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3月6日(月)のTBS『筑紫哲也のニュース23』冒頭で、本日午前十時から公判廷が開かれた文京区幼女殺害事件の特集パートがオンエアされ、そこに私のコメントが3分ほど使われました。(私以外に山崎哲と信田さよこのコメントが使われていました) とりわけ重要なのは、以下のことです。
◆詳しくは、以下の掲載した原稿をご覽下さい。◆ |
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■東京文京区の幼児殺害事件で、昨年11月26日(金)に逮捕された山田みつ子被告の初公判が3月6日、東京地裁で開かれる。この事件をめぐっては、当初からマスコミが「お受験殺人」だと騷き、被害者・容疑者双方の子供の受験歴を暴き立てた。 ■私は、逮捕一報のあった日のTBSラジオ「デイキャッチ」(関東ローカル)で、「お受験殺人」はありえない、あるとすれば「公園デビュー殺人」だけだと述べた。実際翌週には、供述から、お受験の嫉妬ではなく、こじれた人間関係が理由だったと分かってくる。 ■番組を一緒に担当する荒川強啓氏が、予測の的中ぶりへの驚愕を表明した翌週の番組で、私は推測の経緯をこう紹介した──。お受験ブームは主婦の見栄競争で、強い敗北感は生じても、子供を殺す類の憎しみは絶対に生じない。加えて、問題の幼稚園の抽選入学で、学力の優劣が判定されるわけでもない。抽選で落ちたからお受験殺人、これはありえない。とすれば何が理由か。この事件は私にR・クレマン監督『太陽がいっぱい』を想起させる。 ■パトリシア・ハイスミス原作のこの映画には、フィリップとトムという二人組の青年が登場する。フィリップは、家柄が良く、金持ちで、美しい彼女がいるヨットマン。アメリカの田舎から出てきたトムは、自慢できる家柄や財産はなく、女もいない。そんなトムにフィリップが目をかけてくれ、一緒に遊ぶ。 ■だがフィリップと違い、トムにはフィリップ以外友達はゼロ。フィリップ優位、トム劣位。ところがそれゆえにトムには、フィリップの何気ない振る舞いが、優劣関係を利用した嘲笑や侮蔑に見えてくる。憎悪をつのらせたトムは、フィリップを殺害する。しかしトムの憎しみが、フィリップの態度に客観的に対応するのか、単なる被害妄想なのか、実は曖昧だ。問題の鍵は、トムに選択肢が存在しないことによる優劣関係にある──。 ■憎しみとはかくしてつのるものだとラジオで述べた。ところが最近明らかになった情報はまるで『太陽がいっぱい』そのもの。田舎から出てきて引っ込み思案の被告にとって、被害者の母親は唯一の友人だった。息子をわざわざ被害者の子と同じ幼稚園に入れたほど。社交的な被害者の母親と引っ込み思案の被告。選択肢の多寡による優位・劣位の関係。 ■ところが、自分や娘の働きかけに対する応答ぶりから、被害者の母親が自分たちを軽んじていると思い込み始めた山田被告は、被害者の母親を回避し、息子が通う幼稚園を変えることを夫に提案するが、「じきに卒園するのだから」と夫は取り合わない。 ■被告にとって被害者の母親は、世間との唯一のパイプで、回避ばかりしてもいられない。鬱積した被告は夫に殺意をほのめかすまでになる。しかし3回に渡るSOSの発信にも夫は取り合わなず、結果、犯行へ。みごと私の説明通りだった。 ■人間関係なるものへの敏感さがあるのなら、お受験殺人騒ぎに同調せずに、私と同様な推測をする言論人が他にいても良さそうなのに、皆無という体たらく。さて、この事件は「お受験問題」ではないとすれば、いったい、どんな問題を示唆するのだろうか。 ■マスコミの一部は、SOSを受信したはずの被告の夫に問題があったとする。しかし現代の家族状況を考える限り、夫に落ち度はないと私は思う。問題はもっと深刻である。 ■「物の豊かさ」「アメリカ的生活」という合意された国民的目標があり、家族にとって良きことが自明だった「団地化」の時代。ところが70年代に入ると、家族にとって良きことが自明でなくなる「ニュータウン化」の時代に突入。同時に人間関係の質も激変する。 ■団地化の時代だと、小学校には団地の子、地元商店街の子、農家の子が混在。地元商店や農家がご用聞きや作物販売にきた。すなわち団地は、もっと広い地域社会の中にあり、家族は、家族にとって「良きこと」と、「地域性」という前提を共有していたのである。 ■ところがニュータウン化の時代。団地は周辺から切り離された「閉域」を形づくる。父親は会社世間、母親は団地世間、子供は教室世間という具合に、家族が別々の世間に所属。一つ屋根の下に、よそ者同士同居するという、前回指摘したような状況になる。 ■妻の切実さが夫に伝わらないのは、住む世界が違えば当然で、問題はここから先。成熟社会では、家族各人が別の世間に属するのは不可避だが、日本の夫婦の多くにはこの差異を凌駕するような情緒的紐帯が存在しない。これが問題だ。仮に存在するとどうなるか。 ■社会学者パーソンズが「家族の情緒的再生産機能」として定式化したように、別々の世間で傷ついた夫婦や家族が、互いが所属する世間「よりも優先順位の高い」家族的紐帯のもとで癒され、傷を克服できる。繰り返すが、互いが属する世間を理解するのとは違う。 ■江戸庶民が愛した浄瑠璃の心中話、あるいはロミオとジュリエットの悲劇話ではないが、互いが属する世間の違いを、互いの属する世間への理解でなく、愛によって無化すること。自分が属する世間(の義理)よりも高い価値に身を投じること。つまり愛のもつ可能性だ。 ■日本の家族は、情緒的再生産機能が不全状態にある。私の教え子の半数近くが「自分がいなければ、親夫婦は一緒に暮らす理由をもたない」と述べ、その多くが「自分も結婚すれば、親と同じような夫婦関係を営むだろう」と言う。「家族の愛情モデル」の不在ぶり。 ■「家族の愛情モデル」を採用できないなら、家族とは一つ屋根の下に同居する他人に過ぎないという認識を徹底し、「家族の他人モデル」を受容する以外、成熟社会ではありえない。ただいずれのモデルも、所属する世間べったりの非自立的個人には、選択不可能だ。(了) 2000年3月5日(日)朝刊一面・論壇 |