある。ってことに気付かないと、あの世界からは出れないっていうのを宮崎駿が描いていて、それはすごく重要な視点だと思うんですけれども。
 Netflixの中にあるオススメは、Netflixをつくった……Netflixが上手なのは「記名性=クレジット」を実はしていなくて、誰がこれやってるのかっていうのを、Netflixはあんまり……だからマーク・ザッカーバーグ[Facebookの創業者]とか、スティーブ・ジョブズ[Appleの創業者]がやってないことが、21世紀の今後のプラットフォーマーのヒントだと思っていて。やっぱりどんなにやってもAppleやスティーブ・ジョブズとかビル・ゲイツ[Microsoftの創業者]、そういう人がつくったものの中で、「この人は頭いいからこの人の選択肢だったら信用できるな」ってレベルのものでしかないんだけれど、Netflixはそこをもう1個さらに拡げて「誰が選んだかよく分かんないけど、こいつ俺のことよく分かってるな」って意味では、かつての、神がかり的な啓示の選択肢の用意の仕方には似ているとは思うんですけれども、それでも人がつくってるってことは、みんな分かっているから。


宮台:■なるほど。それこそが1988年に書いた博士論文『権力の予期理論』(1989年1月出版)の最大のキーコンセプト「奪人称性」だよね。奪人称化された権力は、権力の起点に対する疑念や抵抗を消去できるんだ。そんな中にあって、『千と千尋の神隠し』の「両親はこの豚たちの中にはいない」というのと同じ回答が果たしてできるだろうか。できるのであれば、奪人称化された権力もまた権力であること──別のプラットフォームが幾らでもあるのにそれが制約されていること──を意識できる。
■でも、それが意識できたとしても、さらにその先に問題がある。ウォシャウスキー兄弟(現在はウォシャウスキー姉妹)が監督した『マトリックス』には、サイファっていう名の男がでてくる。簡単に言えば、彼は「この3択問題の中には答えがない」あるいは「ここにいる豚の中には正解がない」ということを知っている。つまり、奪人称性にもかかわらず、「プラットフォーム制定権力」の存在を意識できている。でも、だからといって、3択問題の外に正解を探すかというと、探さない。「私は探さない」って宣言する。
■確かに、探すのは苦難の道だ。何が起こるか全く分からないという規定不能性があるからです。探したところで何も約束されていない。3択問題がたとえ虚偽問題だと意識されても、その3択から答えを選ぶ限りは、何がどうなるかが約束されている。つまり、規定可能性の内側にいられる。これは映画冒頭の「赤いピル・青いピル問題」としても出て来るモチーフです。実は同じモチーフが映画の中で繰り返しでてくるわけだ。一口でいえば、なぜ一部の人は規定可能なものの外側に出ようとするのかという問題ですね。
■話を少し戻すと、Netflixは、権力の人称性、つまりプラットフォームの全体を誰が作ったのかを、消去しています。プラットフォームの説明責任を担う主体を消去しているということ。これはすごいよね(笑)。僕もこれは意識的な作為だと思う。ザッカーバーグが目立つほど、フェイスブックのプラットフォームについての説明責任がザッカーバーグに人称的に帰属される。他方のNetflixって「正体不明の集団指導体制」だから、どこにプラットフォームの説明責任があるか分からない。だから単に「プラットフォームがある」という事実を享受するしかない。高度にネクスト・ジェネレーション的だと感じる。

ダース: そうなんですよね。いまのNetflixの話は、僕ちょうどいまオーソン・ウェルズの『1984』を読み直していてーーこれいまちょっと読んでおいたほうがいいかなと思ってーー『1984』のビッグブラザーっていうのは、悪しき者として描かれているふうなんですけれど。これはディストピアで、酷い監視社会で、話の中ではテレスクリーンっていうテレビ画面があって、そこから全部監視されているんですけど。そこから音楽とか映像が流れてそれをひたすら享受している。で、ビッグブラザーは常にウォッチング、視ているよって中でみんな生きてるんですけど、これってNetflixじゃんって思ったんですね、読んで。
 Netflixって画面で見てて、画面から常に「これオススメ」「あなたが見ていたものはこれ」「いま1番人気あるのはこれ」……Netflixがビッグブラザーと違うのは、気持ちいい快楽を与えてくれているから、悪いものとして認識できないけど、でもビッグブラザーって何者か分からないんですよね、『1984』で読んでいても。なんだか分かんないものに支配されていて、それがテレスクリーンからずっと監視しているっていうのが、これが実はAmazon……Amazonは先行しているからまだ記名性があるんですけれども、Netflixはかなりこのビッグブラザー的なものなんじゃないかなってことを、少なくとも考えながら……まぁでも「いいビッグブラザーなのかな?」みたいなことを考えながら僕は見ちゃってるんですけれども(笑)。
 あと、『マトリックス』の話もーーもし『マトリックス』観てないって人は、いま暇だからぜひ1だけ、最初のやつだけ観てほしいんですけど(笑)。ーーサイファって存在が出てきて。モーフィアスっていうのがまさに外側の回答を探している存在なんですけど、「いや、モーフィアスの言っていることが分かる、たしかに。でも、こんなの夢見ていたほうが幸せじゃん俺ら」っていう、サイファーのリアリティっていうのは反応が難しい。だってモーフィアスは常に傷つきながら苦労しながら、なにが正解か分からない道をずーっといっているのに対して、サイファーの選択を取れば「寝てるだけでいんだよ俺ら」って話になるわけだから(笑)。これってコスパで考えるサイファーのほうにむしろ理があって。
 そして、いま話していて思ったのは、モーフィアスは「その外側にある回答はネオなんだ」っていうことを言うわけじゃないですか。「見つけた、カギを見つけたんだ」と。
 でもそのネオっていう存在も、誰かがーーマトリックス(という世界)をつくった預言者とかいろいろ出てくるんですけどーー結局用意されていて、「この人こそが預言者だ」「これが救世主だ」っていうふうに言っているっていう選択肢をモーフィアスは結局掴んじゃっているだけっていう、すごく皮肉な描写もあって。「あ、やっぱり違う選択肢があったじゃないか」って気付いたのに、それはモーフィアスがいる世界があらかじめ用意している選択肢を1個取ったに過ぎないっていうのが、僕は『マトリックス』の怖いところというか。


宮台:■そうですね。ダースさんその『マトリックス』の設定は実は、アニメージュ連載版の『風の谷のナウシカ』の最後に出てくるモチーフでしょ?

ダース: 第7巻ですよね。

宮台:■そう、第7巻。みなさんの多くは、映画版しか知らない。ってことは、第2巻までしか知らない。第2巻までだと、悪だと思っていた腐海や王蟲が、世界を浄化する善であることに、ナウシカだけが気付いたという話。ところが、いろいろあって第7巻に至ると、「善」である腐海や王蟲の存在も、それが「善」だと気付くナウシカの存在も、『新世紀エヴァンゲンリオン』における「ゼーレ(魂を意味するドイツ語)』のような「賢人たち」が設計したものということに、ナウシカが気付いてしまう。そして、そのことだけが「賢人たち」によって予定されていなかったことにも気付いてしまう。全てが設計されたものであることに気付いたナウシカが、ネオラッダイツのユナ・ボマーのように、発狂的に全てをぶち壊して終わる。その後に何世紀も経ってもナウシカが伝説の存在として記憶されているっていうね。
■宮崎駿自身、あの連載版の最後は「自分でも何を描いていたのか全く覚えていない」って証言している(笑)。記憶を失っているくらいにトランスしていたっていう意味だ。むろん読者も激しい変性意識状態に陥っちゃう。その理由は、「世界が世界であるとはどういうことか」(宮台真司映画批評ラボのテーマ)という、世界の根源的未規定性に触れる問いに、巻き込まれてしまうからだ。この「世界が世界であるとはどういうことか」という問題設定は、この50年で言えば宮崎駿が最初に示したものだけれど、遡ると、手塚治虫が『火の鳥』シリーズで描こうとしたものだよね。今世紀に入ると、それがハリウッド映画を含めたたくさんの洋画で描かれるようになった。そして直近で言うと、『1984』に出て来る「シンクポル=思考警察」を重大なモチーフとした神山健治の3Dアニメ『攻殻機動隊 SAC2045』がさらに深化させようとしている気配なんだ。

ダース: そのまま『1984』に出てきますもんね。言っちゃうとアレなんですが(笑)。

宮台:■そう。ポルには世論調査って意味があるんで、「シンクポル=思考警察=思考投票」という掛詞(かけことば)にもなってる。そのことは、実際に視聴していただければ立ちどころに分かります。
■ところで、『攻殻2045』も第1シーズンでしょ? さっきの『メシア』も第1シーズンでしょ? 僕がよくオススメしている『グリーン・フロンティア』も第1シーズンでしょ? これは二つの意味で興味深い。第一に、作り手たちも、3択問題の外という問題が抱え込まざるを得ない規定不能性ゆえに、たぶん問題に対する答えを用意しきれていないということ。第二に、にもかかわらず第2シーズンがちゃんと作られるのかどうかが「シンクポル」そのもので、みんなが観れば──思考投票によって思考警察をすれば──第2シーズンが作られるけれど、みんなが思考投票しないと第2シーズンはないんだよね(笑)。
■すると、一方に「Netflixの進化しつつあるプラットフォームを誰が主導しているのか分からない」という未規定性があり、他方に、みなさんが観ることを通じて「シンクポル」──思考投票による思考警察──が機能し、場合によっては第2シーズンがデリート(削除)されるという未規定性があることになります。すると、Netflixのまさに「ネットは広大だわ」(映画『攻殻機動隊』1995のセリフ)みたいな「世界」の、見渡せない全体性が、それ自体「シンクポル」の作動の場そのものだっていうね。さすがに神山健治なんだけれど、『攻殻2045』を観て、Netflixを含めた昨今のサイバー空間化に対する違和感をみなさんが惹起されないとすれば、僕はかなり感情的に劣化していると思うな(笑)。

ダース: やっぱり便利だから観る、面白いから観るってっていうのと別軸の、なんで自分はこれを選択しているのかとか、自分がコミットしているのはなんなのかっていうことを少なくとも考えるっていう訓練自体は、僕は宗教がーー結局そこに戻るんですけれどもーー考えてずーっと退行していくわけじゃない? 「ってことはそれをつくったのは誰? ってことはそれをつくったのは誰? ってことはそれをつくったのは誰?」ってずーっと続いていくっていうことを前提として、それにある種セーフティネットというか、「はいここまで!」って言ってくれる存在が宗教で。「うん、よくできました。そこから先はこうなっております」みたいな、神的なものを設定したりすることによって、無限退行していくところに、「オーケー、よくやった」って言ってくれるような存在が宗教だと、僕は思うんですけれど。
 でも、少なくともそのスタートラインとして、前提確認はずっとしていくっていうこと自体を放棄しちゃうと、それをやっているからこそ宗教は、それで悩んじゃって。「なんなんだ? これはどうなっているんだ? なんでこういうことが起こるんだ? なんでこんな目に遭うんだ?」っていうのをずーっと繰り返しているところに、「オーケー」って止めてくれるのが宗教だとして、無限退行っていうこと自体が起こらなくなってきたら、宗教の役割はなくなると思っていて。その無限退行がなくなる方向に、テクノロジーっていうのは……「だってそれって大変じゃん」みたいな。「え、そんなこと考えているよりもこっち見なよ」とか。


宮台:■『マトリックス』に出て来る「サイファ」という男の方向だよね。

ダース: 「サイファ」的な方向にみんな行こうとしていて。「これが生理的には楽だし、コスパ的にもいいし」っていうことに……「いやでもなんで?」っていうのをどう保持するかっていうのが、宗教はそこにコミットしていかないといけないと思うんですけれど、現状、既存の大宗教がそういったレベルの動きをどれだけできているかなあ? っていうのが。
 たとえばオンライン礼拝しますとかっていうテクノロジーに乗っかってやるっていうときに、アメリカの場合テレビ伝道師っていう謎の存在がたくさんいるんですけど(笑)。


宮台:■はっはっは、それな(笑)。

ダース: あれって、要はコスパじゃないですか、テレビ伝道師ってのは。そういった意味で、アメリカの福音派とかがやっていることって、本来の苦しみをひたすら乗り越えていった先に、本当に大変だったことに対して「オーケー」と言ってくれる宗教じゃなくしちゃった、テレビ伝道師とかが。そういった意味で、宮台さんふうに言うと劣化がはじまっているんだと思うんですけれど。宗教がいまそこにどれだけコミットできるかってのが、すごく重要な……僕は無神論者で、無宗教だっていうことは自覚をしつつもそれは思うんですよね。

(後編2に続きます)