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■広島の高等学校校長の自殺をきっかけとして日の丸・君が代法制化の動きが進んでいる。法制化=強制ではないとはされるものの、自治体単位(教育委員会など)の行政命令に正当性を与える機能がある以上、事実上類似の機能を持つことには誰も依存がないだろう。 ■私は少年法改正や憲法改正と同様に、時期が来て幾つかの条件が整えば法制化もかまわない、逆に条件が満たされない限りは時期尚早だと考えている。少年法や憲法の問題は別の場所で繰り返し語っているが、今回は日の丸・君が代の法制化の条件を考えてみたい。 ■条件とは一口で言えば「人間の尊厳にとって国家とは何か」という問題を徹底的に議論し、ある根本的な価値選択に合意することだ。戦後この問題がまともに議論されたことも教育されたこともなかったせいで、私たちは尊厳についても国家についても無知なままだ。 ■人間の尊厳とは何か。思想史上二つの考え方がある。一方に、崇高なるもの・大いなるものとの一体化で得られる自尊心こそが尊厳だとする尊厳観がある。他方に、尊厳とは社会関係の中での自由な試行錯誤の積み重ねで得られる自尊心だとする尊厳観がある。 ■双方とも考え方の歴史は古いが、前者は一九世紀のドイツ国法学において洗練、後者は一八〜一九世紀の英国自由主義哲学で洗練された。先の大戦で枢軸国側(日独伊など)は例外なく前者を採用し、連合国側(英米仏など)の大半が後者を採用していた歴史がある。 ■この分岐は愛国心についての思考を規定する。国法学的思考では、一体化の対象たる大いなるものイコール国家となる。自由主義哲学的思考では、自由な試行錯誤を支える公共財は血によって購われてきたものだからタダ乗りは許されず献身は貴いという発想になる。 ■こうした思考は税金観に表れる。フロンティアに町を作るが、原住民やならず者が打ち壊しにやってくるので、安心して暮らせるようにカネを出し合って保安官を雇う。こういうカネが、前者の国家観と結びついた税金観で、ルーツは一八世紀の夜警国家観に遡る。 ■日本の場合、税金というとエラいお上に召し上げられる年貢の延長線上に考えられている。GHQの検閲によって検閲なき社会を達成した日本の場合、市民的自由のための公共財を自らの血で購った記憶がないので、こうした税金観=国家観が継続し続けている。 ■そのため、見かけは連合国と遜色ない制度を達成したように見えながら、その制度を生きる人々の多くが連合国的な自立的尊厳観から程遠い、枢軸国的な依存的尊厳観を生き続けている。所属のゲタをはく依存的尊厳観は、今でも日本人の多くを規定し続けている。 ■かつてテレクラ規制条例を要求する署名運動を取材して驚いたが、テレクラユーザーばかりかテレクラの店長やオーナーまでもが、居住地で回ってきた回覧に近隣の目を恐れて署名していた。自立的尊厳観が生きられない場所では署名は民意の集計にはならないのだ。 ■売春女子高生を取材すると、客の男は十人が十人、所属する一流企業や学歴や年収や車を自慢するという。一応「わあ、すごーい」と言ってあげるが、女の子たちは内心「馬鹿じゃんコイツ」と思う。ことほどこように大人は自分でないものを自分の尊厳の糧とする。 ■社会学者には周知だが、日本であなたのアイデンティティは?と尋ねると、会社だ、学校だ、家庭だと所属対象を答えてしまう。アイデンティティとは、会社をクビになろうが家庭が崩壊しようが、自分は自分だと言い続けられる根拠なのに、全然理解されていない。 ■こうした所属のゲタをはく生き方は元来、ムラの共同体的作法を超越するような宗教的形象を持たなかった故の伝統だが、明治五年の学校教育令以降の近代学校教育による国民化の流れの中で、最高位の所属共同体イコール国家だとする思考枠組が刷り込まれできた。 ■ファシズム研究の定説では、急速な重化学工業化や都市化によるムラ的所属の破壊がもたらしたアノミー(不安や孤独)が、崇高な人為的共同体たる国家に人々を救心した。平成不況で階層的・会社的な所属不安が蔓延する今日、こうした学問的蓄積は輝きを帯びる。 ■複数の調査が示すように、日本の子供たちの自尊心のレベルは他国よりも圧倒的に低い。この低レベルの自尊心を、自由な試行錯誤による自信の獲得で引き上げるのと、崇高なるものへの所属といった観念で埋め合わせるのと、私たちはどちらを選ぶべきなのだろうか。 ■見かけは民主制的市民社会なのに、生きられる尊厳は枢軸国的という深刻なネジレが愛国心の内実を不透明にしている。自由のための愛国心なのか、崇高な所属のための愛国心なのかという議論は、右も左も共同体主義的な日本の教育体制の中で、放置されたままだ。(了) 1999年5月2日(日)朝刊一面・論壇 |