![]() |
|
||
■平成不況は深刻化するばかり。政府の借金(国債残高)が増え続ければ、返済計画なきまま借り入れを続ける放蕩者と同じく信用を失い、手形(国債)が暴落し、貸付けリスクで長期金利が暴騰する。 ■そこで小泉改革だが、国債残高が増えすぎないよう公共事業を減らすというだけで巨大な抵抗に出会う。だが当然なのだ。地域によって労働者の3割以上が公共事業絡みの土建業に従事するするのだから。 ■小泉改革が失敗しようが成功しようが、未来は闇だ。失敗して、長期金利が高騰すれば、企業倒産と失業の嵐。だが成功して、公共事業を他の先進国並みに半減できても、土建業・金融倒産と失業の嵐。 ■「末期患者」に喩えられる所以(ゆえん)だ。どういじっても無理。日本は三等国になり下がることが確実になった。政治と経済の暗闇の中、唯一希望の光を託せるのが、文化だ──ということになるのだろうか。 ■竹中平蔵経済財政担当大臣が、土建業からこぼれた失業者をIT産業で吸収するのだとブチ上げて失笑を買ったことがある。IT産業の実質の見極めが出来ていないと揶揄されたのだが、アニメ・漫画・ゲームのソフト輸出大国としての未来があるという、今でも健在の巷間のロマンはどうか。 ■最近アニメ・漫画・ゲームのクリエーターとよく酒席を共にする。そこで話題になるのが後継者が全く育っていない事実だ。これについては私自身、雑誌『アエラ』「オタクの消滅」特集に関与して問題化した。要は抑鬱的なものの消滅だ。 ■新人類世代(1960年代前後生まれ)の原オタク世代は、70年代後半以降の成熟社会化に伴うコミュニケーション文化の高まりの中で劣等感や鬱屈を感じた。それが表現行為に繋がる過剰さを生んだ ■だが先行世代のオタク遺産に只乗りした団塊Jr.世代(70年代前半生まれ)以降、なだからに抑鬱的側面が消える。ちなみにエネルギー水準の低下を意味する鬱(メランコリー)と違い、抑鬱(ディプレッション)はエネルギーを向ける先が分からずに、滞留した状態を意味する。 ■当初、現世で果たせぬ上昇志向をオタクの箱庭で代替満足させる「ウンチク競争」の類に明け暮れたオタクは、第二世代(団塊Jr.)以降、お題一つで永久に戲れるようになった。上昇(コントロール)から戯れ(コミュニケーション)へ──。 【光の失われた未来と、忘却の箱庭】 ■オタク第一世代の私の一回り(12年)年少の、オタク第二世代・東浩紀(30歳)が『動物化するポストモダン』を著した。それによれば、現在10代から20代のオタク第三世代は更に進化している。それを彼は「動物化」という言葉で表す。 ■詳細は彼との対談に譲るが(『週刊読書人』11月29日号、www.miyadai.comにも掲載)、要は「あえて」ウンチク競争する、「あえて」戯れに身を任せるという「あえて」の側面が消えて、快楽原則に基づく端的な振舞いが支配的になることをいう。 ■例えば、ノベルゲームを中心にしてメディアミックス的に増殖している、エプロンを着けたメイドロボット・キャラの数々。アンミラ的制服を纏い、猫耳をつける。これらのキャラに性的に吸引されることをオタクは「萌える」と表現する。 ■「あえて」する諧謔も韜晦もない。いつでも言うことを聞き、コミュニケーション・ケアも必要ないラクな性的対象があるだけだ。猫耳、メイド服…といった「萌え要素」のデータベースに向けて条件づけられた、迷いからもリグレットからも自由な、幸せな動物がいるだけだという。 ■だとすれば、かくも抑鬱から自由になった第三世代のオタクから、コストのかかる表現活動に「あえて」乗り出す者が出て来るわけがない。享受者であることの快楽に身をまかせられるのなら、表現者であることの苦痛を、誰が引き受けよう。 ■かくしてラクな快楽へと向けた条件づけ的反復(を生むシステム)が支配的となる中、表出衝動を抱えた表現者は駆逐されていく。同じことが「モー娘。」的なものに塗りつぶされた2001年の音楽状況に見出せる。私たちの未来がこれなのか。 ■私にはこうした変化が戦後日本の暗喩(メタファー)だと感じられる。箱庭の中の幸せ。箱庭がどこにあって誰が支えているのかを忘却した戯れ。そのうち箱庭であることさえ忘れてしまった。こうした忘却と引き替えの快楽が、冒頭の惨状を生み出した。 ■日本人を骨抜きにして「忘却の箱庭」に閉じこめる──それがGHQの占領政策だった。それが成功して私たちは幸せになった。幸せが仇(あだ)になり、気がつくと未来の光が失われていた。たぶん私たちは、光が失われたことを見ないで済むように、更なる箱庭に閉じ籠ろうとするのだろう。 |