■連載の第二一回です。前回は「法システムとは何か」の前編でした。法とは、紛争処理の機能を果たす装置でした。紛争処理とは紛争の根絶ではなく、公的に承認可能な仕方で──社会成員一般が受容すると期待(認知的に予期)できる仕方で──収めることでした。
■公的に承認可能な仕方で「手打ち」をする。それが法の機能です。どちらかが死滅するまで戦う代わりに「手打ち」をするのは、生命や財産などの社会的損失を抑える意味があります。でも、それだけが重要なら、初めから戦わないという選択もありそうに見えます。
■しかしそれだと強い者のやりたい放題になってしまう。今日まで続いた社会はどこでも、「やりたい放題は許さない」という意思(規範的予期)を社会成員一般が持つことを前提にしています。だから、やりたい放題に対して断固戦い、その上で「手打ち」するのです。
■公的に承認可能な「手打ち」を実現する方法を巡り、法定義が分岐します。伝統的には、法実証主義的な「法=主権者命令説」と、自然法思想的な「法=慣習説」が、対立します。でも前者は、法内容の恣意性を克服できず、後者は、法変更可能性を基礎づけられません。
■双方の難点を克服するべくH・L・A・ハートの言語ゲーム論的な法定義が登場します。それによると法現象は、社会成員が互いに責務を課し合うというゲームを支配する一次ルールと、一次ルールの孕む問題に対処するというゲームを支配する二次ルールの、結合です。
■一次ルールの孕む問題は複雑な社会で顕在化します。即ち不確定性(何がルールかを巡り争いがち)や静的性質(変化しにくさ)や非効率性(自力救済のコスト)が問題になります。これらに対処するのが、承認・変更・裁定の二次ルールに基づく二次的ゲームです。
■むろん承認や変更や裁定の二次ルールを巡る疑義が生じる場合もあります。そこで立法や裁判を支配するこれら二次ルールの妥当性を、改変不能な最高基準(憲法)を参照して確認する「最後のゲーム」が要請される。これを支配するのが「究極の承認のルール」です。
■ハートの議論は、単純な社会の法現象と複雑な社会のそれとを関係づける卓抜なものですが、難点がありました。憲法(最高基準)を参照しながら行われる変更のゲーム(立法)が憲法を如何ようにも変え得るという近代実定法的な事態を、うまく記述できないのです。
■そこでは究極の承認のルールと変更のルールが円環します。かかる円環がある場合、言語ゲーム論的には単一のゲームと見做されます。ハートはこの円環を線形に引き延ばすので、変更不能な最高基準を持つ高文化の法と、そうではない実定法を区別できないのです。
【法定義の基礎は原初的社会にある】
■さて話を社会学に引き戻し、立ち位置を確認します。法実証主義に見られるように法学では司法権力の存在で法を定義する仕方が一般的ですが、間違いです。司法権力の存在しない社会には法がないことになるからです。こうした批判の嚆矢が、マリノフスキーです。
■彼によれば未開社会には司法権力と等価な社会現象が見出されます。トロブリアントに特徴的な、紛争の際の自殺。中国で伝統的な、公衆の面前での口論。多くの社会における、嫌疑が濃厚でない場合の呪術の遂行。これらは公的に承認可能な「手打ち」だと言います。
■これとは別に、威嚇による紛争回避が法の機能だと見る通念もありますが、間違いです。なぜなら「人を殺してはいけない」というルールを確立した社会を我々は知らないからです。代わりにあるのは、「仲間を殺すな」と「仲間のために人を殺せ」というルールです。
■後述する通り、原初的社会では血讐(同害報復)が権利でなく義務です。「殺してはいけない」がルールであるためには「やりたい放題は許さない」との意思が表明される必要があります。原初的社会では、侵害を受けた当事者が意思を表明することが期待されます。
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