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越川道夫監督『アレノ』とミケランジェロ・アントニオーニ監督『情事』を比べました

投稿者:miyadai
投稿日時:2015-12-24 - 08:13:32
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(0)


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越川道夫監督の映画『アレノ』は、全ての2者関係が潜在的3者関係である事実を逸した
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全ての2者関係は潜在的3者関係
 結論から述べる。全ての2者関係は潜在的3者関係としてある。最初にその事実を見通したのは、戦間期に活動した社会学者G・H・ミード(1863〜1931)だった。彼に従えば、それは、主我・客我・他我の関係だ。但し、他我は「そこにいる他者」であり、客我は「そこにいない他者(たち)の反応の中に結ぶ像」であり、主我は「私としての私の反応」である。
 詳しく見る。私が、他我alter ego=「そこにいる他者」に向けて、何か行動したとする。その行動が何を意味するのかは、客我Me=そこにいない他者(たち)の反応の中に結ぶ像として与えられる。その像を前提として、主我I=「私としての私」の反応と、それに基づく行動が後続する。この段落の冒頭に言う「私」とは、この場合の主我Iに相当している。
 ミードの図式に於いては、私の行動が何を意味するかという理解は、「私としての私」ではない「不在の他者の視座」からなされる他ない。こうした、「不在の他者の視座」=「そこにいない他者の反応」を取得する営みを、ミードは役割取得role takingと呼ぶ。彼に従えば、役割取得は、生得のものではなく、幼児期からのゴッコ遊びを通して習得されていく。
 幼児はママゴトで母親から見える世界を、泥棒ゴッコで泥棒から見える世界を、取得する。当初はこうして個別役割を一つずつ取得する。やがて他者一般 generalized others の役割取得──ヒトには一般に世界がこう見える──に到り、自分の行動が他者一般の視座から見て何を意味するかを理解するようになる。ミードによると、それが大人になることだ。
 ミードの『精神・自我・社会』(1934年)に従えば、客我Meの概念は、こうした他者一般の反応の取得によって与えられる像を普通は意味する。だが、他者一般の反応を取得できるようになる過程でのゴッコ遊びの段階においては、客我Meは、想像された不在の父や母の反応における像であり、想像された不在の警察官や泥棒の反応における像である他ない。
 そのことを踏まえて改めて確認すると、主我Iは「私としての私」の反応に関わり、客我Meは「そこにいない他者」の反応に関わり、他我alter egoは「そこにいる他者」の反応に関わる。ティーポットが二脚でなく三脚あって安定して立つように、凡そ人間関係は純然たる2者関係でなく、「潜在的他者」を想像した「潜在的3者関係」として初めて成り立つのだ。

原作が否定する物語を復活させた
 越川道夫監督『アレノ』(2015年)は、社会学者E・デュルケムなどと共にドレフュス事件に関わったエミール・ゾラの『テレーズ・ラカン』(1867年)を原作に据えている。越川監督は私とは旧知の間柄であるが、あえて遠慮なく言えば、「全ての2者関係は潜在的3者関係としてある」という事実を見逃すがゆえの、ありがちな誤読による演出が施されている。
 病弱な夫を持つ妻が、二人の幼なじみでもある男と愛人関係に陥って、情欲の虜となる。妻と愛人は、船遊び中の転覆を装って夫の殺害を企てた。だが死体が上がらない。夫が生きているのではないかという不安ゆえに、夫の幻影に脅かされ、愛人の男も勃たなくなる──。だがここに原作との違いがある。「何に脅かされているのか」が決定的に違うのだ。
 原作では、死体が見付かって事件が一件落着した後、晴れて妻と愛人が結婚したところが、なぜか熱情が覚めていて、絶えず何かに脅かされるようになる。ところが映画では、犯罪が露呈することへの恐れと、それに伴う罪意識が、妻と愛人を脅かす。夫の亡霊が、罪意識を象徴している。だが、こうした設定は、原作の世界観を大幅に毀損していると思われる。
 原作では、「生きている夫を潜在的他者とする秘密の2者関係」という潜在的3者関係が、夫の殺害によって純然たる2者関係にシフトしたことそれ自体が、不安や不安定性の源泉になっている。だからこそ、不在の表象として、夫の幻影が出現する。現に妻テレーズは、この不安と不安定性ゆえにこそ、むしろ敢えて罪意識へと逃れ込もうとさえするのである。
 映画と原作は別物だという通常の物言いは通用しないだろう。なぜなら原作は、映画に見るような「改釈」を予め想定した上、それをデタラメとして退けているからだ。規範的な罪意識(の如き概念言語の営み)よりも、感情(生理的に襲うもの)こそが本質だとする世界観こそ、自然主義者を自称してそうした世界観を国境を越えて拡げたゾラの真骨頂である。
 再確認する。(1)夫の視座の取得を前提とした妻と愛人の盛り上がりが、(2)夫の消滅ゆえに空洞化してしまい、(3)突然の空洞化という不条理が罪意識や夫の幻影を事後的に引き寄せるが、(4)そこでは本来2者関係は潜在的3者関係だという「意味を超えた摂理」──ゾラは「生理」と呼ぶ──に全てが支配されている。(5)つまり夫殺しは無知ゆえになされた。
 規範的な罪意識という「物語=意味」の否定こそが原作の狙いだというのに、映画『アレノ』は、原作が意識的に否定した「物語=意味」を復活させてしまった。恐らくは、原作を精読するよりも、三つある映画化作品を頼ったがゆえの、思い違いではないか。だが、他の映画を参照するのなら、ミケランジェロ・アントニオーニのそれでなければならない筈だ。
 
アントニオーニの「気配の映画」
 アントニオーニ監督は、「2者関係が潜在的3者関係であること」をモチーフとする「気配の映画」を撮り続けて来た。『情事』然り。『夜』然り。『欲望』然り。謂わば「何ものかに見られている映画」だと言える。ただし「何ものか」はヒトであるとは限らない。「不在の他者」であったり、「風にざわめく木々」だったり、「雲が激しく流れる荒天」だったりする。
 ここでは、1960年のカンヌ映画祭でスキャンダルを巻き起こした『情事』を取り上げる。潜在的3者関係を主題化した最初の作品だからだ。夫婦同然の弛緩した一組のカップルがある。男はサンドロ、女はアンナ。そして女の親友がクラウディア。3人は、他の旅行者を含めた一行でシチリア島周辺の島めぐりをしているが、荒天の中、突如アンナが失踪した。
 アンナを探す恋人サンドロと親友クラウディアだが、絶えずアンナの気配を感じるがゆえの情欲のせいで2人は性的関係に陥る。やがて旅行者一行はアンナを忘却、アンナ探しがどうでもよくなる。サンドロもクラウディアも、アンナの生死にかかわらずもう会うことはないだろうと思い始める。アンナの気配が薄れるにつれて2人の情欲も弛緩していく
 それゆえにサンドロは、クラウディアと同宿する高級ホテルの、人気(ひとけ)ない広間で第三の女グロリアと性交に及ぶが、それをクラウディアに目撃される。ホテルを飛び出すクラウディアにサンドロが追いつくと、打ちひしがれて涙を流すサンドロにクラウディアがそっと手を差し伸べる──この「憫れみと赦しのラストシーン」は夙に有名である筈だ。
 巷ではこのラストが、誰もが本当は弱いがゆえに不道徳な存在である事実を自覚した者たちによる、相互承認の身振りだと解釈される。監督自身インタビューでそう述べている。だがそれであれば、「罪なき者のみ石を投げよ」というヨハネ福音書第8章3節-11節の挿話に象徴される道徳(メタ道徳)に変じる。この解釈は、道徳を否定する「気配の映画」を裏切る。
 メタ道徳は、誰もが「目で姦淫する」不道徳ぶりを逃れられないのに、その事実を忘れて道徳を持ち出す輩の似非道徳者ぶりを非難するイエスの言説に、見られる。所詮は猥褻な妄想を抱くクセに、救われたい一心で行動に移さず律法を守る。そんな利己的な律法遵守にどんな道徳的意味があるのか、と。だが⋯映画に充ちた「気配」はそうした解釈を裏切る。

自分を振った女の「気配」を感じた
 そうではなく『情事』のラストは、「誰もが2者関係を、大なり小なり潜在的3者関係として生きている」という厳然たる事実を、互いが共有することが相互承認への道だろうとする予測を表明している。「気配」が突き付けるその事実は難解だろうか。私は20歳代半ばから十年余りの間の経験を思い出す。幾つかの場所に書いたことだが、ここでも紹介したい。
 私は22歳のとき初恋に激しく破れて、埋め合せに「もっといい女」を求める営みに淫した。1990年代前半に数多くのナンパ師たちを取材したが、彼らの出発点として当時はよくある話だった。私はどんな女とつきあっても絶えず「自分を振った女の気配」を感じていた。そんな女で手を打っちゃうの? ──脳裏に聞こえるそうした囁きが私を次の女に駆り立てた。
 だが、自分を振った女の記憶が薄れるにつれて、いい女探しは単なるオートメーション(自動的行動)へと頽落して、私は感情が動かないナンパマシーンになり下がった。そして十年以上の時を経て、私は偶然──いや「その女」の計画だったかもしれないが──感情不全の苦境を克服するに到った。その克服がなければ、こうした文章を書くこともなかったろう。
 私は、「その女」に恋心を抱いたり欲情したりする男の視座(反応)を、自分の内で再現することで、「その女」への感情を高いテンションで維持できることを、知った。一人の「その女」に対する、あの男、この男、その男の欲情を、自分の内で再現して欲情する。こうして私は、自分自身が、複数の視座が錯綜する「場」の如きものへと展開していくのを、感じた。
 私はやがて次の段階に進化して今に到る──詳細は機会を改める──が、そのためにも必要なステップだった。即ち、「全ての2者関係は潜在的3者関係としてある」という事実を弁えること。『情事』が描き出した、寛容さへのステップ。『アレノ』の主人公たちも、その摂理──ゾラのいう「生理」──を知っていたら、夫を亡き者にする選択はしなかった。