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■テレビ放送が抱える諸問題について三十五年にわたり提言しつづけてきた「放送番組向上委員会」(草柳大蔵委員長)という組織がある。私は委員の一人であるが、先日の会合で、お笑い番組の「ボケとつっこみ」がイジメではないかという議論がもちあがった。 ■実は公表していないが、私は密かに「笑い」について研究してきている。委員会の席で私は、理論的な理由によってイジメと非イジメの単純な線引きは不可能であると論じ、「笑いの社会学理論」を背景にした吟味された措置が必要であるという持論を展開した。 ■私はもともと関西で育って、小六の秋に東京に来たとたんに自閉症気味になった。関西でも東京でもクラス全員を笑わせる子はいるが、関西だと一対一でもボケたりつっこんだりする。その流儀で東京の小学校で振る舞うと、これがまったく通じなかったのである。 ■関西だと、「消しゴム貸して」と言われたら、わざと定規を渡す。すると相手も定規で消す振りをして「消えへんやん」とボケてくれる。ところが東京だと「消しゴムって言ってるじゃないか」と怒鳴られる。それで私はうまく人づきあいができなくなってしまった。 ■以来、私は東京的なものと関西的なものの違いに注目するにようになった。社会学を学び始めた八〇年代には、まずお笑いブーム起き、続いて吉本興業が東京のテレビ番組に進出、九〇年代には「銀座七丁目劇場」が出来た。私は分析材料には事欠かなかった。 ■その分析によれば「東京の関西化」が進行中だ。当初は吉本芸人がいないと東京のバラエティー・ショーも成り立たないといったメディア内状況で留まっていたが、最近は現実の生活世界で、東京の子供や若者たちが一対一でボケとつっこみをするようになってきた。 ■テレビを見れば分かるが、関西化したといっても藤山寛美の関西喜劇のような叙情的共同体を前提にした笑いが導入されたのではなく、あくまで相手がボケたらつっこむ、あるいは相手がボケたら自分もボケたうえで自分でつっこむ、といった形式が移入されている。 ■互いが笑い合うとき、同じ前提を共有することが確認される。正確には、前提を共有すると思われたところに、比較的無害な範囲で期待の地平破り(ズレ)が発見されて笑いが生じる。その笑いで、同じ前提を共有していると互いに思い合っていた事実が確認される。 ■この形式が東京圏の子供や若者に導入されたのは、社会学的必然性がある。その理由は、九〇年代に入ってコギャル語が一世を風靡した(とされる)背景を分析すると分かってくる。興味深いことに、コギャル語はもっばら東京圏ばかりで量産される。いったいなぜか。 ■日本人は自分と相手が同じ前提を共有すると信じられないとコミュニケーションに踏み出せない。地方だと方言があるし昔から近隣を知悉するからいいが、東京だと周囲は他人ばかり。そこでジャーゴン(仲間内の言葉)を共有して同じノリを演出する必要が生じる。 ■藤原寛美の笑いは生活人の「事前の」共通感覚をベースにするが、吉本的笑いは内容的な生活感ではなく、ボケとつっこみという誰でも利用可能な型を使う。型を使って笑い合うことで「事後に」同じ前提を共有するかのようなノリを享受する。コギャル語と同じだ。 ■こうした形式的な笑いが八〇年代後半以降、東京の若者たちに急速に需要されるようになった背景には、もはや若者であるというだけではどんな前提の共有も当てにできなくなった「島宇宙化」があり、さらに背後にはモノの豊かさの達成による「成熟社会化」がある。 ■問題はここから先だ。大阪の笑いが東京人の一部にイジメと見えるのはなぜか。関西財界人向けの講演の二次会で、私が関西出身の高名な女性評論家の名を出すと、一人が「あのブスな女でっしゃろ」と言って周囲が爆笑した。東京では絶対にありえないことである。 ■社会システム理論は、共同体的な期待の地平が人畜無害な範囲で破られるときに、笑いが生じると考える。誰かが転ぶと期待の地平から外れる。これが周囲にとっても本人にとっても人畜無害だから笑う。転んだ結果骨折したり死んだりしたら、とても笑えない。 ■ところが大阪の笑いを東京にそのまま持ち込むと、笑う側はいいとして、笑われる本人にとっては限界を越えているということが起こりがちになる。なぜなら東京には、大阪近辺にはまだしも存在する共同体的前提(いわば大きな「内輪」)が、存在しないからだ。 ■藤原寛美の笑いが通じる生活共同体があったればこそのつっこみを、そうした共同体を前提にできない場所に持ち込めば差別表現になる。いや、たとえ大阪内部でも、同じ前提を共有しているだろうと強要されること自体が権力的でありえ、これを嫌う大阪人もいる。 ■結論。お笑いの健全さを決めるのは受容者側の共同体的文脈であり、一般的尺度は理論的にありえない。「銀座七丁目劇場」の出し物が本場の吉本新喜劇よりずっと人畜無害化されているように、受容者を見定めた細かな配慮が必要になる。その意味でも、デジタル放送化によるチャンネル増大が、地域密着型の番組を増やしていくことに希望を託したい。(了) 1999年11月7日(日)朝刊一面・論壇 |