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■やや錯覚しやすいが、新潟県女性監禁事件の発生は十年前。最近の事件というわけではない。東京都五日市町の連続幼女誘拐殺害事件や、足立区綾瀬の女子高生コンクリート詰め殺人事件の直後に起こったもので、むしろこれらの事件の影響さえ考えられる。 ■実際こうして並べると共通性がある。連続幼女誘拐殺人事件では、家族が同居する部屋の隣室で死体を解体し、女子高生コンクリート詰め殺人事件では、階下に家族が同居する部屋で女子高生を四〇日間監禁した。新潟の事件では、同様な状況で十年間の監禁である。 ■私たちは、何の変哲もない郊外で、何の変哲もない隣人や家族たちと暮らしていると思っている。しかし隣家や隣室には、想像を絶した犯罪行為を行う人間がいて、単に私たちが気づかないから、平穏無事な日常が継続しているかのごとく感覚してしまう──。 ■繰り返すが、十年前には既に、こうした状況が一般化している。加えて、「池袋通り魔殺人」「下関通り魔殺人」「ハイジャック機長殺人」「京都小学生首切り殺人」「埼玉県桶川市ストーカー殺人」と最近の事件を並べてみると、そこには共通の感覚が漂う。 ■容疑者が逮捕されていない場合はいざ知らず、逮捕された場合ですら、私たちには動機が不透明で飲み込めない。だからマスコミの報道も精神鑑定の結果待ちとなるが、結果が「判断能力あり」となっても、ならなくても、私たちには合点が行かない。 ■七〇年代に入ると、先進各国は、何が幸いなのか、何が良きことなのか、人それぞれに分化する近代成熟期を迎える。それとともに消費動機も宗教動機も犯罪動機も不透明化する。この時期に「現代的犯罪」という言葉が生まれるが、動機が不透明な犯罪一般を指す。 ■しかし、連続幼女誘拐殺人事件や女子高生コンクリート詰め殺人事件が起きた89年頃から、不思議な事件が続発する最近までの十年間を見ると、「現代的犯罪」のオンパレードの観がある。郊外研究をする私の立場からすると、二つの問題が見え隠れする。 ■第一は「食い違う感覚地理」の問題。第二は「永続する幼児的全能感」の問題。両者は、前者が後者の前提になる形で、緊密に結びついている。幼児的全能感は分かりやすいだろうが、感覚地理という言葉は耳慣れないかも知れない。簡単に説明しよう。 ■ここに家があり、そこに川があり、あそこに山があり…というのは物理的地理。感覚地理はこれとは違って、そこが主観的にどのように生きられるかという「生きられる時空」に関係する。感覚地理は人によって異なる。その乖離はニュータウンで特に顕著になる。 ■97年に酒鬼薔薇事件の舞台となった須磨ニュータウンでは、大人と子供の感覚地理がひどく乖離する。各所に児童公園があるが、子供は遊ばない。かわりに団地の踊り場が遊び場になる。大人の視線が集中するオープンスペースは、自発的な遊び場になりえないのだ。 ■私が団地に暮らした幼少時には屋上が居場所だった。酒鬼薔薇はタンク山が居場所だった。両方には、機能的にゾーニングされた郊外空間の中で、そこだけ用途が指定されない「機能的空白」だという共通性があり、だからこそ居場所になる。でも大人には見えない。 ■八〇年代には社会的流動性が高まり、学校でも家でも地域でもない第四空間(ストリート・匿名メディア・仮想現実)が拡がるが、その結果たとえ同じ屋根の下に三世代同居していても、祖父母世代、父母世代、子供世代で、感覚地理が完全に乖離するようになった。 ■その結果、同じ屋根の下で、大人はコミュニケーションしているつもりでも、コミュニケーションがありえなくなった。背景には、同じ前提を共有しないとコミュニケーションが成り立たないという日本的伝統もある。感覚地理の乖離は共通前提を堀り崩してしまう。 ■このことが「永続する幼児的全能感」と関連する。赤ちゃんは泣けば乳を与えられ、あやしてもらえる。だから全能感を生きる。でも19世紀にフロイトが述べたように、父親的な場所からの禁止が介入することで、次第に他者概念が生まれ、自己の輪郭が整ってゆく。 ■その結果、放っておけば衝突せざるを得ない他者たちの中で、コミュニケーションを通じて自己を実現するというルートを学ぶ。ところがこれにはコミュニケーションを通じて禁止されたり承認されたりという契機が不可欠である。だが感覚地理の乖離は何を生むか。 ■幼児期からゲーム・テレビ・音楽・インターネットと、大人から想像不能な世界を生きる子供たちは、当初から大人と全く異なる感覚地理を生き、その結果、コミュニケーションを通じた禁止や承認があると見えて、その実、禁止や承認を経由しないで成長しうる。 ■幼児的全能感を抱いたまま大人になった人間の視界には、自分と同等の資格をもった他者は存在しない。他者は、モノと同じように自分の思い通りになるべき存在である。社会に出て思い通りに行かないことが増えると、赤子並みにダダをこね、挙げ句に爆発する。 ■むろん単なる甘やかしも幼児的全能感が継続する理由になる。だがメディア環境の急速な分化と流動化で、大人が厳しく対処したり存分に承認したつもりでも、子供に対する禁止や承認の供給不足が起こりうる。だから大人の「つもり」だけでは対処できない。 ■まさに他者概念の樹立のための新しいシステムが要求されている。「皆仲良し」ではなく、必ずしも仲良くできない他者と共生するためのルールと想像力に関わる動機づけのシステムだ。(了) 2000年2月5日(日)朝刊一面・論壇 |