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【宮台】『動物化するポストモダン』、面白く読ませてもらいました。読者の方々には内容を説明しておいた方が分かりやすいでしょう。まず僕なりに粗筋をまとめます。 全三章ですが事実上は四部構成ですね。第一章が第一部に相当します。コジェーブはポストモダンにおいて優位となる「形式の戯れ」の嚆矢を江戸に見出したましたが、そのポストモダンな江戸(笑)の直系の子孫みたいにオタクを論じる傾向を、東さんは批判します。オタク文化の江戸起源論は誤りで、アメリカの影という断絶を挾んで理解するべきだと。リミテッド・アニメを典型例として挙げていますが、本当はアメリカのようにしたかったのにアメリカのように出来なかったという劣等感を、いわば反転させて、特殊日本的なものだからスゴイんだと胸を張る。アメリカの影を忘れたいのは分かるけど、歴史を捏造しちゃいかんぞよと(笑)。僕も、その卑屈さにこそ戦後の日本性を見出すべきだと思う。 でも、第一部は前振りですね。第二部以降がこの本のすごく面白いところです。第二章一節から六節までを第二部と呼びましょう。そこでの問題設定は「ポストモダンのシミュラークルはいかにして増殖するか」です。結論を言うと、良いシミュラークルと悪いシミュラークルを選別排除する装置として、データベース的なものが機能していると。分かりやすく言えば、ボードリヤールのシミュラークル一元論、いわば戯れ一元論は間違っているというわけです。前著『不過視なものの世界』とも共通する論点で、とても納得的でした。なおかつ第三部への伏線が引かれています。目下優位になっている現象を見る限り、戯れには反逆や無政府性の志向が含まれないと東さんは言います。すなわち、意識のレベルでは文字通り戲れているだけで、そこにはアイロニーが存在しない。これは重大な指摘です。 そして第三部にあたる第二章七節から九節まで。そこでの問題設定は「シミュラクルの戯れを享受する人々における人間性とは何か」です。つまり、ポストモダンにおいて人間的であるとはどういうことなのか。この本の最大の山場ではないかと思いました。 【東】そうですね。 【宮台】そこで大澤真幸の「理想の時代」から「虚構の時代」へ、あるいはコジェーブの「人間的なもの」から「スノッブ的なもの」へという、歴史の終焉図式が持ち出される。それに対して東さんは、それじゃまだ歴史は終わってないと(笑)、本当の終わりを追加する。「スノッブ的なもの」から「動物的なものへ」、あるいは「虚構の時代」から「動物の時代」へ、三段階図式にするわけです。コジェーブは、歴史の終焉後、日本的「スノッブ化」とアメリカ的「動物化」の二者択一しかないと見たが、東さんは、日本的「スノッブ化」すら過去のもので、今や「動物化」しつつあると。 スノッブが動物に「なる」とはどういうことか。「あえて」形式と戲れるスノッブですが、コジェーブはそこに人間の自由を、ジジェクは「あえて戯れ『ざるを得ない』」不自由を見出しました。さて「動物的なもの」においては、その「あえて」の契機がスッポリ抜けるのだと東さんは言います。だから、せっかくスノッブがディタッチメントを達成したのに、再び素朴なコミットメントに回帰しているように見えます。同じ戯れでも「あえて」が入るか入らないかの差異が重大だという指摘は、興味深い。東さんや僕が関わるメディア批評の分野では、「動物的なもの」という括りをどう自覚するかで、スタンスの取り方が百八十度変わるからなんですね。 【東】今日の対談はたいへん楽しみにして来ました。というのも、本を書く時はいつも借金を返すような気持ちがあるんですが、今回の本では特に宮台さんからの借金をお返しするという感じだったからなんですね。宮台さんは九五年に『終わりなき日常を生きろ』でオウム真理教徒とブルセラ少女を対比されましたが、僕にはそれはとても重要な指摘だという直感があった。当時はうまく言葉にできなかったのですが、今回ようやく整理できたという感じです。今度の本は、スノビズムと動物というコジェーヴの分割を八〇年代と九〇年代の日本のサブカルチャーの変遷に重ねるという視点で書かれているのですが、その直感の出発点に宮台さんの論考があったわけです。 【宮台】ストリート対オタクという具合にフィールドは対極的なのに、構造的な細部に到るまで同型的な議論になっているところが、大変興味深い。で、この一番おいしい所をお話しする前に、第二部の話をしたいんですが(笑)、自分の体験を振り返ると、データベースを参照しながら戲れるというタイプの享受の仕方は、僕らが小さい頃にもあったような気がします。僕らが子供時分に漫画とアニメが急増殖し、僕を含めた一部の連中は少女漫画や怪獣ものを浴びるように消費しました。すると否応なくパターン認識が出来上がる。作品単体や怪獣単体にではなく、集合体のパターンに注意が移っていくわけです。ディープな少女漫画ファンだった僕も、一つの作品を見て「同居ものだな」「誤解ドタバタものだな」「角を曲がってドシーンものだな」とモチーフをモザイク状に分解して享受していました。 これを引いた視点から見ると、社会環境の流動性、とりわけ情報授受に関わる流動性が過剰に高まった結果、その中でパーソナリティ・システムが安定性を保とうとした場合に必ず採用される「パターン化戦略」ないし「確率論化戦略」だと見えてきます。過剰流動性の下では、現象の同一性ではなく、データベースの同一性を参照する以外に、システムと環境の関係を安定させるやり方が存在しないからです。 【東】今パターン認識とおっしゃいましたが、そのような文化消費のあり方は、日本のサブカルチャーというより、まず第一に五〇年代に生まれたアメリカ型消費社会の問題ですね。大量の商品がカタログ化され一気に提示された市場では、使用価値よりもデザインの記号的な差異が優位に立つし、したがって消費者もその差異に対する感性が問われることになる。これは何十年も前にボードリヤールが指摘したことですが、確かにそこにデータベース的なものはあった。彼はそれを「ハイパーリアリティ」と呼んでいる。ただ、この言葉はすごくあいまいですね。記号の差異を蓄積したカタログも意味するけれど、そのカタログが作り出す幻想も意味する。たとえば、カタログ化されたディズニー的なキャラクターも、ディズニーランドもともにハイパーリアリティだと言われていたわけです。しかし僕の考えでは、カタログはデータベースで、ディズニーランドが作り出す空間はシミュラークルだと呼ばれるべきです。シミュラークルとしてのディズニーランドは、ディズニーが作り出した巨大なデータベースからのサンプリングで作られている。だから僕はデータベースの水準とシミュラークルの水準を分けるのですが、いずれにせよ、こういう意味でのデータベース的な消費形態は、戦後徐々に形成されてきたものであり、何も九〇年代の新しい現象ではない。それはその通りです。 しかしここで重要なのは、やはり技術的変化です。いわゆるIT革命の進展によって、いままでは消費者の頭のなかにしかなかった商品のデータベースが、いわば、本当のデータベースとして外在化されてしまった。消費社会のデータベース化が、電子情報化されたデータベース技術と結びついた。その結果、ユーザーの能動性が強くなってきた。書籍でも服でも電子機器でも何でもいいですが、インターネットを経由して莫大なデータベースにアクセスし、店員との現実的コミュニケーション抜きで、クリックひとつで希望の商品が手に入るようになった。また、そういう技術を背景にして、カスタムメイドでデザインをして、世界で一個しかない時計をデザインするとか、そういうサービスも増えて来た。これは以前の「多品種・少量生産」といは少し違う。生産者側が丹念なマーケットリサーチを元に消費者の動向を読み込み、彼らの欲望を実現していくというのではなくて、端的にユーザー側が自分の好みの商品をデータベースから引き出せるようになった。 【宮台】資本主義がサバイブするのにハイパーリアリティ化は必須です。自動車が分かりやすい。実用機能というリアリティを追求すると市場は早晩飽和します。生産設備は余り、労働者は窮乏化し、帝国主義化する。マルクスとレーニンの予想です。ところがゼネラル・モーターズが登場して実用機能とは別に、空を飛びそうな羽根モドキや、メッキの噴射口モドキをつけて、次々モデルチェンジする。使えるものを捨てさせ、要らないものをどんどん買わせれば、市場は飽和しない。そこにハイパーリアルな、羽根モドキや噴射口モドキといった「萌え要素」のボキャブラリからなる空間が出来上がる(笑)。東さんが言うように、頭の中のデータベースですけれどもね。 ただマーケター実務の経験から言うと、日本の場合、八〇年代を通じて「見栄を張る」タイプの消費が優位だったのと、自分であれこれ選ばず丸抱えでもてなされるのがお金持ちだという「お大尽志向」のせいで、ユーザーが選択権を全面的に行使するフルチョイスシステムは、一般化しませんでした。その意味では、バブル崩壊後の九〇年代に初めて、データベースの外在化に促される形で、東さんの言う方向に消費者の志向が急速に変わったのだと思います。 |