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【米国同時テロ事件に見る「論壇」の腑抜け】 ■この文庫版あとがきを書く一ヶ月前、二〇〇一年九月一一日に、世界貿易センタービルとワシントンの国防総省に旅客機が突っ込む米国中枢同時テロ事件が起こった。この文章を書いている最中、マスコミは米国の報復攻撃と、炭疽菌騒動で持ちきりである。 ■この事件について私がどう捉えるのかは、この文庫版と同時期に、同じく朝日新聞社から出版される、宮崎哲弥氏との共著対談書『M2・われらの時代に』に詳しく述べられているが、この場では、日本の「論壇」なるものの機能不全を明らかにする範囲で触れよう。 ■テロが示すことは二つある。一つはハイテク社会のサステナビリティに赤信号が灯ったこと。例えば(1)頭がよく(2)ねばり強く(3)命を恐れぬ者が、自ら機長や原発職員になり、システム中枢にタッチできるようになってから暴走させれば、TMDもNMDも役立たない。 ■事件を戦争と同一視したり、複数の国家がテロを支援しているといった図式が米国政府から喧伝されるのは、今述べた本質的事実が惹起する不安を中和するために、事態を湾岸戦争と同一のフレームに回収できるように見せかける情報操作であると考えるべきである。 ■もう一つは「イスラム原理主義」という言葉の隠蔽的な機能を裏返すと見えてくる、テロの真の動機。いうまでもなく、この言葉、イラン革命に引き続くイラン・イラク戦争の際に、イランの宗教指導者ホメイニの立場を指すために、米国が敢えて創り出したものだ。 ■その意図は、近代史と米国中東政策史が生み出した政治的怨念を、宗教的狂信のパッケージで隠蔽することだ。近代の歴史と近代の現在が生んだ政治的怨念を中和できない限り、テロ動機はなくならず、先に述べたハイテク社会の脆弱さもあって近代社会に未来はない。 ■私はこうした問題を、事件翌日からラジオ番組やインターネットで配信されるニュース番組で強調してきた。しかしこうした論調が日本で出てきたのは、事件から三週間以上経って、米国メディアが類似の論潮を展開しはじめてからのことだ。しかも論調はひどく弱い。 ■米国は事件の被害当事国であり、事件自体が感情的反応を引き起こすものであった。メディアが一定期間、感情的表出の機能を担うのは仕方がない。しかしその米国ですら、しばらくすると、自らの国益のために、あえて感情的表出を中和しようとしはじめている。 ■日本は(1)非キリスト教圏で(2)原爆の怨念がありつつ(実際は忘却の彼方だが)(3)近代化を遂げたが故に、中東でリスペクトされてきた。であれば、米国の国益のためにすら、平時からサードポジションを確保、収拾局面でイニシアチブを取れるようにするべきなのだ。 ■こうしたことはテロ事件から24時間もあれば十分に考察可能だ。だがそうした考察は見られず、「識者」は、幼稚園児でも分かる程度のリアルポリティクスを語るか、湾岸貢献のトラウマゆえの自衛隊派遣の必要を語るか、十年一日の如く平和主義を語るかであった。 ■マトモさで目立つのは、自衛隊派遣を、違憲法改正論者である「が故に」違憲だと強調する小沢一郎ただ一人。現行憲法下で「何でもできる」のなら、保守派の唱える憲法改正論に根拠がなくなる。当たり前だが、民主党・鳩山党首の改憲論は一切の根拠を失った。 【靖国参拝問題に見る「論壇」の腑抜け】 ■こうしたことを記すのは、「論壇」死滅の印象をあえて際立たせるためだ。実際、他の問題を取り上げても、全く同じことが言える。例えば靖国参拝問題。論壇誌を全て読んだが、どうでもいいことばかりが繰り返され、誰一人として本質を掴むことができていない。 ■一宗教法人に過ぎない神社がA級戦犯を合祀するのは自由だし、政治家が戦没者を墓参するのは当たり前だし、神殿には神殿のルールがあるのだから政治家だろうが誰だろうが神式で参拝する必要があるし、憲法上、一宗教法人への参拝に税金を使えないのも当然だ。 ■極東国際軍事裁判が、統帥権独立下の文官をA級戦犯としたり、戦時合法行為を裁いたりと、明らかに不公正なものであることも論を待たない。そんな幼稚園児でも分かるようなことをいつまでゴチャゴチャ論じているのだろうか。問題はそんなところには一切ない。 ■問題は、裁判が公正であろうがなかろうが、講和条約に調印して裁判結果の受諾を当事諸国に約束した以上、戦犯が合祀された墓地を「一国の首相や大統領が」参拝する行為は、その意図がどのようなものであれ、講和体制への挑戦という意味を必然的に帯びることだ。(講和体制は、戦犯以外責任を問われなかったこと、天皇が処刑されなかったことを含む) ■挑戦してもいいじゃないか、などと言うな。講和体制下での当事諸国や周辺諸国の協力や援助があって初めて、敗戦国の戦後復興がありうる。またその豊かな成果を私たちは既に存分に享受してしまった。講和体制のウマイ汁を散々吸っておいて、今さら何を言うか。 ■その意味で、講和体制への挑戦は、当事諸国や周辺諸国(例えば72年の日中共同声明で戦時賠償放棄を決めた中国)への信義違反であるがゆえに外交的国益を揺るがすのみならず、敗戦国にとって戦後史がどういうものかという自意識における腑抜けぶりを象徴する。 ■だから、講和条約に調印した敗戦国の首相や大統領が、戦犯の合祀された墓地に参ずることは、たとえ他国が許しても、自国の愛国者は絶対に許してはならない。自国の国益を計算できない者も、自国の甘えや腑抜けを座して見過ごす者も、愛国者の風上に置けない。 ■小泉首相の靖国参拝が問題になりはじめた当初から、私はラジオなどでこうした発言を繰り返した。後に、似た趣旨の発言を「朝まで生テレビ」に出ていた姜尚中氏から聴くことができたが、それ以外は、当然の常識を踏まえたこうした議論を一切耳にできなかった。 【若き学徒よ、〈教養人〉たれ】 ■これが日本の「論壇」だ。ということは、今の日本に事実上論壇はない。文庫版の元になった本の表紙には「非論壇的情報戦の記録」というシールが貼ってあったが、そのように言うぐらいだから、当時の私はまだ論壇はあると思っていたフシがある。今は全く違う。 ■もちろん今でも、レベルは低いものの「論壇誌」はある。だが、頁を繰ると、経済学の(多くは一流でない)専門家が経済について語り、政治学の(多くは一流でない)専門家が政治について語っているだけ。残念だが、そういう「論壇誌」は論壇ではない。なぜか。 ■補助線を引こう。しばしば読者から「宮台さんは何でもやってるんですね」と感心される。確かに私の著書を見ると、政治権力の本、宗教の本、性愛の本、教育の本、少年犯罪の本、映画や漫画の本…といった具合に、取り扱う対象という点では千差万別だろう。 ■しかし、そのように言う読者に私は、「一つのことしかやっていませんよ。要はシステム理論的な思考です」と言うことにしている。私がいいたいのは、思考の対象はいろいろでも、思考の方法──難しく言うと問題設定──は単一だということである。 ■日本人の大半が誤解しているが、学問の同一性は、対象にはない。お金の問題を扱うから経済学、法を扱うから法学、心を扱うから心理学…という具合に考えてはならない。現に、お金の問題も、法の問題も、心の問題も、社会学的な問題設定において扱えるのだ。 ■逆に、法の問題や、心の問題を、経済学的に扱うことができる。心の問題やお金の問題を、法学的に扱うことができる。法の問題やお金の問題を、心理学的に扱うことができる。思考が、法学的か心理学的か経済学的か社会学的かは、対象ではなく、問題設定で決まる。 ■では社会学の伝統的な問題設定とは何か。答えは、“対象の如何にかかわらず、それを社会的前提によって支えられた一つの秩序と見なしたうえ、社会的前提──分かりやすく言えばコミュニケーションにおいて当てにされるもの──を遡及する”というフレームだ。 ■むろんこれだけでは判じ物だが、詳細に別著に譲るとして、この場で必要なことだけを述べる。なぜ、今の日本に論壇はないか。答えは、問題設定の一貫性を欠いているからだ。だから、論者の大半が対象に拘束され、経済学者が経済についてしか語れない結果になる。 ■いや経済学者が経済について語る場合にすら問題設定が一貫していない。だから竹中平蔵に典型を見るように言うことがコロコロ変わる。ちなみに経済学にも社会学にもさらにその内部に下位的な問題設定がある。学問をするとは、問題設定に忠実に思考することだ。 ■経済学者であれば“対象の如何にかかわらず”経済学的に語れなければならない。社会学者とて心理学者とて同じこと。ところが日本の「論壇人」は、自らの専門領域について語る場合にすら、問題設定の輪郭が曖昧で、素人の床屋談義と何ら選ぶところがないのだ。 ■私の考えによれば、徹底的に学問を学んだ専門家が、一般的に専門領域(対象!)だと考えられている範囲を超えて、同一の学問的方法を適用して思考する場合に、初めて論壇的に振る舞っていることになる。その点が、学会内部での振る舞いと区別されるところだ。 ■その意味では、私は「非論壇的情報戦」を戦っているのではない。確かに、場所的には「論壇誌」を舞台にしていないという意味で、いわゆる「論壇的」ではないだろう。だが今述べたような意味では、私自身の振る舞いは極めて論壇的ではないかと今は思っている。 ■そうした自己認識は、文庫化に際して全体を読み直してみたときに、明瞭になってきた。そうした認識が単なる手前味噌か否かは、読者にまかせるしかない。その評価がどうあれ、日本に論壇が存在しないことが、私を論壇的振る舞いへと動機づけていることは、確かだ。 ■私の本の読者には若い学徒が多いことを知っている。とりわけそういう方々に述べておきたい。(対象次元で)何についても語れるようになるためには、学問的な問題設定を徹底的に極めなければならない。社会学であれ、心理学であれ、経済学であれ、同じことだ。 ■学問的な問題設定を徹底的に極めた者が、事実上存在する学会的な対象領域を越えて、その都度与えられる極めて多様な諸問題について思考できるようになる。そのとき初めて、〈教養人〉と呼びうる存在になる。その意味で〈教養人〉だけが論壇人たりうるのである。 ■もちろん、別に論壇人になる必要はない。しかし、今述べたような意味での〈教養人〉──単なる何でも屋とは区別された学問的教養人──の数が増えるほど、社会の民度は上がり、そのことがありとあらゆる面で公益に資することを、改めて確認しておきたい。 |