連載7回:「微熱の街」はなぜ終るかを戦間期に徹底考察した江戸川乱歩と川端康成
連載7回:「微熱の街」はなぜ終るかを戦間期に徹底考察した江戸川乱歩と川端康成
■前回はジェントリフィケーションで消えた沖縄の色街の話をしました。観光価値を上げる政策で観光価値が下がる逆説は、アジア各国の違法屋台撲滅で生じたのと同じ逆説です。他方、今も沖縄には、内地にありがちな「共同体空洞化による不安ゆえの同調圧力」ならぬ「共同体充溢による言外・法外シンクロゆえの同感」があり、人々を時に不自由にする、と言いました。
■「同調圧力に基づく行動」は損得勘定の自発性が動機で、「同感に基づく行動」は損得勘定を越えた内発性が動機だとも言いました。同調圧力への適応がもたらすのは相対的快楽に過ぎませんが、同感に基づく利他的・貢献的行動がもたらすのは絶対的享楽です。ジェントリフィケーション「を」もたらす共同体空洞化を、ジェントリフィケーション「が」加速するのでした。
■こうした悪循環を通じて、共同身体性が消滅し、共通感覚が消滅し、言葉を言外で支える共通前提が消える。こうして「微熱感のある街」が消えるのでした。論理的にはここに多少のジャンプがあります。一口で「微熱の街」の消滅とは何なのか。どうして「微熱の街」が消えるのか。因果や機能連関の記述に不充分な点があるので、今回はそれを補い、深めましょう。
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■歴史を遡ると「微熱の街」の消滅は実は幾度か反復され、その度に言語化されてきました。文献的には、最初の言語化を江戸川乱歩と川端康成に見出せます。共に1929年(昭和4年)のことです。それを理解するには戦間期のダイナミズムを知らねばなりません。戦間期は前期と後期に分けられます。一口で述べれば、前期は「渾沌の時代」で、後期は「統合の時代」です。
■戦間期とは第1次大戦終結から第2次大戦開始まで。欧米では1919年(大正8年)パリ講和会議から1939年(昭和14年)独軍ポーランド侵攻までです。前期と後期の境目が1933年(昭和8年)ナチス政権誕生です。日本の場合、1919年(大正8年)パリ講和会議から1941年(昭和16年)真珠湾攻撃までが戦間期で、前期後期の境目が1931年(昭和6年)盧溝橋事件(満州事変)だとされます。
■日本は複雑で、前期が更に1923年(大正12年)の大震災を境に前後分割されます。後藤新平肝入りの帝都復興計画で「銀座」が立ち上がり、浅草から銀座へという流れが始まったのです。でも、これは「江戸的な東京」を熟知した乱歩や川端の如き粋人の認識であり、大半にとっては1929年(昭和4年)まで浅草ブームが続く。だから通説通り1931年の境目だけで良いでしょう。
■つまり欧米日ともに、戦間期前期は大まかに1920年代で、後期が1930年代です。戦間期前期は「渾沌の時代」。日本ではエログロナンセンスの時代、米国では狂騒の20年代(禁酒法とギャングの時代)、フランスでは狂熱の時代(戦争後遺症の時代)と呼ばれます。第1次大戦は未曾有の最終戦争だったので、近代への疑念が蔓延し、近代的建前を置いて本音が噴出しました。
■そこでは近代的なものと非近代的なものが混淆して渾沌を呈します。日本のエログロナンセンスの象徴が浅草。浅草に限らず、都市建設の陰に妖怪が蠢き、国家建設に勤しむ帝大生・帝国官僚の故郷には因習に囚われた両親がいた時代。新旧に引き裂かれた時空がありました。薄れゆく闇(前近代)と徐々に強まる光(近代)。光と闇が織り成す綾が「大正ロマン=浅草」です。
■やがて光が満ちてフラット化。それが「昭和モダン=銀座」です。浅草の綾(ロマン)から銀座の光一辺倒(モダン)に向かう過程が「モダニズム(近代主義)」。光で時空がフラット化して闇が忘却された時にモダニズムが終ります。モダニズムをモダンと等置してはいけない。乱歩と川端は共に「浅草から銀座へ」というモダニズムに異を唱えた、というか馬鹿にしました。
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■乱歩も川端も平板なモダンを賞揚する啓蒙主義を嗤います。謂わば<教養主義を嗤う卓越主義>です。日本の啓蒙主義(近代主義)は単なる意匠で、上昇志向と結合した日本的エリート主義(教養主義)に過ぎない。劣等感や嫉妬を抱えた田舎者の作法。川端は真の粋人は目もくれぬとし、乱歩は真の都市民(探偵)は目もくれぬとします。粋人も探偵も光と闇の綾に眩暈します。
■そこでは、岩波書店的「教養主義者」と会員制変態雑誌的「卓越主義者」が対立します。帝大出身官僚や大学人ら「地位エリート」の田舎者ぶりと、芸能や風俗に馴染んだ(しかし帝大出身者を核とする)「感情エリート」の卓越ぶりとの対立です。東洋英和分校として芸能人子弟を集めた麻布中高で育った僕にとっては、中高生の時分から既にお馴染みのものです。
■丸山眞男ならぬ吉本隆明。クラシックならぬジャズ。ジャズならぬフリージャズ。ロックならぬプログレ。岩波ホールならぬアンダーグラウンド蠍座。アート批評ならぬB級裏目読み批評。プログレならぬ歌謡曲。旧左翼ならぬ新左翼。象徴的だったのは麻布のスクールカーストです。[勉強も遊びもできる卓越者⇒遊び人⇒勉強田吾作⇒両方ダメな奴]という序列でした。
■卓越者&遊び人の連合軍による、勉強田吾作に対する「ヤナ奴ごっこ」に於いては、ナンパ的な挑戦とオタク的な蘊蓄を股に掛けることが推奨されました。これが数年後、ナンパしか営めない田舎者とオタクしか営めない田舎者とに分化した、というのが連合軍の認識です。卓越化ゲームは激烈で、勉強と遊びが出来ても、ナンパonly系やオタクonly系は軽蔑されました。
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■1929年(昭和4年)。川端は『浅草紅團』を新聞連載、乱歩は短編『押繪と旅する男』を発表。共に浅草的なものを賞揚します。浅草は1923年(大正11年)の大震災から復興したものの、銀座はそれを凌ぐ勢いで発展していました。でも銀座の「光」のハレーションで「綾」が掻き消される前の最後の浅草がありました。1929年を浅草の最盛期だとする人も少なくありません。
■でも川端(30歳)は浅草の未来を予感していたので、まるで映画(無声の活動写真)や録音ラヂヲのように浅草を記録します。それが「新感覚派」と呼ばれます。《──花やしき 納涼 昼夜開演 芝居 ヤマガラ アヤツリレビユウとダンス。諸君、「電光ニュウス」なのだ。やはり電光で描いた象と猿とが、これらの文字をひつぱつて、[花やしきの]入口の上を歩いてゐるのだ。ネオン・サインで表を飾った小屋は殖えて行くが、花やしきの電光ニユウスは一九三〇年の夏の浅草の、「断然トツプを切った」のだ》。《交通巡査の笛、新聞売子の鈴、起重機の鎖の響き、川蒸気の発動機の音、アスフアルトを踏む下駄の音、自動車や電車の響き、この少女のハアモニカ、電車の鈴、エレヴエイタの扉の音、自動車のラツパ、遠くの雑音──それらを一つとしてその波にぼんやり耳を浮かべてゐると、これも子守歌でないことはない》云々。
■但し巷で言われるような先端かぶれの「映画(活動写真)や音楽(ジヤズ)の摸倣」(蓮實重彦で言えば「フィルム体験の摸倣」)ではありません。1929年から翌年にかけての世界大恐慌の煽りを受けた昭和恐慌で、人々の生活はどん底。舟から小学校に通う子。哀れっぽさを売りにするマッチ売りならぬマリ売り。映画館に入れずに看板だけ見つめる浮浪者。子守の少女。…。
■だからこそ浅草はエログロナンセンスの妖しさを醸し出します。《エロチズムと、ナンセンスと、スピイドと、時事漫画風なユウモアと、ジヤズ・ソングと、女の足と──》。そこには、門前町や色街やといったプレモダン(江戸情緒)の闇と、日本初のエレヴエイタが設置された十二階や電車や自動車や映画やジヤズやといったモダン(最先端)の光が、混融するのです。
■だから「規定不可能」でした。言語外の「規定不可能性」にシンクロするべく、言語表現の非言語表現(映写キャメラやラヂヲ録音機)へのミメーシス(感染的摸倣)が必然的に生じたのです。加えて川端はシニフィエが「規定不可能」な喩を用いることでも知られます。《不思議な「曲芸運動」をする少女の細い体は、不思議な虫のように美しかった。高貴で憂鬱な虫であった》。
■語り手の「私」が、不良集団「紅團」の首領である男装ヒロイン弓子に出会う場面も《[長屋横丁へと曲がって]奥に入って三軒目──私は真っ赤な花束を突きつけられたように立ち止まった》と、直喩にも拘わらず「規定不可能」な記述がなされます。読者は「言外のシンクロ」が要求されます。いわば「微熱の街」へのシンクロなくしては意味を持ちえない喩なのです。
■喩的な表現が、やや遅れて辛うじてシニフィエを充当された時、読者は既に「微熱」を帯びているのです。「微熱」を帯びていて初めて喩が分かるので、喩を分かろうとすると自動的に「微熱の街」に誘われるのです。かくて川端は「規定不可能性」を愛でます。浅草という舞台設定、然り。新感覚派的な映画や音楽の摸倣、然り。何よりも変幻自在に化けるヒロイン、然り。
■ある時は、楽器屋で大正琴をひく少女。ある時は、哀れっぽい少女らの中で只一人赤いリボンをつけてチャールストンを踊るマリ売り。ある時は、不良集団「紅團」の男装の首領。ある時は、花やしきや昆虫館の切符売り。ある時は伊豆大島の油売り。「私」は少女を、「規定不能性」ゆえに追いかけ、最後は少女の「規定不能性」によって振り切られる形で、話が終ります。
■連載は未完とされますが、「規定可能性」への回収を拒むには未完が必然だったと言えます。
光と闇が織り成す綾を背景に、変幻自在に姿を変えるヒロイン。そう、江戸川乱歩の「怪人二十面相」と同じです。川端は乱歩と同じく、浅草をモチーフにしながら、失われゆく「規定不可能性」を凍結保存した。微熱感を前提にした言外のシンクロ可能性を用いたのが川端流です。
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■僕は小学生の時に乱歩「少年探偵団シリーズ」を、中学生で乱歩の全作品を読破しました。その後も乱歩原作映画を観る度に読み返してきました。乱歩映画の最大傑作は川島透監督『押繪と旅する男』(1992年)。封切を観て原作を読み直しました。銀座を愛でる田舎者の上昇志向に過ぎぬ「教養主義」を、浅草を愛でる粋人の「卓越主義」の観点から軽蔑しているのです。
■原作はこんな話です。昭和4年=1929年、蜃気楼を観た帰路の汽車内で「私」は、押繪を窓に向けた40とも60ともつかぬ男を遠くの座席に見た。「私」は恐怖に吸い寄せられて男に近づく。押繪の中には男と瓜二つの老人と、振袖の少女が居る。男が語る。十二階が出来た少し後の35年程前(明治28年=1895年)、塞ぎ込みがちな25歳の兄が毎日双眼鏡を持って出かけるので、跡を追けると十二階展望台から双眼鏡を覗いていた。そこから双眼鏡で一瞬見かけた少女に片想いし、以降毎日探しているらしい。兄が少女を見つけたと言うので二人でそこに行くと、少女は覗きからくりの押繪の中に居た。兄は弟に後生だから双眼鏡を逆さに覗いて自分を見ろと言う。迫力に押されてそうすると兄は縮んで押繪の少女の横に鎮座した。以降「兄夫婦」が退屈せぬよう押繪を持って旅に連れている。ただ元々押繪に居た少女と違って兄だけが歳をとって老人になった。「私」は浅草には行っても十二階に昇った経験がない。銀座を好む今時の若者である「私」が、「なぜか」老人の話に引き込まれ、往時の浅草を幻視したのである──。
■映画には「私」はおらず、今(1990年代)を生きる80歳前後と思しき老人が主人公。老人は原作の男と同じ過去を持ちます。老人はジェントリフィケートされた浅草を彷徨いつつ、60余年前(1929年)の浅草を幻視します(「押繪夫婦」誕生が1895年から35年ほどズレる)。老人は「兄夫婦」を魚津に連れた後、押繪を神社に奉納。やがて兄を忘れて特高警察の役人になります。多くの罪なき者を拷問にかけた彼は、浅草寺の雷門前で野垂れ死ぬ直前、かつての拷問被害者に小便をかけられながら、兄を捨てた自分を悔います。兄を捨てた自分は浅草(光と闇の綾)を捨てた自分で、特高警察で拷問した自分は銀座(光)=システムを選んだ自分です。老人の最期のヴィジョンは「兄夫婦」と共に見た蜃気楼でした。──実によく練られた脚本です。
■老人が彷徨うジェントリフィケートされた浅草はスーパーフラットになった東京の謂いです。汎システム化された愚にもつかぬクソ社会の謂いです。原作の本質を的確に摘抉した上、それを今日的な含意へと敷衍した傑作です。そう、各所で書いた通り、1990年代半ばに日本の各所から「微熱の街」が消えたのです。「微熱の街の喪失」は「浅草の喪失」の反復なのです。
■原作には逸話があります。横溝正史第一随筆集『探偵小説五十年』(1972)収録「代作ざんげ」と、乱歩随筆集『探偵小説四十年』(1961)収録の同名「代作ざんげ」に共に記されています。自信喪失に襲われて休筆しがちな乱歩は、休筆中の1927年(昭和2年)に蜃気楼を観に魚津に出かけ、翌年「押繪と旅する男」の元となる作品を書きます。逸話はその時のものです。
■『新青年』の編集長だった横溝が、乱歩の旅行先である京都の宿にまで押しかけ、「探偵小説特集号」への執筆を約束させます。約束の日に名古屋で会うと、乱歩は書けなかったと言います。横溝は仕方なく、自分が書いた作品を乱歩名義で載せることを乱歩に承諾させます。その夜二人は名古屋で宿泊しました。すると夜中に乱歩が鞄から何か取り出して厠にたちます。
■厠から戻った乱歩が横溝に、本当は書いたのだが自信がないから汲取便所に捨てた所だと明かします。便壷に捨てられたのが「押繪〜」の元稿です。悲嘆に暮れる横溝のために翌1929年(昭和4年)に書き直したものが現行の「押繪〜」。乱歩35歳の作。後に乱歩が自分が一番好きな作品だと述懐します。「自信のなさ」と「一番好き」は密接に関連するだろうと思います。
■説明します。探偵小説から大衆小説への転機となる「押繪〜」ですが、浅草の終りが探偵小説の終りだったのです。戦間期前期を象徴する探偵は「未規定な存在」です。ブルジョアでもプロレタリアートでもない。モダン(光)でもプレモダン(闇)でもない。「光と闇が織りなす綾を生きる都市民」なのです。光と闇に引き裂かれた存在。浅草的な存在だということです。
■明敏に推理する理性を持ちつつ、犯罪者のエログロや法外ぶり(闇)に同感するのが、探偵という奇妙な存在です。同感がなければ理性は別のものに使われるはずなのです。だからこそ、浅草が終れば探偵小説も終るのです。それを象徴するのが『新青年』の方向転換です。エログロナンセクスから明るいナンセンスへ。モダニズムの綾からモダンの光へ。探偵小説の終り。
■「押繪〜」の元稿に契機を与えた1927年(昭和2年)の放浪は、探偵小説が書けない自信喪失のせいだとされます。これは才能の問題というより浅草の消滅を予感したからでしょう。浅草の消滅とシンクロする『新青年』の探偵小説離れへの違和感もあったはず。「一番好き」な探偵小説が書けなくなった「自信のなさ」が乱歩を放浪させ、傑作「押繪〜」を生んだのです。
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