アマゾン先住民を描く映画『彷徨える河』について2回に分けて論じました
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アマゾン先住民を描く映画『彷徨える河』は<世界>からの原的な贈与を描き出す
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【発情期の不在が要求する言語的制御装置】
■誰もがよく知るようにヒトは過剰な存在である。そのことは発情期の欠落によって表象されてきた。補食に抗う繁殖戦略を採る齧歯類を除けば、類人猿を含めて常時発情可能な哺乳類はヒトだけだ。そのためにヒトの社会は固有な言語的観念(法)を持たねばならなくなった。
■典型的には猥褻観念だ。猥褻観念は、所謂「法律」が存在しない部族段階の先住民社会にも例外なくある。猥褻観念の機能は、社会空間を性的空間と非性的空間に直和分割する。こうした空間分割をなし得なかった社会が例外なく淘汰されてきたということを、意味しよう。
■社会空間を性的/非性的空間に直和分割する作法のヴァリエーションがインセスト(近親姦)の観念である。猥褻観念にせよインセスト観念にせよ言語的なもの(法)だから、禁止は違背を地平に含意せざるを得ない。ゆえに分割のタブーを侵犯する営みが享楽を体験させてきた。
■抽象的にはこう概念化されてきた。動物には本能がある。本能はエネルギーとプロトコルの組合せだ。ヒトには本能がない。あるのはプロトコルを欠いたエネルギーだ。フロイトが「欲動」と呼んだ。プロトコルは習得的プログラムとして後天的にインストールされる他ない。
■習得的プログラムは言語的に構成される。社会に準拠する場合は「法」と呼ばれ、パーソンに準拠する場合は無意識と呼ばれる。猥褻やインセストを禁じるのは法だ。法は言語的だ。うたは悲しい歌を聴けば悲しくなるが、悲しいという言語が与えられても悲しくはならない。
■だから法は必ず社会的圧力を必ず伴う=人々は「誰もが法に従うことを前提に振舞っていること」「違背に対しては貫徹に向けた表出が行われること」を言語的に予期する。とすれば、法は裏の法を必ず伴う=禁止の命令は侵犯の享楽を伴う。この機制が「超自我」と呼ばれる。
【欲動の過剰さが要求する神話的な思考】
■欲動という過剰さは、法だけでなく、神話的思考をも社会に随伴させてきた。NHKスペシャル「ヤノマミのアマゾン生活」(2009年)か描き出す或る風習が典型的だ。そこでは赤子が生まれても直ちには人として認められない。生まれた段階では赤子は精霊だとされるのだ。
■赤子を産んだ母親は人々が見守る中で育てるか否かを決める。育てないと決めたら、葉に包んで白蟻に食べさせ、巣ごと焼き払って天(精霊たちからなるクラウド)に送る。精霊たちのクラウドから、精霊としての赤子がやって来て、人とならずに精霊のまま帰ってゆくのだ。
■現在の人類学は、「人は精霊として生まれ、母に抱かれることで人になる」に類する観念が古来普遍的だったと考えている。「母が抱かない限り、人とはならない」という観念が何万年もの間、普遍的だったということ。なぜか。性愛の過剰が全ての出発点だと考えられよう。
■高等猿類の中でも唯一発情期を欠いたヒトは、繁殖に必要であるよりも、何十倍も何百倍もの性交をし続けてきた。それゆえ1万年前から始まった定住に、遙かに先立つ遊動段階から、ヒトは絶えず間引きを行なってきた。その事実は、まったく疑いようもないことである。
■この定常的・日常的な間引きを、しかしパーソンの秩序(心)や社会の秩序(法)と両立可能な形で包摂しなければならない。そこに神話的思考が──中沢新一がいう「対称性の哲学」が──蝟集する。この機能的メカニズムが、ヒトの文明をここまで存続させてきたのだ。
■間引きは、明らかに快楽のための性愛の過剰さゆえに、定常的になされる必要があった。古くからヒトは、そのことをよく理解していた。猥褻やインセストの観念に見られるように、性愛の過剰なくしては、家族の社会関係も、法的タブーも、ひいては文明もあり得なかった。
【普遍的枠組と普遍的事態を両立させる装置】
■定住に先立つ遊動段階から間引きを続け、そのために精霊に関わる神話的思考が言語的に動員されてきたはずだから、歴史的順序から見て、精霊に関わる神話的思考は全ての法に先立つ元型的なものだと考えるしかない。法は、後からこれに整合するように構成されたのだ。
■「仲間を殺すな」「仲間のために殺せ」という枠組(呪力への服属)も、定住に先立つ遊動段階から、間違いなく普遍的だった。さもなければバンド(の集合体クラン)を形成して移動できない。だから、これらの枠組も全ての法に先立つ元型的なものだ。これも精霊に関わる神話的思考の一部だ。
■例えば、「仲間を殺すな」「仲間のために殺せ」が普遍的枠組だとすれば、この例外なき枠組を前提として、4万年前に始まった言語を過剰利用して、性愛過剰という普遍的事態と両立させる他ない。こうして「仲間」と「仲間でない存在」の中間領域に、精霊の観念が樹立された。
■精霊は、言語的な白と黒の二分法では片付けられない言語以前的なもの(呪われた部分)を収容する、全体性のバランスを志向する対称性の哲学(中沢新一)に必須の構成要素だ。かかる神話的要素をリアルに思念できる文脈を保持できるか否かも、社会の淘汰要因になったろう。
【共通の経験か、枠組と現実の両立可能性か】
■なぜ数多の神話には共通の神話素があり、それが我々の(集合的=社会的)無意識を形づくる元型となるのか。ユングは共通の経験という言い方をするが、ラカンを踏まえて精密に言えば、枠組と現実の両立可能性という現実界の条件が事態を方向づけるのだと考えられる。
■因みに中絶の問題は、こうした人類学的思考を遡ることなしには不毛さを脱せられない。性愛の過剰は何万年間も間引きを常態化してきた。それが「仲間殺し」に該当するのならば、法は法であり得ない。だから「精霊」という神話的思考がどこでも例外なく必要とされてきた。
■しかし、我々が大規模定住社会化によってこの種の精霊概念と両立できなくなって久しい。プロチョイス(中絶賛成)/プロライフ(中絶反対)の不毛な二項図式や、胎内のどの段階から人間なのかといった不毛な線引きは、精霊概念をキャンセルしたことに由来する必然である。
■社会の近代化に伴って女は「子育て機械」に貶められがちになったが、それ以前の長い歴史では、子育ても人生だったが、過剰な性愛も人生だった。なのに、家父長制(妻も娘も男の持ち物!)的な「見たくないものを見ない」作法により、(女の)過剰な性愛が抑圧されてきた。
■深い性愛は過剰なSEXと表裏一体である。確実な避妊法へのアクセスが妨げられている程度に応じて、家父長制的な近代社会では、当事者らが精霊概念をシェアできるか否かによって、深い性愛──過剰なSEX──の機会が多少なりとも左右されてきた。忘れてはならない。
【子供に見出される神話的思考の祖型】
■子供を観察すると、神話的思考と呼べるような祖型を見出せる。7月に誕生日を迎えた3歳男児は最近、妻の結婚写真を見て、「なんで僕に言わないで結婚してるの?」と怒り狂い、生まれる前の家族写真を見て、「なんで勝手にディズニーランド行ってるの?」と叫んだ。
■眺めていると、「精霊界(精霊達が集うクラウド)から僕が降りてくる前に、勝手に結婚するな、勝手に遊園地に行くな」と怒っているように見える。写真こそなけれ、遊動段階の人々も、子供を見て同様な体験をしていたに違いない。精霊を巡る神話的思考と両立する体験だ。
■ラカン的にはこれも現実界に属する符合だ。<世界>(現実界)は直接与えられず、<世界体験>(想像界)として与えられるが、<世界>を<世界体験>に変換する函数が言語(象徴界)に媒介されたパーソンと社会の作動だ。何と何が両立するかは象徴界ならぬ現実界の問題だ。
■ここに、前述したユングとラカンの思考図式の違いが現れる。ユングは、神話素や元型の由来を、過去の共通する集合的(社会的)経験に遡る。これに対してラカンは、常に現時点における現実界からの要求が、神話素や元型に相当する体験の形式を支えている筈だと考えた。
【フロイトとシュタイナーの共通性】
■一方、1860年前後に生まれ、19世紀後半から活躍する、完全な同時代人フロイトとシュタイナーには、重大な共通性がある。2人に共通するのは、言語の自動機械的な自己運動に、人間が駆動されがちな事態を、カントの自由意志論的な意味で、強く嫌悪していることだ。
■カントの自由意志論はアリストテレスのパトス論の伝統上にある。パトスpathosというと感情(ペーソス)が取り沙汰されるが、元来は「降り掛かるもの」というギリシア語。天災と同じく感情passionも降り掛かるので、感情の赴くままに振舞うことは受動的passiveなのだ。
■だからカントは禁欲を奨励する。欲望への抵抗が能動的activeだからだ。帝国主義的拡張競争に伴う人類学の時代である19世紀末から活動したフロイトもシュタイナーも、言語的自己運動に駆動される事態を自動機械automatonとして嫌悪し、そこからの自由を目差した。
■フロイトは、言語的自動運動に駆動される事態を無意識に見出す。シュタイナーは同じ事態を、臨界年齢前に高次感覚(感情的に深く世界を体験する能力)を習得せずに言語能力を身につけることに見出した。両者は共通して言語プログラムに駆動される自動機械を見たのだ。
■だからこそラカンもフロイトを評価している。カント⇒フロイト⇒ラカンという系譜上で、自由意志論のラディカル化としてラカンを評価するのがジュパンチッチだ。因みに、彼女はスロペニアのラカン派精神分析学者で、著作『リアルの倫理』で広く知られるようになった。
【フロイトとシュタイナーの差異とユング】
■他方、フロイトとシュタイナーの差異がユングを生み出した。シュタイナーの言う高次感覚とは<世界>の得体の知れなさに開かれることだ。<社会>の外側からの原的な贈与──<世界>からの訪れ──を触知する力。フィジオクラティック(重農主義的)な構えを意味する。
■それゆえにシュタイナーの神智学(人智学)は、<社会>の外側から訪れる者たちの棲まう場──精霊たちからなるクラウド──に開かれている。フロイトには高次感覚に相当する概念がなく、従って論理必然的に、フィジオクラティックな構えを推奨するような意趣に、極めて乏しい。
■このシュタイナーとフロイトの落差を埋めるものが、ユングの<世界体験>の共通形式を巡る、神話素や元型についての議論だと考えられる。ユングは、近代における言語的に自己運動して暴走する自動機械automatonからの自由を、<世界体験>の共通形式に求めたのだ。
(因みにラカンにとっては、<世界体験>の共通形式もまた言語的自動機械を支援するだろう)
■こうしたシュタイナー=ユング的な思考に沿った映画が、先住民の血を引くシーロ・ゲーラ監督『彷徨える河』(2016年)である。シュタイナー=ユング的な思考が、言語的自動機械との関わりで、どんな体験を推奨するのかを見積もるためにも、本作を凝視するべきだ。
【言語以前的な夢を見ることができるか? 】
■アマゾン流域のジャングル奥深くで、侵略者によって滅ぼされた先住民の村の唯一の生き残りカラマカテは、流浪者として他者と交わらずに孤独に生きてきた。ある日、呪術をあやつる彼を頼り、重い病に侵されたドイツ人民族学者がやってくる。
■白人嫌いのカラマカテは一度は治療を拒むが、病を治す唯一の手段、幻の植物ヤクルナを求め、カヌーで上流へと漕ぎ出す。数十年後、記憶や感情と失ったカラマカテは、ヤクルナを求める米国人植物学者との出会いによって再び旅に出るが、やかて記憶と感情を取り戻す。
■19世紀末から20世紀にかけ、二十年の時を挟んで流域を探査した2人の人類学者、テオドール・コッホ=グリュンベルク(劇中ではテオ)と、リチャード・エヴァンズ・シュルテス(劇中ではエヴァン)の、手記を元にした物語だが、本作のキーワードは「夢」である。
■自らが言語プログラムに駆動された自動機械に過ぎない事実に気付いた者は、何を手掛りに前に進めるか。言語プログラムに駆動されない感情の働きである。だが近代社会を生きる我々は、感情の大半が言語プログラムに規定されている。言語が感情を生み出しているのだ。
■本作では言語に駆動されない感情を夢と呼ぶ。2人目の人類学者エヴァンは夢を見なくなった男という設定だが、時代が下るにつれて人が夢を見なくなることの喩だ。但しここで言う夢は、我々が見るような「事柄についての夢」ではない。幾つかの元型に関する夢である。
■カラマカテは一貫して、言語に駆動されない夢を見ることを推奨する。そしてそれが不可能になったことを以て、全てを忘れたというふうに表現する。ただ、かつて見た夢に出てきたイメージの形だけは覚えており、それを崖面に描きつけるものの、何の感情も生じない。
■言葉を全て放棄したとき、<世界>からの原的な贈与を、精霊であれ何であれゴロッとした実体として感受し、運動し続けられるか。<世界>の得体の知れなさに開かれるとはそういうことだ、という論理形式だけが示される。現にそのように生きる者たちがいる以上…と。
■分かりやすい逸話がある。エヴァンが最後まで拘った所持品が蓄音機だった。彼が交響曲のレコードを聴かせるとき、我々はカラマカテと共に事態を洞察しよう。<世界>「自体が」音楽として体験されているカラマカテには、<世界>「の中で」音楽を聴く営みは不毛なのだ。
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アマゾン先住民を描く映画『彷徨える河』は文明以前への回帰をまったく主張していない
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【グノーシズムという回帰の思想】
■前回『彷徨える河』の批評をお送りした後、映画が公開となったが、見過ごせない誤解が蔓延している。そこで当初の予定を急遽変更して、『彷徨える河』の批評第二弾をお送りすることにした。今回の問いは、この映画が文明以前への回帰を唱えているのかということだ。
■巷ではこの作品を文明以前への回帰を志向したものだと捉える向きが大半だ。文明人が喪失したものを先住民が持っているのは当たり前。だが先住民が持たないものを文明人は獲得している。とすれば、文明人が先住民の在り方や世界観に回帰するべき理由はどこにあるか?
■答えは簡単だ。文明人は・近代人は・資本主義社会の市民は、疎外されている。具体的には、互いの在り方が分断されている。そして、他者の悲しみを自らの悲しみとし、他者の喜びを自らの喜びとするような、〈世界〉を共同的に体験するような在り方を、失っている。
■それに対して、先住民は、互いの在り方が分断されておらず、〈世界〉を共同的に生きている。共同体全体が、世界全体が、自らの身体であるような生き方をしている。「我々」は疎外されているが、疎外を克服して全体と合一した在り方が、先住民には見られる……云々。
■この全体性への合一という図式は、アーサー・C・クラーク『地球幼年期の終わり』(1952)を出発点として、SFで繰り返し描かれてきたものだ。最近では庵野秀明監督の『新世紀エヴァンゲリオン』のテレビシリーズや映画が、そうしたビジョンを描いてきている。
■宗教学では「一なる全体性から分岐して神や天使や悪魔や人間や動物に分化した」「一なる全体性が本来的で分化した在り方は非本来的だ」「だから一なる全体性へ回帰せねばならぬ」といった発想を、グノーシズムと呼ぶ。全体性への合一という図式は、グノーシズムである。
■マルクスは、世界精神の運動を説くヘーゲルに見出される[分断された非本来的在り方=疎外]対[一なる全体性への合一=疎外克服]というグノーシズム的図式を批判し、そこで想像された全体性を、分断された存在様式につきもののイデオロギーに過ぎないと一蹴した。
■この批判はマルクスお得意の図式だが、平たく言い直そう。マルクスに言わせればヘーゲルが説く絶対精神のごとき全体性は、宗教同様、週末の風呂みたいなものに過ぎない。社会の荒波に疲れた者が、週末の風呂(絶対精神の妄想)で一服して、再び荒波に乗り出すだけだ。
■見田宗介は『現代社会の存立構造』(1977)で、ヘーゲルの[疎外/疎外克服]の二項図式を[集列性/共同性]と名付けたが、そうした共同性が過去に存在したか否かに拘わらず、この図式自体が近代市民社会の自意識に過ぎないというのが、マルクスの見立てである。
■市民社会の自意識に過ぎない二項図式の中で、人は、集列的(個別分断的)な在り方をしているがゆえに共同的(全体合一的)な在り方「へと」疎外され、それゆえ共同的な在り方「から」疎外されていると感じる。これが[~への疎外/~からの疎外]という見田図式だ。
【第三項論という陳腐すぎる図式】
■見田は五年以上先立つ『人間解放の理論のために』(1971)で、M・ウェーバーの目的合理に対する価値合理、或いはA・バーリンの消極的自由(~からの自由)に対する積極的自由(~への自由)を恐らくは念頭に置き、部分ならぬ全体のオルタナティブ構想を擁護した。
■とすると、1977年の著作で批判したシステム補完物に過ぎない「~への疎外」と、1971年の著作で力強く擁護した「~への自由」とが、どう異なるのかが問題になる。それゆえに、1977年の著作で見田は、[集列性/共同性]を止揚する第三項として「相乗性」を立てた。
■このアイディアもマルクスに由来する。マルクスも、ヘーゲル図式に留まる[私的所有/共同所有]に対する第三項として、「個体的所有」を立てた。正・反・合の弁証法図式において、合である第三項は、正の要素も反の要素も失わない異次元の在り方として構想される。
■ヘーゲルの絶対精神は、個体性の放棄を意味するが、同じく、私的所有に対する共同所有も、個体性の放棄を意味する。だが、第三項であるマルクスの個体的所有も見田の相乗性も、個体性放棄を意味しない。そうでなく、個体の在り方が、個体でありつつ上昇するのである。
■だが第三項論は、J・デリダも構築・破壊・脱構築という形で反復した程で、ヘーゲルの弁証法に由来する反復され尽くした陳腐な図式だ。だが図式としては陳腐でも、第三項は「~ではなく、~でもない」と否定神学的に指し示される他なく、シニフィエは未規定なままだ。
■恐らくそれが理由で、見田は、正・反・合図式=第三項論を反復する『人間解放の理論のために』と『現代社会の存立構造』を、全集に収録するのを拒絶したのだろう。陳腐だが未規定な図式。この第三項の未規定性を埋め合わせる営みが『気流の鳴る音』(1977)である。
■思えば、柄谷行人がA・ワイルデンを下敷きにして好んだ、[意味/無意味]の二項図式に「非意味」という第三項を付け加える営みも、正・反・合図式=第三項論のバリエーションだと言えよう。その意味では、ルネ・ジラールらの「第三項排除論」も同じ系列に属する。
■規定可能な[正/反]の二項図式に規定不可能な第三項を「合」としてぶつける議論のパターンは、80年代前半の日本で「ニューアカ」と呼ばれたポストモダン思想に共通しよう。だから浅田彰『構造と力』(1983)はポストモダン思想をチャート化できると述べたのだ。
■結論。第三項論は図式としては陳腐すぎる。意匠を凝らしたところで新しさはない。にも拘わらず、第三項自体は得体の知れない未規定を帯びたままなのだ。その事実に早くから気付いていたのが見田だ。だから第三項(相乗性)にシニフィエを供給する営みに注力したのだ。
【カラマカテを巡る5つの謎】
■見田宗介は『人間解放の理論のために』(1971)を上梓した後メキシコに渡り、数年後に帰国して『気流の鳴る音』(1977)を書いた。双方とも真木悠介名義だが、人間解放についてのアイディアを、狭い意味での学術を離れて書き記す場合に用いられる名義だとされる。
■メキシコのインディオであるヤキ族の呪術者ドン・ファンに弟子入りして修行生活を記録したとされるカルロス・カスタネダの著作への注釈書という形を採るのが『気流の鳴る音』。そのキーワードは[トナール(言語的明晰)/ナワール(言語以前的明晰)]の二項図式である。
■素朴に読むと──実際巷にはそうした読み方が普通だが──、トナール(言語的明晰)を疎外として退け、疎外克服としてナワール(言語以前的明晰)への回帰を推奨するものと読める。だがよく読めば、そうしたナワールへの耽りも、トナールのなせる業として退けられている。
■カスタネダが──見田宗介が──推奨するのは第三項である。仏教の往相還相の教えに酷似して、トナールとナワールと往還する在り方が勧められている。マルクスが個体的所有の概念を通じて、個体性の喪失を退け、個体でありつつ上昇する在り方を勧めたのに似ている。
■映画『彷徨える河』には、カスタネダの著作(『呪術師と私』以下4冊)にある言葉と同じ台詞が幾つかある。カスタネダの第三項論を踏まえるのは確かだ。プロモーションの口上にもある「失われゆくものの物語」といったミスリードを解除するためにも確認しておきたい。
■『彷徨える河』には幾つか謎がある。①先住民カラマカテはなぜ他の先住民らと交わらず天涯孤独なのか? ②先住民の掟を守るカラマカテがなぜ「コンパス(方位磁石)を渡せば星を読む力を失う」と言う人類学者テオに、「知的探求心を否定するのか?」と反駁するのか?
■③カラマカテはなぜ記憶を失ったのか? ④カラマカテは20年後の人類学者エヴァンとの交流を通じて記憶を取り戻したのか? ⑤カラマカテはなぜ先住民への関心を偽ってゴム搾取の片棒を担ごうとしたエヴァンを赦してヤクルナ(酩酊植物)の奥義を授けたのか? などなど。
■映画内のヒントはただ一つ。白人らのゴム搾取の犠牲となって次々と殺され滅ぼされた先住民やその部族の僅かな生き残りは、心ならずも、停滞し、堕落し、風前の灯火というべき有り様だ。こうした在り方をカラマカテはチュジャチャキ(外見の変わらない抜け殻)と呼ぶ。
■テオとの逸話とエヴァンとの逸話の間に二十数年の時が経ち、その間カラマカテ自身がチュジャチャキとなって「原型」の記憶(後述)を失った。これは文明以前の人々が文明(文字を用いた大規模定住社会)と出会った際に辿る定番の道で、ゲヴァルトの問題に還元できない。
■文明と出会った瞬間、先住民は[文明/文明以前]という二項図式に填まり、以降物好きな人類学者による[疎外(トナール)/疎外克服(ナワール)]という二項図式の重ね焼きを知り乍らも、結局は魂を文明に吸い取られ衰弱する。だからこそカラマカテが造形された。
【原型の夢と週末の風呂の差異】
■先ほど紹介した疑問の全ては、カスタネダ(を踏まえた見田宗介)が否定神学的な指し示しを超えて具体的なシニフィエとして指し示そうとした第三項を抜きにしては、答えられない。文明を放棄することでもなく、文明に居直ることでもない、第三の道の具体とは何か?
■見田は『現代社会の理論』(1996)などの後続著作を通じて、文明を生きる人々の心が変わることで人々の関係性が変わるとし、テクノロジー(情報化消費化社会)が人々の心を変える可能性を思いを託した。だが20年後の現実は「宗教ならぬテクノロジーは阿片」の域を出ない。
■ユングは「神秘体験の存在は神秘現象の存在を意味しない」と述べた。これは神秘体験の問題よりも、我々には〈世界〉(現実界)ならぬ〈世界体験〉(想像界)しか与えられないという真実を指摘している。〈世界〉を〈世界体験〉への媒介する函数が言語プログラムである。
■今日はそこにテクノロジーが加わった。正確にはテクノロジーを抜きに言語プログラムの効果を考えられなくなった。「ポケモンGO!」の如き拡張現実があれば、格差と孤独に苦しむ人も、再配分や共同体復興を抜きにして幸せになれる。制度ならぬ技術による社会変革!
■文明を放棄することでもなく、文明に居直ることでもない、第三項。それは「ポケモンGO!」の道か、「カラマカテ」の道か。前者は人の心を変えず、後者だけが人の心を変える、と早とちりしてはいけない。拡張現実だけが「カラマカテ」の道を指し示すことがあり得る。
■ユングは人の夢を二つに分けた。一つは普通の夢。つまり出来事からなる夢。突拍子がなくても、SF的でも、それは言語的だ。もう一つは原型(アーキタイプ)の夢。出来事ならぬ言語以前的表象からなる夢だ。『彷徨える河』は、このユングの二分法を下敷きにしている。
■前回述べた「夢を見ない男エヴァン」という設定における夢とは、原型の夢を意味しよう。夢を巡るカラマカテとの会話からそれが分かる。カラマカテも夢を見なくなったと語る。さて、原型の夢を見る──言語以前的感情を想起する──ことで、何が可能になるのだろうか。
■マルクスがヘーゲルを典型例として批判する「文明の荒波に疲れた者が、週末の風呂で一服し、再び文明の荒波に乗り出すが如き営み」と、シーロ・ゲーラ監督がカラマカテを通じて推奨する「原型の夢を見ながら文明を生きる営み」の間に、どんな区別の線を引けるのか。
■この映画を文明以前への回帰を唱えるものだと理解すれば、我々は前者に与したことになる。そうなればお手軽なテクノロジー礼賛主義にも道が通じる。だが、そうした理解を、この映画自体が「カスタネダ以来の伝統に則って」否定する。理由を考えるのが我々の務めだ。
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