Texts
■ 『M2 我らの時代に』あとがき

■年長の世代に媚びた文章から始めたいと思う。かつて『野獣系で行こう!!』(朝日文庫)の単行本版後書きで、自分自身のことを抽象的な意味で〈左〉だと思うと述べた。暖かい共同体と一体化したがる類の脆弱な「左」でなく、解放的関心の強烈さゆえの、〈左〉だ。

■しかし、この対談集を読んだ方々には、逆の印象を強く与えるかもしれない。そう。実は抽象的な意味で、自分自身は〈右〉だもと思う。但し、崇高な精神共同体と一体化したがる類の脆弱な「右」ではなく、条理によって条理の限界を見極めるがゆえの、〈右〉だ。

■かつて、極左の廣松渉先生を師匠と崇めたあとに、極右の小室直樹先生に師事したことや、今でも極右や極左の友人が少なくないことも関係があるのかもしれないが、解放的関心の強烈な〈左〉と、条理によって条理の限界を見極める〈右〉は、論理的に両立可能だ。

■そのことは、リベラリストを標榜する私が、一定条件を満たす範囲内なら、暖かい共同体と一体化する自由や、崇高な精神共同体と一体化する自由を認めると言い続けてきたことに関係する(詳細は『自由な新世紀・不自由なあなた』メディアファクトリーを参照)

■分かりやすく言えば、「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」を選択しない自由を認めると言うことだ。それはウンマ(イスラム法共同体)に帰属する自由や、「縦の力」に貫かれて自己を滅却する自由であったりする。米国テロ以前から繰り返し述べてきたことだ。

■だが対談でも触れたが、一部の自称リベラリストは、ムスリムだというだけで、あるいは広く、マックバーガーを頬張りながらカウチでビデオを見るような「近代的生活」を好まないというだけでエイリアン視し、立場の入れ替え(包摂)の対象から見事に放逐する。

■自称コミュニタリアンとて同じこと。彼らがパトリオティズム(郷土愛)を言う際、ウンマに帰属する、場所に拘束されないネットワークを機軸とした、ムスリムの宗教共同体念頭を置いているか。むろん否。たかだか米国的・英国的伝統が参照されているだけだ。

■彼らは論理的にも現実的にも破綻している。そうした思想的破綻は一部の者には以前から見えていたはずだ。だが今回のテロ事件で、よほど鈍感でない限り、さほど思想史に詳しくない者にさえもそうした破綻が明白となった。思想淘汰の時代がやっと始まったのだ。

■私が自称〈左〉でありかつ自称〈右〉であることと、リベラリストを標榜していることとの間の相互関係は、どうなっているのかと、随所で尋ねられる。いい質問だ。その答えは本書の中にある。と同時にその答えは、思想淘汰の時代を生き残るための一つの選択だ。

■本書に言及されている通り、この期に及んでも、いまだに能天気な議論が横行し続けるマスコミであり、学会である。この文章の前半に述べた、巷を生きる生活者でさえおぼろ気ながら直観している問題が、むしろマスコミであり、学会だからこそ、隠蔽されている。

■そんな中、そうした問題について発言すると、一を聞いて十を知るがごとく反応して下さったのが宮崎哲弥氏だ。そういう直観が以前からあったので、拙著『野獣系で行こう!』で同世代の評論家たちをボロクソにけなしたのに、宮崎氏だけにはあえて言及しなかった。

■その直観はやはり間違っていなかった。その直観の由来は、氏の勉強量にある。それはご覧の通りである。連載対談は時間も紙幅も限られていたために単刀直入に誤解されやすい発言をする私を、時にはあやし、時にはいさめるようにして、破綻を回避して下さった。

■95年、氏は自分が構成するオウム特番に私を呼んだ。代々木公園での初対面は鮮明な記憶だ。氏は、私が大学院時代にマイナー学術誌に執筆した大量の論文を収録したファイルを、私に差し出し、信じられないことを言った。《すべて読ませていただいております》

■そして今回の対談は、氏による企画だ。ある法律に関わるロビー活動のあとで社会的問題に対する関心を急速に失いつつあった「鬱な私」を、奇特な氏は、社会的問題を論じ合う対談に引っ張り出した。氏には氏の意図があったのだろうが、私には生涯の恩人である。


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