|
||
|
■オウム信者の増大と新法の問題、ライフスペースのミイラ事件、法の華三法行の違法集金など、世紀末にふさわしく、再び新新宗教をめぐる話題が盛んである。ところが、マスコミの扱いを見ると、宗教のことが分かっていないな、と思うことが多い。 ■たとえば、凶悪な事件を起こした宗教に、最近になって入信する若い信者が増えているのはどうしたことか、彼らには社会的倫理観はないのか、といったタイプの憤激に満ちた批判が、ワイドショーに出演するコメンテーターの口から語られる。 ■あるいは、ミイラ化した死体が生きているなど、いったい学校教育で学んできた常識的な科学知識はどうなっているのか、頭が悪いのではないか、といった嘲笑に満ちた揶揄も、同様にしばしば聞かれる。 ■だが、こうした批判は、宗教の本質を弁えていないのみならず、成熟社会を迎えた昨今における宗教の参入動機に対する理解を逸することで、皮肉にも、とりわけ若い世代をこうした新新宗教に追いやる方向で機能している。 ■宗教の機能的本質は、社会システム理論の立場では、端的なもの、すなわち本人に動かしがたい絶対的な所与性(生まれ、容姿、才能、出会い、罹患、事故…)を、無害化して受け入れ可能にし、絶対的所与性にもかかわらず行動可能性を確保させる点に、存在する。 ■だから宗教は、世俗的チャンスに対する代替的チャンスを提供する。たとえば戦後新宗教までは、世俗的地位上昇を代替する教団内地位上昇が──社会での立身出世が望めない代わりに宗教的ステージの上昇をめざす──が、社会的弱者の上昇欲求を吸収してきた。 ■ところが七〇年代から拡がる新しいタイプの宗教すなわち「新新宗教」は、貧・病・争に苦しむ社会的弱者が代替的チャンスの獲得をめざすといった従来の参入動機に対する理解を難しくする。オウム真理教の元教団幹部のエリートぶりを見れば思い半ばに過ぎよう。 ■では、社会的強者にしか見えない人々さえも続々参入する新新宗教の参入動機とは、何なのか。いったい新新宗教は、どのような代替的チャンスを提供しているのか。答えは、「承認」である。彼らはコミュニケーションを通じた承認の代替的チャンスを欲している。 ■背後には、きわめて深刻な「承認の供給不足」がある。その背景をさらに探ると、(1)成熟社会にふさわしいコミュニケーションチャンスの制度化がなされていない状況と、(2)成熟社会への移行によって承認力を失った大人たちが溢れている状況とが、見えてくる。 ■(1)については、家でも地域でも学校的評価だけが問題にされるという「学校化状況」が、七〇年代後半から急展開したことがある。家や地域が、学校の出店(でみせ)になり下がることで、劣等生(優等生)は劣等生(優等生)というレッテルから逃れらなくなった。 ■(2)については、かつて父親の説教に効果があり、父親が承認力を持ち得たのは、父親が「世間」を背景にできたからだが、成熟社会化して、父親の会社世間、母親の団地世間、子供のストリート世間・オタク世間などが互いに無関連になると、これらは当然失われる。 ■その結果、承認力を失った父親を代替する、もう一人の「本当の父親」=グルに、登場チャンスが開かれる。私自身、八〇年代にさまざまな新興宗教やセミナーを経巡った経験があるが、人気のある指導者には例外なく、「父親的な確かさ」に満ちた承認力があった。 ■要は、承認を与える力が彼らをグルにする。グルの言説の非科学性や入信者の科学常識の欠如を批判してもどうにもならない。なぜなら入信者は「承認のワラにも縋りたい」のであり、承認力の有無こそが他の何よりもプライオリティ(優先順位)が高いからである。 ■このことが、グルに洗脳チャンスを与える。確かにテクニカル面では、アンカー(潜在意識下に存在して、顕在意識を強力に方向づける「碇」)の埋め込みがあり、アンカーの解除が「脱洗脳」の手段となる。だが技術面だけを強調すると本質を見失うであろう。 ■こうした技術面に照準した脱洗脳にたとえ成功しても、承認の供給不足という根本問題を手当されない限り、たとえばオウム真理教の元信者に多数の例を見いだせるように、多くの場合、オウムに、あるいは他の新新宗教に、結局は再び参入していくことになるのだ。 ■このように「こちら側」にいかなる承認チャンスをも見いだせない人々にとって、「こちら側」を擁護するマスコミは、新聞であれワイドショーであれ、敵になりがちだ。逆に言うと、これらマスコミに叩かれるほど、叩かれる対象は「あちら側」に追いやられる。 ■そして「あちら側」にできるだけ遠く追いやられたものこそが、承認の供給不足に窒息しかけている彼らにとっては、「最後の行き場」になるのではないかとの期待を与える。オウム真理教に再び若い人々が入信するのは、世間で、マスコミで、叩かれるからなのだ。 ■結論。「こちら側」が承認チャンスを用意できないまま「あちら側」を叩く場合、叩けば叩くほど「あちら側」への離脱が動機づけられる。宗教史を学んだ者にとって、「叩かれるほど輝く」「毒であるほどよく効くクスリに見える」という逆説は常識であるはずだ。(了) 1999年12月5日(日)朝刊一面・論壇 |