■連載の第二〇回です。前回は「宗教システムとは何か」の後編でした。前編では、宗教定義史を振り返った上で社会システム理論的な宗教定義を示し、後編では、宗教進化論を紹介した上で、内在/超越の二項図式に基づく宗教的コミュニケーションを説明しました。
■今回は法システムについてお話しますが、前回扱った宗教進化論の知識が直接役立ちます。そこで若干の復習をしましょう。宗教とは、前提を欠いた偶発性を無害なものとして馴致する装置の総体です。偶発性の現れ方と馴致主体との組合わせが宗教類型を与えます。
■まず、偶発性が個別の「出来事」として現れるか、一般的な「処理枠組」として現れるかで、分岐します。次に、偶発性が「共同体」にとって問題になるが故に「共同体」が処理するのか、「個人」にとって問題になるが故に「個人」が処理するのかで、分岐します。
■原初的宗教では、前提を欠いた偶発性が「出来事」の形をとって「共同体」に対して現れ、「共同体」が儀式によって馴致します。例えば天災・飢饉などの期待外れでパニック状態となった共同体が、聖俗二元図式を用いた共同行為=儀式により、問題を聖化します。
■古代的宗教では、前提を欠いた偶発性が「処理枠組」の形をとって「共同体」に対して現れ、「共同体」がこれを戒律として秘蹟化します。複雑になった社会は、期待外れに事前に処理枠組を準備して対処法を先決し、この処理枠組を神が与えた戒律だと理解します。
■中世的宗教では、前提を欠いた偶発性が「処理枠組」の形をとって「個人」に対して現れ、「個人」がこれを信仰において秘蹟化します。階層化や征服被征服によって複雑になった社会では、処理枠組も、それを秘蹟化する神も、共同体でなく、個人のものになります。
■近代的宗教では、前提を欠いた偶発性が「出来事」の形をとって「個人」に対して現れ、「個人」がこれを馴致します。馴致には、幸せになるために呪術を行う浮遊系、ソレを不幸と感じる境地があるのみとする修養系、万事定められているとする覚悟系が、あります。
■宗教学では「内在/超越」という二項図式が登場する以前(原初的宗教)と以降(古代的宗教以降)を区別し、前者を「呪術」、後者を「(狭義の)宗教」と、しばしば呼び分けます。超越とは〈世界〉の外。内在とは〈世界〉の内。〈世界〉とはあらゆる全体です。
■一部の古代的宗教は、コミュニケーション可能なものの全体である〈社会〉でなく、ありとあらゆる全体である〈世界〉を唯一絶対神が作ったという観念を伴います。その結果、論理必然的に、「唯一絶対神は、内在なのか超越なのか」という二項図式が刻印されます。
■「所有/非所有」という二項図式を前提にして、所有に向けた動機形成と期待形成を触媒するメディアが「貨幣」であるのと同様、「超越/内在」という二項図式を前提にして、超越に向けた動機形成と期待形成を触媒するメディアが「信仰」であると見做せましょう。
【法とは紛争処理機能を果たす装置】
■実は今復習した宗教進化図式の中で、既に宗教から分化した法形成が言及されています。即ち、原初的宗教から古代的宗教への進化において、複雑になった社会は、期待外れに事前に処理枠組を準備して対処法を先決するのだと言いました。分化した法形成の萌芽です。
■連載でも述べましたが、法とは紛争処理の機能を果たす装置の総体です。紛争処理とは何か。紛争の抑止ではありません。紛争を公的に承認可能な仕方で収めることです。公的に承認可能な仕方とは、「社会成員一般が受容するだろう」と期待できるような仕方です。
■「収める」とは何か。紛争当事者のどちらかが死滅するまで戦うことを以て「収める」こととし、その結果を「公的に承認」することもあり得ます。ただ、今日まで生き延びた社会はどこも、そこまでせずに、「手打ち」することを以て「収める」こととしています。
■従って、先の「公的に承認可能な仕方」は「手打ちの仕方」に結合しています。当事者が死滅するまで戦うのでなく「公的に承認可能な仕方」で「手打ち」するのは、単に人命や財産の損失の如き社会的損失を低く押さえるためでしょうか。無論それもあるでしょう。
■ですが、もしそれだけが重要なら「始めから戦わない」選択こそが賢明です。当然「それだと強い者のやりたい放題になるだろう」との反問が予想されます。そう。「やりたい放題は許さない」との意思を社会成員一般が持つことを、我々は常に当てにしています。
■「やりたい放題は許さない」という意思を社会成員一般が抱くと期待されている中で、紛争に際して「成員一般が受容するだろう」と期待できるような仕方で「手打ち」をし、それによって、紛争蔓延や復讐連鎖や相互殲滅を回避すること。これぞ、法の機能です。
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