【100分de宮台】No.3|コロナと宗教|2020.05.02ライブ文字起こし|中編
(以上前編、以下中編)
▶仲良くなりたければ一緒に長い散歩をしろ
宮台:■そうなんです(言葉よりも言葉を得るまでの工程こそ大切だというダースさんに、応答)。だから、僕の恋愛講座・ナンパ講座でもね、まぁ僕の本(「愛のキャラバン」ほか)でも再現されているけれど、女の子……まぁ友達でも同じなんだけれど……仲良くなりたかったら長い散歩をしてほしい。長い散歩をすると、最初合わなかった歩調や呼吸がだんだん合ってくる。しかも、同じ風景を同じ順番で経由することで、共通の時空のベースができあがる。それができあがれば、その後は、ほんのちょっとの言葉や仕草だけで大きなことが生じるんですね。年少の世代になるほど、こうした時間軸に関する想像力がないので、どうやって告白するかってときに、告白の内容ばかり考えちゃうんです。
■そうじゃなくて(笑)、いつもの決めフレーズを言えば「告白するまでに、何をするかが8割だ」です。時間軸を通じて、共同身体性とそれによる共通感覚が、生まれた後、そこから先は、ホンのちょっぴりだけでいい。ここでも、いつもの決めフレーズを言うと「そこから先は、目だけでいい」。その意味では、宗教も舞台芸術も性愛も、同じ時間構造を持ちます。それが、ポストコロナの時代に、宗教が……実はそれだけじゃなくて舞台芸術や性愛も同じだけれど……生き残れるかを左右する「共通の大問題」を示しているんですね。つまり、共通して、「体験デザイン」として有効であり続けるか、です。その意味では、教育もまた、同じ「共通の大問題」を抱えています。
ダース: ちょっとね、僕のこのチャンネルで、別枠で僕の友達だったり知り合いと、オンライン教育の今後についてちょっと話したんですけれども、基本的にはオンライン教育っていうのはまさに同じ問題を抱えていて。で、たしかにzoomでできることもあるし、テクノロジーで、ある種、この知識をこの人に渡すってことだけだったら、まあ、むしろいろいろできるくらいの話で。
これは最初のほうに宮台さんが言っていた、大学のゼミでも会議でも、これやっちゃったあとわざわざ教室に集まるってのは、情報量の行き来だけ考えたら、すごくコスパが悪いんじゃないかっていうのは当然あって。でも、そうじゃないものってなんだっけ? ってことを考えながら進まないと、オンライン教育のほうがいい……ていうかいまはオンライン教育するしかないわけだけれど。
そういったときに失われるものがなんなのかっていうのは、言語化しておいたほうがいいんじゃないかっていう会話をしたばっかりなんですけれども。やっぱりそれって、大学生のアンケートを取った場合、実はオンライン化に賛成している学生の大部分が、学校行くまでの時間が2時間かかるとか、それがなくなったから、すごくいいっていう……その感覚でオンライン教育を良しとしている学生が多くて。でも僕、高校のときとか1時間くらいかけて通っていて、途中から電車乗るのやめて走って通うようにしていたんですけれど(笑)。
宮台:■ははは(笑)。
ダース: そうすると、やっぱりできあがっているんですよ。学校着く頃には40分以上ジョギングして学校通っていたんですけれど、着いたときにはできあがっていて、その学校体験っていうのが全然違うものになったっていうのが実体験としてあるから、たしかに知識の受け渡しだったりコストパフォーマンスってことを考えるとオンライン化のほうが遥かに良くなるし、これは技術が進めば進むほど、その場でファイルのやりとりもできるし、画面共有すれば映像もその場で見せられるし、音もなんでもできるわけだから、それはいんだけど……でもそれってそもそも秤(はかり)に乗せられるものなのかっていうのが、ちょっと僕は分からなくて。どっちかを選ぶっていう類いのものなのかなっていうのが、すごく難しい気がしたんですけれどね。
宮台:■おっしゃるとおり、秤に乗せるというやり方じゃなくって、zoomならzoomを使って、かつてのオフラインが分厚く存在したときの体験を、どうやったら実装・再現できるか、っていうふうに、みなさんには問題を立ててほしいんです。さっきお話ししたDarwinRoomでの「映画批評ラボ」でやったのが、ブレイクアウトルーム=班分けです。これは、別の英語で教える大学(至善館)のほうで、班分け機能を使うとものすごい効果があることが分かったからです。そこに、かつて存在した時間構造をオンラインで再現できるかという問題が関係するんです。
■班分けをすることの意味は、機能的には分かりやすい。班分けでは、スーパーバイザーあるいは教員である僕が強いて望まなければ参加できないので、「僕の見ていないところでみんなで話せる」んですね。そうすると、よく「インターネットを使った教育は双方向だ」って言うけれど、実際には片手落ちであることが分かります。教員と生徒の間の双方向だけじゃなくて、生徒と生徒の間の双方向性や、双方向性を超えたギャザリング(集まり)も大事だということが分かります。
■「班分けして5分間喋ってくださいね」って言うと……僕の場合は意図的にシステムによるランダムなブレイクアウトを使うけれど……毎回はじめて出会った人と話し合うことになります。そして、次のブレイクアウトでも、また初めて出会った人と話し合うことになる。それを3、4回繰り返すと、50人や100人の規模でも、ある種の共同性ができあがるんですよ。「こういう人たちが参加しているんだ」「疑問を感じていたのは僕だけじゃなかったんだ」という感覚も抱ける。
■それだけじゃなく、レクチャーやセッションが全部終わった後、zoomミーティングルームを落とさないでおけば、zoomのチャット機能を使って、みんなで二次会になだれ込めるわけ。20人以下の規模でやる場合は、zoomと並行してLINEを開いておいてもらうんだけれど、LINEでやってもいい。繰り返すと、みんな「双方向」ってことばかり強調しているけれど、生徒間の関係はどうなんだよということです。これはダースさんがずっとおっしゃってたことですね。生徒間の関係をどうやって作るのかを考えないで「双方向だからいいんだ」とホザく教員は、頓馬です。教員にそう言われて「それでいいんだ!」って思う親も生徒も、頓馬です。教室内の関係って、むしろ生徒間の関係なんだよ。
ダース: 小学生くらいの教室って、突然変なこと言い始める子が4つくらい離れた席で、「先生はーい!」って言った後に全然関係ないこと言いはじめたりとか、やたらと答えるのが早い子もいたり、手をあげて喋ったと思ったらなにもまとまってなかったりとか、先生がなにか言ったときに周りが思わず笑っちゃったりとか。そういった場の空間の体験をインターネットにどれだけ移行できるのかっていうことが大事だと思っていて。「そもそもできるのか」っていうのと、さっきのに戻っちゃうけど「していいのか」っていう話もあって。これをインターネットが代わりをできるようにするっていう方向に進んでいいのかっていうのも考えたいなと思って。
もう1つ宮台さんがずっと話していたのが、長時間散歩することによって、人間関係の8割は一緒に散歩すればできるんだっていうことが、そもそも耐えれられない人がいっぱいいて。5分と間が持たないみたいな。一緒に散歩もできないっていうのが一定数、実はいるんじゃないかなと。それはさっき言った「大学に2時間かけて通うのがダルいから、zoomでいきなりオンラインできて良かったです」っていう人は、やっぱり耐えられない……それは「痛み」だったり「つらさ」だったりというのが。zoomだったら3秒で入れるけど、こっちだったら2時間かけて大学行きますよっていうのが、もう耐えれられないっていう人が結構な数いるっていうのが(笑)。
宮台:■そう思います(笑)。僕も中学・高校はだいたい1時間50分片道かけて通っていたんですね。
ダース: 1時間50分ですか(笑)。
宮台:■そう(笑)。でも、おかげで、少なくとも帰宅については、友達と途中まで一緒に帰れるわけ。だんだんお別れしていって、最後は一人になるんだけれど、長い場合には一人か二人の友達と1時間は電車に乗っているわけです。これ長いよ。だから、いろんなこと喋れるよ。それがすごく重要だったなっていうことを、さっきのダースさんの話を聞いて思い出しました。同時に、今どきの子たちは、もたないだろうなとも思った(笑)。たぶん、沈黙を恐れたりとか、自分が本当に思っていることを喋ったりするのはまずいんじゃないかとか。そんなヤツらが将来、性愛に乗り出せるはずもないわけよ。
■本当は、これは「ニワトリと卵」の問題なんです。たとえば、1時間いつも同じ電車に乗って話していれば、話題が尽きてくるよね。すると、だんだん本当に思っていることしか喋ることがなくなるんです(笑)。「俺さぁ本当はさぁ」っていうふうな話をしないと、もたなくなるんだよ。だから、長い間一緒にいるっていうことだけでも、本当のことを喋れるようになるのに役立つんですね。「いろいろ喋ることがあるから、長い間一緒にいるんだ」「喋ることがないから、一緒にいられないよ」って思うのは、長い間物理的に一緒にいざるを得ないという経験の、不足からくる勘違いなんですね。
■さて、zoomは「長い間物理的に一緒にいざるを得ないという経験」を実装できないですよね。いつでも「落ちまーす」ってできるから。要は「つまみ食い」になるんですよ。cherry pickingって英語で言うでしょ。おいしそうなサクランボだけをつまみ食いするわけよ。付き合いたいヤツと、付き合いたいときにだけ、付き合う。この貧しいアーキテクチャ(仕組み)を、zoomでカバーできないかな、別方向に引っ張れないかなって思う。
■そこで思うのは、この「100分de宮台」もそうだし、他の配信もダースさんはいっぱいやってらっしゃるけれど、やっぱり継続なんです。配信を継続すると、だんだん時間が蓄積して、教室になぞらえれば、先生と生徒のつながりも、生徒同士の横のつながりもできていく。Zoomであれば、さっき言ったように、班分けと事後のチャット2次会を利用すれば、その都度の横のつながりを作れるから、それを継続するだけでコミュニティができる。縦の関係でも、継続していけば、生徒は先生の言外のコンテクストを受け取れるようになっていく。先生が喋り出す前に、何を伝えたいのか分かるようになっていく。この横と縦が合わさると、先生の言外にシンクロできる生徒たちというコミュニティができてく。
■単に、送り手が大事な情報を伝えることだけを目的とするケースだと、受け手の知識は蓄積していくだろうけれど、縦にも横にも関係が積み重ならないよね。関係が積み重ならない限り、オフラインの対面コミュニケーションが持つギャザリング(集まり)の機能を、zoom配信が実装することはできない。関係を積み重ねることに注意をするのが大切で、レクチャーするときも「そういえば君はこないだこういう質問をしたよね」とか、グループワークや二次会をするときも「こないだの話の続きを話していいかな」とか。そういう「こないだの話」に言及する構えが、送り手にも受け手にも必要だと思うんです。
ダース: いまの宮台さんの話を聞きながら思い出したんですけれど、僕の学生時代の記憶ですごく大事なのは、帰りの時間に一緒に帰る。僕はサッカー部でやっていたんですけれども、サッカー部の仲間は部活が一緒ということで、普段の趣味とか学問領域とかは全然違う。けれど部活が一緒で、3~4人で一緒に帰るんですけれど、そこでの会話は実はすごく記憶に残っていて、それがすごく大事だったなってことが後になって思うし。「そういう音楽聴いてんの?」とか「なにその本」みたいな話って、そういう目的意外の時間で……学校も終わってサッカーも終わった、さらにその先の時間を一緒に過ごすことで、ほかの話ができるっていうのがあった。
僕の小学校のときの帰りって、ちょっと私立で離れてたところに通っていて、歩いて通っていたんですけど、ダンジョンドラゴン的な高等ロールプレイングゲームをやっていたんですよ。僕がゲームマスターになって、毎回4人とかで帰るときに「お前は魔法使いで、お前は戦士で」みたいなことを言って、歩きながらロールプレイングゲームをやっていて。でも家に帰るまでにロールプレイングゲームって終わらないから、次の日に解散したところからもう1回ゲームをはじめる。でもそのときに、子供だから設定とか曖昧になって覚えてなかったりして、ちょっとずつゲームが変わりながらも、ずーっと遊んでるっていうのを帰り道でやっていて。あれはすごく間をもたせる技術だったり、人と会話をするときに、「みんな違うけど、このプラットフォームに乗っかればこういう話ができるよね」みたいなのを探るのにすごく役立ったなっていうのが。
で、これを、たとえば宮台さんといま僕が話しているのはライブ配信でやっているんですけれど、同時に僕は宮台ゼミとかも通っていて……それもいまはzoomになっちゃったんですけど。だから基本的には情報の受け渡しっていうよりは、「宮台さんがこのタイミングでこういうことを言っているということは、その裏にこういう考えがあって……」とか「あ、この作品の例を出しているっていうことはそれはこういうところに接続してて……」っていうのが蓄積として分かるから、オンラインでもそのままできるけど、それが無い人同士がこれからガッチャンコしていくときにどうなのか。
もう1つ、宮台さんもさっき言っていた、いまの子供たち。そもそもこれがスタートだった場合、別に全然違う進化をしていく可能性があって。そうすると僕や宮台さんがここで言っている「時間を積み重ねるのが良かった/散歩するのが良かった」という良い悪いじゃない、良い悪いに進化していく可能性があると思っていて。それがガンダム的にいうとオールドタイプとニュータイプで分かれる分岐点みたいなのが……要は、昔一緒に散歩していた人類と、ずーっとzoomで話していた人類というので、全然違う存在になっていくっていう分岐点に僕らはいまいるんじゃないかなっていう気もちょっとするんですよね。
▶「イエスとはどういう人間だったか」を抽象化することが「倫理」のコアとなる
宮台:■それは、1960年代の「ニューウェーブSF」が扱ってきた問題でしたね。テックのプラットフォームが変わっていくと、僕たちの感受性も変わっていきます。10年・50年・100年したらずいぶん変わってしまうでしょうね。だから、1950年代の「オールドSF」は、100年後のプラットフォームを生きる人たちの生き方や感情の働きが非人間的になるだろうと、批判するタイプが多かった。ところが、その未来批判を批判したのが「ニューウェーブSF」です。
■一口で言えば、テックの急展開の流れにあって、今の感受性を持つ僕たちが、100年後の感受性を批判することに、どんな意味があるのかを問題にした。100年後のニュー・プラットフォームに適応した未来人たちは、オールド・プラットフォームに適応した僕たちが持つ感受性を既に持たない。現在の感受性を持つ僕たちが、突然ニュー・プラットフォームに放り込まれたら苦しくて仕方ないだろう。でも、未来人が現在の僕たちの感受性を持たない以上、苦しくないだろう。僕たちが未来を批判することにどんな意味があるのかと批判したんです。
■これはジェームズ・グレアム・バラードというSF作家が1960年代に最初に問うた大問題で、多くの作家たちが連なった。この問題は今も解決できていないし、そもそも解決できない問題です。しかし、そもそも解決って何なんだよって思いませんか。思うに、この「バラードの問い」は、「倫理とは何なのか」を問題にしている。倫理は、いつでもどこでも、今ある僕たちの時空間における生活をベースにしたものです。なぜなら、倫理のベースは、事実として存在する「許せない」という感覚の、共同主観性だからです。「許せない」という感覚が、僕だけのものじゃなく、みんなのものであるべきだ、と理解されたとき、その感覚が、規範や倫理に昇格するんです。
■ここでちょっと考えてください。強い倫理の感覚は、「この感覚もどうせしばらく経てば誰からも忘れられるだろう」なんて感覚とは両立しない。それが強いという意味です。「細部は別にして、倫理のコアは変えてはいけない」というこだわりがあって初めて倫理になる。憲法学者のローレンス・レッシグが、立憲意思とは何かについてこう解説した。ファウンディング・ファーザーズ(建国の父たち)が今生きていたら、昔はなかった今の問題についてどう言うだろうか。それが立憲意思なのだ、と。だから、立憲意思は憲法の文面そのものじゃない。彼らが生きていたら、同じ文面は書かないからです。
■「時代を経て、細部が変わろうとも、コアが変わらない」とは、そういう意味です。彼らによって合衆国憲法とりわけ修正条項が作られてから230年経ちますが、テクノロジーも社会状況も劇的に変化したにもかかわらず、文面もさることながら、倫理のコアを維持しつつ今日まで来ています。僕は初期ギリシャ思想の倫理から影響を受けているし、ギリシャ的なものを継承したイエスの倫理にも影響を受けていますから、2000年間も2500年間も変わらない倫理のコアがあるとさえ、思います。だから、テックがどうあろうとも、変わらない倫理のコアを、子供たち・孫たちに述べ伝えていくことそのものが、その倫理に含まれているんですね。貫徹されるものこそ倫理です。
ダース: ベースにあるのが「倫理」って話で、今回のテーマに戻ろうと思うんですけれども。たとえばキリスト教っていうのが2000年続いてきたっていうのは、その西暦0年前後にイエスという人物が語っていたことは、いまでも倫理であるということを継続するっていう仕組みがキリスト教全体として……カトリックもプロテスタントもいろんなやり方があったとしても、基本的には「あのときイエスが言った言葉こそが僕らが守らなきゃいけない倫理なんだよ」っていうことだと思うし。
ユダヤ教に戻れば、それは「モーセがシナイ山で聞いたことこそが、いまでも守らなければいけないことなんだよ」っていう考え方だと思うし。仏教で言ったら釈迦が、あのとき弟子に言った考え方……仏教の場合は考え方の話になると思うんですけれど。「ああいう考え方が、いまでも持ってなきゃいけないんだよ」っていう意味での倫理の保持っていうのが、宗教の1つの役割だと思うんですけれど、それが今後どう機能していくのか、宗教がそれをできるのかっても……。
宮台:■あぁ、ダースさん。それ、すっごい重要な問いかけだと思っているんですね。今日、最も語りたかったことの1つです。倫理のコアっていう言い方をしたけれど、これはとても重大なものです。重要すぎるので、いろんなパラフレーズが必要になると思います。あのね、さっきイエスの言葉っていうふうにおっしゃった。僕らがイエスの言葉を理解できるとは、どういうことなんだろう、というところから始めます。
■さっき僕が紹介した田川建三っていう宗教研究者は、1972年から『イエスという男』と題する文章を断片的に書きはじめて、80年に本になるんです。これが素晴らしい本なんです。でも少し難しい。一口で「イエスはどういう人間だったのか」を問う本です。歴史の資料から見て、イエスは実在しました。そのイエスが故郷から出て歩き回って活動したのは、32歳前後のたった1年。ガリラヤからエルサレムに向かう曲がりくねった道行きです。それで世界を変えてしまった。むろんイエスの教説から生まれたキリスト教がなければ近代世界もないわけです。たった1年で世界の歴史を変えた男。凄い男だったに決まっている。
■何が凄かったのか。大切なことは、僕らがイエスの言葉をじかに聞けないこと。言行録しかない。言行録つまり福音書は4つある。自分の思想をイエスに仮託したヨハネ福音書を除いた3福音書が、時代がズレながらも記述が重なるので「共観福音書」と呼ばれる。さて本題。言行録を書いた人は、どう考えてもイエスより小さいじゃんね(笑)。小さいヤツが伝える「イエスはこう言った」みたいな言葉は「私はこう聞いた」に過ぎない。だから真に受けちゃダメだって田川建三は言います。彼は、イエスが歩いた、その時代のその場所を、歴史学の手法で細かく考証して、共観福音書の重なる記述のシニフィエを明らかにしていく。つまり、文脈を厳密に補ってイエスの真意を再現するわけです。
■田川建三には一貫したモチーフがあります。イエスが行く先々で人々の痛みに寄り添ったことはよく知られています。でも「痛みに寄り添う」という言葉を簡単に理解できると思っちゃいけない。福音書の著者たちも後年の聖職者たちも、自分たちが想像できる範囲で「あー、痛みってこんな感じかな」みたいなシニフィエをあてがっている。これは、とんでもない。歴史的に考証すると、イエスが寄り添った痛みは我々の想像を絶している。イエスが寄り添ったのが現実にどんな痛みだったのかを再現すると、まさに想像を絶したイエスの凄さが浮かび上がる──これが田川建三の史的イエス論のモチーフです。
■だからといって「その時代その場所の痛みと、同じ痛みに苦しまない者には、イエスの言葉が理解できない」というんじゃない。激烈な痛みへの、寄り添い。それも、寄り添うだけで反体制だと思われた時代に、敢えてなされた、激烈な寄り添い。そこから「イエスという男」がどんな存在だったのかが浮かび上がる。浮かび上がってくると、信じる・信じない以前に、誰もが感染してしまわざるを得ない。もうダースさんに伝わっていると思うけれど、さっき僕が言ったコアって「感染の源泉」のことです。このように抽象化して初めて、倫理が継承される理由、なぜ倫理が時間的耐用性を持つのかも分かってきます。
■シナイ山で、モーセが神から授かった十戎にしても、ゴルゴダの丘で、人々がイエスから授かった山上の垂訓にしても、あくまで、その時代その場所のユダヤ的生活形式を、前提にした物言いに過ぎません。僕たちとはもう、生活形式が全然違います。その意味で、字義通りに受け取っちゃいけません。字義通りに受け取れば、それじゃ生活できませんとなって、終了しちゃう。むろん、それでも字義通り生活しようというのが、ユダヤ教の一派だったりもするんですけれど。いずれにせよ、倫理のコアが大切で、「感染の源泉」に実存的にシンクロするのが大切なんです
■すると、田川建三の発想って、立憲意思についてのレッシグの発想と、パラレルなことが分かります。「ファウンディング・ファーザーズが今生きていたら、憲法をどう書くかを想像せよ。それが立憲意思である」ってレッシグは言う。同じように「イエスという男が今生きていたら、何を言うかを想像せよ。それがイエスの意思である」って田川建三は言う。そういうふうに抽象化して考えることだけが、倫理のコアを掴むための道だということだね。ダースさんや僕が倫理的だとすると、百年後の子々孫々が「ダースさんや宮台が今生きていたら、何を言うか」を想像して、倫理のコアを受け取るわけです。
ダース: いまの話のちょっと伏線っていうか、題材になるかもしれないのが、Netflixで最近追加された『メシア』っていうドラマがあって、これはまさに、いまの社会にイエスがいたらどう振る舞うかってことを作ったドラマで。よく分かんないんだけど、あのドラマもモヤモヤを残したまま終わって「結局こいつなんなんだ」って終わり方を敢えてしているんだけれども、それこそ前段部で宮台さんが話していた、そういったハードルを乗り越えることこそが、理解に近づくっていう構造をちゃんと製作者が分かっていて作っているっていう意味も含めて、すごくよくできた作品だと思うんですけれど。
あともう1つが、使徒が語っていることが、「ヨハネがこう言いました」「パウロがこう言いました」っていう、使徒がいろんなことを言っているっていう断片で、それぞれはイエスより小さいに決まっているわけで、これが宮台さんがよく言っているベンヤミンの、バラバラに砕け散った世界全体ってことを分かることはできないけれど、砕け散った断片から、一瞬こういうものなんじゃないかって想像はできる。という意味では、いま残っている聖書だったり、「師はこう言った」とかそういうものを含めた全部の断片から立ち上がるなにかの全部っていうものを想像するっていうことが、宗教的な構えであるっていうのがつながるのかなと思ったんですけれど。
宮台:■そこは本当につながります。「砕け散った瓦礫の中に一瞬の星座を見る」というのが、ベンヤミンのアレゴリー(寓意)論です。アレゴリーとは「世界は確かにそうなっている」と感じた一瞬に浮かび上がっているものです。ここで世界とは、あらゆる全体です。何かが分かるとは、何かとその外側の間に線が引けること。でも、世界はあらゆる全体だから、世界とその外側の間に線は引けない。だから、世界はシンボル(指示対象を持つ記号)のようには分かりません。一瞬、世界が訪れたと感じるだけです。だから、言葉で指せない。全体である世界が、オーラとして、部分である事物の集合に一瞬まとわりつくだけ。
■だから、アレゴリー論は、アウラ(オーラ)論と一体です。アウラは、神性降臨において生じる体験です。イエスという人を通して神が現れたときに人々に生じている体験です。そして、アートとはアウラの体験だと言います。目の前にあるのは「〇〇を象った彫刻」という規定された事物つまり部分品ですが、それを通して名状しがたい何かが……「世界は確かにそうなっている」という一瞬の感覚が……生じた時、そこに芸術作品があることになります。ギリシャの発想では、我々は社会という規定されたものに閉じ込められていているので、世界という規定不能なものが現れた瞬間、大きく傷つけられます。だから、アートは人を傷つけることで解放するものです。
■そこで先ほどの話。ネット環境が当たり前になって、仮想現実・拡張現実を含めて、リアル空間よりもサイバー空間に滞在する時間のほうが長くなった時、いまダースさんと僕がここで話し合ったような、宗教や掟を含めた倫理のコアに当たる部分がどうなるか。倫理は、具体的な行為の外形じゃなく、もっと抽象度が高い何かです。イエスが言うように、律法を守って倫理を穢す、あるいは、律法を破って倫理を貫徹することがあり得る。
■その抽象度の高い何かが「イエスが今生きていたら何をするか」に関係します。パラメータが変化しているから、以前やっていたのと同じことはしないでしょうし、以前言っていたのと同じことは言わないでしょう。にもかかわらず一貫している何かがあって、そこに人々が感染するんです。そういう感染を、子々孫々のサイバー世代に受け渡せるかどうかだけが、問題になります。
■テックの発達でサイバー化が進むほど、世界はますます「いいとこ取り」ができるようになります。「なぜ私を痛みが襲うのですか」などと宗教にすがって解決しなくても、心身の苦痛から未規定な世界に向き合う苦痛まで含めて、ドラッグとゲーミフィケーションで忘却できるようになる。でも、その場合、全てが、いいとこ取りした断片の集積になるわけです。そこには、断片をトータルに串刺しするような力や、「串刺しにせよ」って促すような力は、働かない。まぁ今までのところは一切働かなかったと言っておきましょう。ほとんどの時間がサイバー空間で消費される社会になった時に、そうした全体性への力が働くようにできるのかが、ポイントかなと思っています。
ダース: 「串刺し」っていう言葉が、いまはエヴァが無料で見れているから分かりやすく言うと、ロンギヌスの槍っていうので刺すみたいなイメージっていうのがあるんですけれども。要は刺して貫いてっていう、実際的な行為っていうのがオンラインでいまできるのかっていう。みんなインターネットって勝手なことができるじゃないですか。世界中で60億の人が勝手なことをやっている状況っていうのを、ガッと、「っていうのはこうだよね!」っていうなにかがインターネット上でできるかどうかっていうのが、このオンライン上における、宗教的なものが生まれるかどうかの肝になるのかなと思うんですけれども。
同時に、なぜそれが必要かっていうと、いまこれがどれくらいの期間続くか分からないんですけれども。小さい話をすると日本で「緊急事態宣言1ヶ月伸びま~す」みたいなこと言ってるけどそんなレベルの話じゃなくて、何年単位で、「いままでハグしてました」とか「会ったらとりあえずほっぺにキスしてました」とか、そういうことにブレーキがかかっちゃったわけで。1回ここにブレーキかけた後に、気にせず戻るっていうことがあり得るのかっていうとそれもちょっと想像し難くて。だから集まれない、人と会えないってことが基本となったときに……僕はイメージがあって。手塚治虫が描いてたんですけど、「火の鳥」の未来編で、地上が全部、核戦争なんかでぶっ壊れちゃってみんな地下に住んでいて、それぞれの都市に住んでいるけど、お互いの都市がでっかい中央コンピュータみたいなので交流しているみたいな映像があるんだけど。それこそああいったイメージが立ち上がってくるときに、オンライン上にそういったものを保管するなにかが設計できないと、すごく人間の……いままで宗教だったり、近年でいったらコンテンツ享受に伴うSF研だったりが担っていたものっていうのが、失われてしまい、そして僕らよりも下の、10歳とかいま生まれたばっかりに子供は、そもそもそれを持たないで成長していった結果どうなっていくのか。っていうことの想像が、すごくいま大事なテーマになってくると思うんですけれど。
(以上中編、以下後編)
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