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■ 「心の学問」に対する社会学的な疑問

■ここ数年、少年犯罪をめぐって一緒に仕事をしてきた藤井誠二氏の新著が出た。『人を殺してみたかった〜愛知県豊川市主婦殺人事件』(双葉社)だ。二〇〇〇年五月、少年バスジャック事件と相前後して世間を騷がせた少年事件を取材したルポルタージュである。

■一読して私は困惑した。藤井氏の迷いを感じたからだ。その困惑について、読了後ただちに藤井氏に伝えた。すると、その迷いは確かに本人のものであった。そこで氏の希望で、私が氏の迷いを突くという趣旨の座談会が開かれた(『ダ・ヴィンチ』二月号に掲載予定)

■要はこういうことだ。私は以前から、動機探索がうまく行かないと、病名探索に勤しむという、昨今の少年犯罪に対する「扱い」に疑義を呈してきた。その「扱い」は、マスコミのものであると同時に、心を扱う学問が一般に陷りがちな、巨大な落とし穴である。

■藤井氏はかねてより私の見解に賛同し、不可解な振舞いに病名をあてがって安心する類の「扱い」を徹底して拒絶。情緒を排した周辺取材を積み重ねて、読めば読むほど困惑が深まる類のルポを書いてきた(例えば『殺人を予告した少年の日記』ワニブックスなど)

■ところが、今回のルポでは、弁護側の精神鑑定結果に記されたアスペルガー症候群というカテゴリーに依拠し、アスペルガー症候群とは何かを明らかにするべく、英国の膨大な症例研究のデータベースを参照している。こうした著述方法には、二つの疑問がある。

■第一に、少年が本当にアスペルガーに該当するのかという疑問。少年は過去に周囲に対してコミュニケーションが困難だという印象を与えたことが一度もない。アスペルガー症例の全ては周囲がコミュニケーションの困難を感じている。だがこれはマイナーな疑問だ。

■第二に、もっと本質的な疑問がある。精神医学(をはじめとする心を扱う学問一般)に対する社会学的な疑問だ。精神医学の病理カテゴリーは元々自明ではない。例えばフーコーが述べるように、精神病というカテゴリーそれ自体が、近代社会の要求に従って誕生した。

■聖俗の二項対立を用いる共同体では、狂人にも狐憑きやシャーマンの役割(=聖)が与えられた。だが全てを通常性(=俗)の枠内で処理するようになった近代社会では、枠内に収まらない狂人は、まず犯罪者同様に隔離され、やがて治療対象と化したのである。

■それを踏まえると、都市化で濃密な共同体が崩壊するにつれて、分裂病の発生頻度が激減する一方、アスペルガーを含めて、行為障害、人格障害、ADHDといった比較的新しいカテゴリーが急浮上してきた背景には、少なくとも二つの問題が孕まれていると分かる。

■第一は、精神医療システムの自己都合という問題。分裂病が減れば、精神医療システムは自らの延命のために新しいカテゴリーを創出する必要に迫られる。要は、精神科医はお店屋さんなのだ。お店で売るものがなくなっては困るという、身も蓋もないが本当の話だ。

■第二に、重化学工業段階以降の社会変化が速すぎる結果、成員の実存的な自己維持可能性──ココロ的にまともに生きられること──との両立可能性が検証されていない社会システムが生成されている可能性である。今回とりわけ注目したいのが、この問題なのだ。

■ここに、ココロ的にうまく生きられない人がいるとしよう。心の学問やケアにたずさわる者は、ココロを何とかしようとする。精神科医に至っては、病理カテゴリー(のごときもの──前述した幾つかの新カテゴリー)を適用しようとする。だが、ちょっと待て!

■前述した心の学問の社会相対性に鑑みれば、実はここに隠された選択肢がある。社会をココロ的にうまく生きられないのは(1)心に問題があるからか、(2)社会に問題があるからか。心の学問に素朴にたずさわる者は、後者を覆い隠すことで、問題ある社会に加担するのだ。

■古厩智之監督『まぶだち』という映画に、学校化された社会をうまく生きられずに自殺する中学生が出て来る。自殺しなかったら彼はココロがおかしくなったかもしれない。映画を観た者の多くは、昔だったらこういう子も平気で生きられたのに、と感慨に耽る筈だ。

■三十年前のイリッチは、近代社会が「学校化」と「病院化」を並行させることを見出した。行為障害、アスペルガー、人格障害などのカテゴリーは現に、学校がうまく扱えない子供たちに、ラベルを貼って「病院化」する機能を、ここ二、三十年間、果たして来た。

■問題が複雑なのは、そういう子を持つ親の多くが──特に子が犯罪行為に加担した場合に──そうした「病院化」を望む事実だ。子供が悪かったのではなく、病気だったからだと安心できるからだ。社会学はかかる安心化機能を、「帰属処理」として問題化してきた。

■行為障害(英国)や人格障害(米国)のカテゴリーは元々、原因論は別にして、一定の判別基準(うまく生きられない度合)を満たす者に、一定の行政サービスを受ける権利義務を規定する目的で考案された。この初心に返り、相対性の感覚を取り戻すべきである。

■日本では行政サービスが不在なのに輸入カテゴリーが一人歩きし、帰属処理の安心化機能だけが肥大する。これらカテゴリーを病理云々から切り離し、行政サービスと結合すれば、サービスすべきか、そのサービスでいいのかが絶えず吟味可能になる点に注目したい。

■病気だから直すのでなく、「社会」に適応できないからサービスを施す。そういうフレームになれば、「社会」を絶えず俎上に昇らせられる。結論。社会学者の立場で言えば、精神医学は、精神衛生(と公衆衛生)に関わる行政セクターの下位部門とされるべきである。


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