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■成人に達しても他人と交われない「ひきこもり」が話題になっている。仕事であれ遊びであれ、他人とコミュニケーションするのが辛いので、自宅の部屋にこもって外に出ることができなくなる現象である。九〇年代に入るころから急に目立つようになってきた。 ■インターネット上には、こういう「ひきこもり系」の人たちが開いているホームページが数百も存在する。昨年のインターネット毒物配布事件で青酸化合物配布の舞台となった「ドクター・キリコの診察室」もそのうちの一つで、以前からネット界では評判だった。 ■「ひきこもり系」ホームページには「精神系(こころ系)」と「自殺系」の二種類がある。前者は「どうすれば楽に生きられるか」を、後者は「どうすれば楽に死ねるか」を問題にしていて、ホームページ上の電子掲示板は多くの訪問者でにぎわっている。 ■対照的な両者だが、共通してクスリの話題が多い。それぞれ、楽に生きるための、楽に死ぬための、クスリの効果的な使用法を話題にしている。「ドクター・キリコの診察室」は後者にあたり、ドクター・キリコは実際「クスリの専門家」だった。 ■こうした「ひきこもり」はいわゆる一流大学でも目立つ。私が助手として勤務していた東京大学では、私が学生だった二十年前は五十人の語学クラスで誰とも喋らない学生がせいぜい二人いる程度だったが、九〇年代に入ると十人以上は数えられるようになった。 ■こうした社交能力の顕著な低下は、小中学校の教員や学童保育の職員と話をする場合も必ず話題になる。最近の子供は、(1)できる・できないに敏感で、失敗を非常に恐れており、(2)表面上はお友達を演じていても「本当はイヤだ」という内面を出せない、というのだ。 ■援助交際・キレる少年をはじめ、どんな現象でも、それが目に見えるようになる十年以上前に、問題の萌芽が見出される。「ひきこもり」に代表される社交能力の低下もそうで、私が十年以上前に『中央公論』連載で問題にした「島宇宙化」がそれに当たっている。 ■当時の私は昨今のサブカルチャーは社会的退却の色合いが濃厚だとして、こう指摘した。どんなアニメを話題にするか、どんなファッションを選ぶかでコミュニケーション相手をスクリーニングし、予想外の帰結を排除することで脆弱な自己像の攪乱を防止するのだと。 ■背後には(1)互いに同じ前提を共有しないと先に進めない共同体的コミュニケーションがあると同時に、(2)かつて当てにできた共同体がなくなったので、その都度のコミュニケーションで絶えず「同じさ」を作り出す必要に迫られるようになったこともある、と述べた。 ■こうした状況は以降さらに厳しくなった。本来は一緒にいる必然性のない人間同士の違いが露わになって「一緒にいる理由がなくなる」のを恐れて絶対に腹を割らなくなると同時に、割り当てられたキャラを演じて座のノリを永続させることに汲々とすることになる。 ■一口で言えば、異者とつき合う社交能力の決定的な低さを埋め合わせるべく、相手の正体や内面を不問に付したままノリの同じさを求めて永遠に戲れるという異様な社交能力が要求される逆説が生じたのだ。多くの若者たちが社会的退却へと向かう理由はそこにある。 ■こうした状況を以下の要因がさらに増幅する。まず(a)コミュニケーションを通じて内面を承認される経験が積み重ならないので自己信頼のレベルが上がらず、だから仲間の視線に脅えて表層的戯れに終始し、だから内面を承認される経験を逸するという悪循環がある。 ■つぎに、(b)大人が「みんな仲良し」的同調を強いる馬鹿げた伝統がある(小学校教員の九割が自立性よりも協調性を重視するというベネッセの調査がある)。だから内面をさらせなくなると同時に「仲間以外は皆風景」という異者への鈍感さとストレスが醸成される。 ■溯れば、(c)メディアに「良い子イメージ」を刷り込まれた親が、イメージに拘束されて条件付き承認しか与えることができないから、子供は親にさえ内面をさらせなくなり、深刻な承認の供給不足が生じている。承認不足は自己信頼の低下を招いて人を脆弱にする。 ■成熟社会では、かつてのような国民的に合意された目標や夢は消え、何が幸いなのかは各人各様になる。自分にとっての幸いは個人的な試行錯誤で掴む以外ありえないし、そのためには互いに異なる幸いを追求する異者と交流する試行錯誤が必要不可欠になってくる。 ■こうした試行錯誤は、不安があっても失敗しても平気、他人に変だと思われても大丈夫といった自己信頼を前提とする。この自己信頼は試行錯誤の積み重ねで強化されるという循環があると同時に、出発点では大人の承認による十分な自己信頼の初期値が必要になる。 ■こうした要因の一つ一つを丹念に取り除いていくことが責任ある大人たちの責務だろう。(了) 1999年6月6日(日)朝刊一面・論壇 |