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■いま、日本で最も読まれるべき本が出版された。憲法学を専攻し、サイバー法の第一人者でもあるローレンス・レッシグ『コード──インターネットの合法・違法・プライバシー』だ。 ■要点は二つ。第一にインターネットの反権力幻想の粉砕。分散型ネットワークであることで、集権的な統治権力の統制に抗して自由をもたらすとの幻想は、もう有効ではない。民間の認証テクノロジーの普及が匿名性を原理的に除去可能にしたからだ。 ■第二に、自由を擁護するべく統治権力の強制を提唱すること。インターネット上の不自由──例えば匿名性の完全除去──に抗するべく、憲法的原則に基づき、統治権力がネット上に一定割合の匿名性が残存するように法的な強制を行うべきだという。 ■ちまたの書評を見ると、本書はインターネットやITに関する本と見なされ、書店でもコンピューター関連の棚に分類される。誤りだ。この本は、高度技術社会における支配(ガバナンス)をリベラリズムの観点からどう評価するかを述べたものだ。 ■拙著『自由な新世紀・不自由なあなた』で私は、昨今の立法に対する反対活動が稚拙であることを問題にした。盗聴法、少年法重罰化、有害メディア規制、個人情報保護法などの諸法は、尤もらしい大義名分のせいで、国民世論の6〜8割が賛成する。 ■ゆえに絶対反対を唱えても法律は通る。それならむしろ条件付き反対=条件付き賛成の立場で法案を逐条的に検討した上、密かに擁護され、また作り出されようとしている権益を探り、法案の改訂を迫ったほうがいい。ところがここに大問題がある。 ■霞ヶ関の役人たちは、いわば秘術伝授の形で、テニオハや句読点をどう変えると、どんな利権の移動が生じるかを徹底して学び、十年以上学んでから法律案を書く。これを見抜く力のある者が、官僚世界の外側にいて、市民的に活動しない限り、私の述べたチェックは実現しない。 ■米国では、優秀な政策シンクタンク、政策秘書、NPOなどが、こうした役割を果たす。背後には大学院レベルの豊かな政策科学教育と、それによって輩出される人材の分厚さがある。官僚世界の外側にあって官僚と同等の法律文書リテラシーを持つ者たちがいるということだ。 ■これら事実を踏まえるなら、『コード』は、官僚世界の外側にいる者たちに対し、容易には見通しがたいガバナンスの、多様な機能的側面への注意を促す本だと分かる。その上で、ガバナンスの見通しがたさが、IT化によって急速に増大することに、警鐘を鳴らすのである。 ■具体的に踏み込もう。レッシグによると、社会統制には4つのやり方がある。1.威嚇的命令、2.市場、3.規範、4.アーキテクチャー。厳罰化すれば統制できる(=1)。市場価格の上げ下げでも統制できる(=2)。学校教育でも統制できる(=3)。 ■問題は4だ。これはシステムの設計のことだが、設計次第で人々の行動を変えられる。ネットを匿名性が確保されるように設計するか否かで人々の行動様式が激変するのは、出会い系サイト絡みの事件を見ても分かる。だがこれはネットに限られない。 ■実は私自身も、社会学の伝統が、1威嚇的命令、2市場、3規範に比べると、4アーキテクチャーによる支配に鈍感であることに警鐘を鳴らしてきた。このタイプの支配は統治権力よりむしろ商業領域で膨大なノウハウの蓄積が進んでいる。例えばコーヒーショップの椅子の堅さ。 ■椅子の堅さ次第で客の回転率を操縦できる。同様に駅前再開発をすると、空間の匿名性上昇を通じて、援助交際を増やせる。威嚇的命令による支配には、被支配者の不自由感が伴うが、2市場<3規範<4アーキテクチャーの順で不自由感は減る。 ■そのため、被支配者が自己決定しているつもりで、支配者から見ると意図通りの支配が実現する。分かりやすく言えば、自ら喜んで支配に服する。これに抗するのは大変だ。自分は自由だと思っているので、対抗する動機づけが存在しないからだ。 ■だからこそこうした事態には憲法的立場から統治権力が強制介入する必要があるとのレッシグの逆説的結論が導かれる。むろん憲法とは市民と統治権力の社会契約だ。是非は別に私たちは、まず問題に気づくこと、次に憲法とは、統治権力とは何かを見直すことを要求されている。 |