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■昨年九月三十日に茨城県東海のJCOウラン加工工場で発生した臨界事故は、原子力事故での日本で初めての死者を出し、アメリカの週刊誌では九九年のワーストニュースに(ベストニュースの「ポケモン・ブーム」と共に)選ばれる結果になった。 ■事故発生10時半。東海村への報告は11時半。NHKテロップが12時半。県災害対策本部設置が16時で県レベルや原研では臨界継続可能性を認識。国の安全委緊急助言組織の召集が18時で、「再臨界可能性あり」と結論するのが20時である。 ■一般の人々が臨界継続可能性を認識するのは、ようやく21時半頃になってから。NHKテロップで「10キロ圏内の屋内避難勧告」が報じられてのことだ。県知事が記者会見でこの件を公表するのが22時半。なんと事故発生から12時間を過ぎてからのことであった。 ■この遅れは、裏マニュアルに基づいた(いやそれさえも無視した)JCOのずさんな管理もさることながら、そうしたずさんさをもたらしたのと同じ体質が、日本のシステムのすみずみにまで浸透している可能性を示す。そのことを示す兆候をほかにも探ってみる。 ■読売新聞12月23日号「読者が選んだ十大ニュース」の一位はJCO臨界事故。二位は神奈川県警・愛知県警・佐賀県警など不祥事続出。その他上位には山陽新幹線コンクリ剥落、相次ぐ医療ミス、15行に公的資金注入と続く。どれもシステムの疲弊を象徴する。 ■少子高齢化社会の到来に伴う年金・保健・福祉の合理化が叫ばれるが、日本は福祉大国でも何でもなく、福祉予算は対GDP比で言え先進七カ国の平均水準の半分。かわりに公共事業費は三倍。当然のツケで公債による借金は六百兆円。相変わらず土建屋政治が続く。 ■そしてそんな政治家を選んでいるのが、理念なきムラビトである日本国民だ。三十年後には確実に潰れているもののために予算を垂れ流す。借金は返すために子孫への先送りがなされ、保険料など国民負担に転嫁され、インフレ策による借金棒引きがなされるだろう。 ■当然、国際的信用は落ちて資金調達コストが上がり、あるいは緊縮財政による行政サービス低下のツケを払わされ、あるいは借金棒引きで公債所有者も馬鹿を見、あるいは高齢者の生活設計は崩壊する。こうした政治を行う政治家逹を選ぶのが、民度の低い有権者だ。 ■短期的にも長期的にも悪いことは自明に回避される。短期的にも長期的にも良いことは自明に選択される。問題は、短期的に良いが長期的には悪いことと、短期的に悪いが長期的には良いこと。理念と公共性に乏しいムラビトは前者に縋り、ほどなく全員が沈没する。 ■こうした状況を根本的に打開するには民度を上げるしかなく、そのためには教育改革が欠かせない。そのことを理解するには、冒頭のJCOの事故から見えてくる各所のシステム疲弊が参考になる。ここでは「危機管理」の思想を切り口に展開してみよう。 ■危機管理というと事前にマニュアルを多量に作って緊急事態に迅速に行動できるようにすることだと思われがちだが、本来はまったく「逆」である。ルーツは戦時概念で、極めて乏しい情報下で戦局拡大か収拾かという運命の決断をなしうる「構え」のことを言う。 ■どんなマニュアルを作ってもマニュアル外の事態が確率論的に必ずありうるが、要はマニュアル外の事態が起こったときの「責任」の取り方がどうあるべきかを指示するために生まれた概念なのだ。原子力の危機管理も、本質はこのことでなければならないだろう。 ■ところが企業も国も自治体もマニュアル外の事態が起こったときにうまく動けない。責任の取り方が分からない。昔の職人はマニュアル要らずが自慢だったが、今の日本人は裏マニュアルも含めてマニュアル作りは得意でも、マニュアルを越える事態には出鱈目だ。 ■社会学はこれを「責任」概念の不在と見る。共同体のムラビトである日本人は、責任というと、部下や上司をかばいきれなかった責任うんぬんと所属共同体の期待が軸になる。だから不祥事に際しては、所属共同体の視線だけを気にする「内向きさ」が露骨になる。 ■しかし日本を除く先進国の文化圏では、レスポンシビリティという言葉が文字通りには「応答可能性」を意味するように、本来、外側からのクレームや批判に応えうる自立した力のことを言う。共同体の外側とは、もちろん「公共=パブリック」のことである。 ■すなわち責任とは、必ずしも同じ共同体に属さない「異者=ストレンジャー」と場を共有して生きるという「共生」の感覚と表裏一体だ。「新しい歴史教科書をつくる会」が公を共同体への貢献と理解するのが象徴的だが、こういうムラビト的態度は責任の反対物だ。 ■だから日本では、ローカルな共同体を越えた動機づけを調達しようとすると、ローカルを包括するような大きな共同体を上からかぶせるしかなくなる。実際そこに近代天皇制の機能的中核があった。ここで私たちは二種類の選択肢を前にしていることが分かるだろう。 ■責任概念を樹立するために、再び一君万民的な国民的共同性を人為的に作り出すのか、共同体から自由に自己決定する者たちの共生の作法(ルールと想像力)を人為的に作り出すのか。最後は教育の問題になるが、どちらなのかそろそろはっきりさせようではないか。 ■ちなみにこうした問題を含め、熊本県保険医協会主催の「第一二回熊本健康会議」のシンポジウム(一月二九日の二時より県立劇場コンサートホール)でディベートする予定だ。(了) 2000年1月8日(日)朝刊一面・論壇 |