傑作『国道20号線』を送り出した富田克也監督の度肝を抜く最高傑作『サウダーヂ』
「自意識に由来する痛さ」ゆえの酩酊から「社会構造に由来する痛さ」ゆえの酩酊へ
〜〜『サウダーヂ』の映像体験が与える眩暈的な酩酊が意味するものを考察する〜〜
■外国を旅してきたような印象が残った。とはいえ僕にはアメリカと中国・台湾と東南アジアの旅行経験しかない。息が詰まりそうな濃密な経験をしながら帰国して少し経つとアレはいったい何だったんだろうという感じになる。この映画を観て暫く経つと、東京で生活している僕には、不謹慎ながら、まるで異国の映画だったように思い出されてしまうのだ。
■ラーメン屋で二人の男が向き合う冒頭シーンを観て、まさかこんな映画体験を与えられるとは想像しない。この落差体験は重要だ。富田克也監督&相沢虎之助脚本のコンビ独特の表現スタイルに関係する。(1)あえて軽く描こうとしているにもかかわらず、(2)日常の中に次第に狂ったものが浮かび上がるという『国道20号線』でお馴染みのスタイルだ。
■この二つは密接に関連しよう。『国道20号線』も同様だが、彼らの作品は徹底した取材を経て社会を描く。しかし社会批判を突きつけているのではない。人間模様の喜怒哀楽に巻き込もうとしているのでもない。社会の中で苦しむ者が〈世界〉に意識を飛ばすロマンを描くのでもない。映像的な表層と戯れるのでもない。それでは何をしているのだろう。
■彼らの作品を観た後、これら彼らにしか描けないのだといつも思う。ここまで綿密に取材して、僕らの生きる社会の現実はこんな具合ではないかと気づかせる。同時に、ここにはドキュメンタリーとは異なる、虚構の肌触りがある。社会の中に現にあり得る断片的な素材を、選別、配置することで立ち上がる、観念的リアリティー--いわば世界観--がある。
■あえて言えば、「客観的」で綿密な社会観察と、それをベースにした「主観的」で強力な世界観の、組み合わせ。「僕たちよりも社会を知る者たちの世界観だ」と身を委ねることができる。そこに立ち上がる世界観があまりにも強力で濃密であるがゆえに、映画館を出てしばらくすると、どこか別の国を描いた映画みたいに感じられる。褒め言葉である。
〜〜〜
■1985年から1996年まで、断続的に、北海道から沖縄まで売買春のフィールドワークをした。当初はそのつもりではなかったが、やがてリサーチの重要な目標が、それぞれの街の感覚地理から見えてくる「日本の現在」にシフトした。きっかけは幾つかあった。一つは、80年代後半の駅前再開発の動き。もう一つは、バブル崩壊以降の駅前商店街の崩壊。
■前者は東京近郊や大阪近郊。後者は地方都市。両方とも売買春を爆発的に加速させた。再開発された郊外の駅前は、車でピックアップするためのテレクラ売買春の待ち合わせ場所に変わった。バブル崩壊以降、寂れた工業団地を抱えた地方都市では、コンビニやフェミレスの駐車場を待ち合わせとする売買春が、以前の何倍にも増えた。
■2008年自殺実態白書を、製作に携わった自殺対策支援センター「ライフリンク」代表の清水康之氏が、発表前のゲラの段階で僕に見せてくれた。一読して驚いた。独身男性の自殺が多いのは工場城下町。独身女性の自殺が多いのは大都市近郊圏。どららも売買春のメッカだった場所。上位地域の名称を見てフィールドワークの記憶がまざまざ蘇った。
■例えば思い出したのは1994年の青森市の風景。近くに工業団地があるが、1991年の平成不況以降、徹底的に寂れた。西武流通グループが大規模店舗を出店するという計画で、駅前の旧商店街が取り壊されて更地になったが、出店計画の取り止めで、だだっぴろい空き地と駐車場が拡がっていた。別の商店街でもシャッター化したところが目立った。
■その青森駅周辺はといえば、テレクラが10軒以上立地し、昼日中から中高生の売春コールが引きも切らなかった。もちろんOLや主婦の売春コールもあったが、東京や大阪と違って、どれも「実勢価格」はイチゴつまり一万五千円で横並びだった。このあたりの詳しい事情は1997年に上梓した『まぼろしの郊外』に詳しく紹介したとおりである。
■同じ頃、東京近郊の町田では、再開発で、遠くにあった国鉄原町田駅が小田急町田駅の近くに統合されたが、駅周辺では女子中学生5万円、女子高生4万円、女子大生3万円、主婦2万円の実勢価格で売買春が展開していた。横浜線の南側つまり神奈川県側にラブホが集中するが、東京都にないテレクラ条例があってヤバイなどと言われていた。
■エロ本にネタを提供する仕事をしていたこともあって、たくさんの少女たちの話を聞いた。貧乏か金持ちかという話よりも印象的だったのは、青森でも町田でも、家族や地域が空洞化している実態だった。青森でも町田でも、大豪邸に住む土建屋社長の「育ちのいい」令嬢らが、完全に空洞化した家族や地域を背景に、バンバン売春に乗り出していた。
■だが今との決定的違いがある。青森でも町田でも、少女たちは、ときには「にいさん、いい人だね」などと世辞を言いながら、ときには嗚咽しつつ、とめどなく話をしてくれた。彼女たちには、度重なる期待外れにもかかわらず維持されている願望水準があった。砂を噛むような事実性に打ちひしがれながらも、「ここではないどこか」を望んでいた。
■それが決定的に変わってしまうのが1996年頃のことなのだが、富田監督と相沢脚本のコンビによる前作『国道20号線』は2008年の映画でありながら、1996年頃までの地方都市(舞台の甲府も地方都市)や、東京・大阪の郊外(甲府は東京郊外の外延でもある)で、僕が長く呼吸してきた空気と同じ匂いを放つ。そのことを富田・相沢コンビにも伝えた。
■「これは十余年前の空気ですね」というのは僕の褒め言葉である。それが契機の一つになったのかどうか知らないが、「今」ないし「今から十年先」の空気を描いた作品が新たに登場した。それが『サウダーヂ』。これは、学者たちも政治家たちも中央行政も、まだまともな認識さえ持っていない長期在留の外国人たちが大勢居住する地方都市の話だ。
〜〜〜
■日本はおかしな国だ。現に起こっていることを起こっていないかのように偽装する。日本の農業も工業も外国人労働者の手を借りずには回らなくなっている。なのにそのことを公式に認める制度を作らずに「裏口」から外国人労働力を利用する。そうすることで、既に多数存在する外国人労働者に対する社会政策や教育政策の義務を放棄するのである。
■日本は、大卒以上もしくは実務経験十年以上の外国人労働者を「専門的な技術や技能、知識を必要とする業務に就労する者」と認めて受け入れ、「いわゆる単純労働者」を排除することになっている。だが外国人の「いわゆる単純労働者」なくして、既に日本は回らない。そこで、さまざまな制度を用いた「ペテン」がまかり通っている。それが現状だ。
■法務大臣が永住許可を与えた外国人を一般永住者という。(1)犯罪歴がなく、(2)生計を営める技能や資産がある、(3)十年以上在留した外国人に、資格が与えられる。昨年時点で、一般永住者に占める割合が一番高いのが中国人で、30%、約17万人。続いてブラジル人、21%、約12万人だ。彼らは制度の「ペテン」によって長く在留した人たちだ。
■「ペテン」の主体は日本政府だ。中国人の場合は技能研修という「ペテン」。表向きは途上国から来た人に技能研修を施し、本国で技能を活用してもらうという話だ。実際には低賃金労働者を外国から入れる方便に過ぎない。研修だけで労働をしない建前なので、労働基準法が適用されないから妥当な賃金を払う必要がなく、僅かな手当だけ渡される。
■中国人研修生は、三年間研修を受ける旨の誓約書を書かされ、多額の保証金を払う。誓約に反すれば保証金は没収だ。企業は優越的地位を利用してやりたい放題。研修生を受け入れたパスポート取上げ、強制貯金、時間外労働、権利主張に対する強制帰国、強制帰国を脅しに使った性行為強要が横行する。時給300円以下が当たり前の世界。
■研修生を受け入れるのは、日本人労働者を確保できなかったり、中国などの外国製品との価格競争にさらされている中小企業と農家だ。国際貢献でなく、低賃金労働力のために本制度を利用する。甲府でも、当初は養豚業から、昨今では農業労働のあらゆる分野と過程に中国人研修生が入り込んでいる。しかし制度は殆ど改善されないままだ。
〜〜〜
■ブラジル人の場合は日系人という「ペテン」。1989年に入管法が改正され、日系三世とその扶養者は全員、無条件で定住ビザを貰えるようになった。日系三世「の家族」も含めて日系人は定住してOKという訳だ。外国からの「いわゆる単純労働者」を受け入れないという方針を変えずに、日本人よりはるかに低賃金で働く労働力を調達する方便である。
■ブラジルでは、裏口が開放された改正入管法を前提にして、日本企業に雇われた日本人やブラジル人のブローカーが、「日本に来るとこんなに高給で、日本はこんなに暮らしやすい場所だ」と口八丁手八丁で日系三世「の家族」を勧誘し、来日させた。かくして、日本語を解さないポルトガル語コミュニティが、工業団地や周辺に分布するようになった。
■親についてきた子供については、文科省は「外国人の子供は義務教育の対象ではない」とし、国として教育の責任を負わない。ポルトガル語しかできない子供は小中学校に入れない。親はともかく子供たちの交わりを通じて移民コミュニティが現地社会に馴染むのがどこでも定番だが、日本政府は日本人の子供と日系人「家族」の子供を分離する。
■こうした分離のせいで、地域に大勢のブラジル人やその子供たちが居住するのに、日本人と交わらずに集住しがちになる。そのため、近隣社会のルール(ゴミ出し等)をめぐる混乱が絶えず、犯罪などをめぐって濡れ衣を着せ合う疑心暗鬼が蔓延する。だがこうした状況でも長く定住する者はおり、一般永住者に占める高割合となって現れている。
■ところが、一般永住者の資格をとっても問題は消えない。特別永住者(在日コリアン系)と違い一般永住者(中国系・ブラジル系ほか)の場合、生活保護や社会福祉の受給権があるのに、窓口で追い払われるケースが過半数なのだ。だから、一般永住者の資格があっても子供を小学校に通わせられないケースが、大量に発生している。これはマズい。
■なぜか。どんな先進国でも、エスニックリソースを専ら頼る移民一世と違い、言葉も喋れ、移民先の国民とも関係性を築いた移民二世と三世が、「国籍を与えろ、一般国民と同等に扱え」と言い出すことで、やっと社会的差別や政治的差別の解消に向けた大きな一歩が記されるからだ。フランスでも英国でもそうだった。このルートが遮断されてしまう。
■これがマズいのは、移民と非移民の分断が代替わりを経ても消えず、情報の非対称性や不完全性のせいで、ゆえなき差別が生じたり社会的・政治的な軋轢が生じるからだ。どのみち長期滞在の外国人労働者を受け入れるしかない以上、このことは社会統合上も治安政策上も大きなコストになる。こうしたコストを払う余力は日本社会にもはやない。
■昔の地域社会を知る者たちの感情的違和感が分からぬ訳ではない。だが、国民や政治家に必要なのは、長期滞在の外国人労働者を頼る以外に生産人口の減少に対処する方法がない以上、10年後にどうなるかを考えて、バックキャスティング的に(=未来から振り返って)今を思考するガバナンス視座に馴染んで、感情の問題はカッコに括ることだ。
■永住者参政権の是非が議論になるが、法的な行政的受給権を侵害された一般永住者については、参政権を与えると却って社会的分断が無用な対立を増進する可能性が高い。(1)永住権取得の容易化→(2)受給権行使の可能化→(3)日本社会とのコネクティビティ増進→(4)自明性の変更と反外国人感情の緩和と→(5)参政権授与、の順序が大切だ。
〜〜〜
■本作の意味を理解するには今述べた知識が不可欠だ。知識がないと本作キャッチコピーが「土方・移民・ヒップホップ」である理由も理解できない。第一項は土方=日本人。第二項は移民=ブラジル人。第三項のヒップホップは、ブラジル人ラッパーと日本人ラッパー、つまり本来ならある程度の統合が進むはずの移民三世と日本人の関係を指す。
■土方サイドには、三十代後半の土方男とその同僚、そしてセレブ志向の妻が配置される。移民サイドには、ブラジル人の夫とフィリピン人の妻と二人の子供からなる家族や、タイ人のホステスが配置される。ヒップホップサイドには、国粋的な日本人ラッパーたち、日系三世のブラジル人ラッパーたちが配置される。全体としてマルチスレッド的だ。
■その上、この三項区分とは必ずしも重ならないディスコミュニケーションが描かれる。(1)タイ人ホステスとのタイへの駆け落ちを夢見る土方男のリアリティーから見た、セレブ志向の妻が繰り出す励まし言葉の空虚。(2)タイ人ホステスから見た、彼女との駆け落ちを夢見る土方男の誘い言葉の空虚。「空虚だと批判する側が宿す、別の空虚」のモチーフ!
■加えて、(3)ブラジル人ラッパーの『シティ・オブ・ゴッド』的なリアルさから見た、日本人ラッパーの国粋的な歌詞や言葉の空虚。(4)国粋的な日本人ラッパーから見た、「人類みな兄弟」的なコスモポリタン気取りの元恋人の言葉の空虚。つまり、先ほどとは逆向きに「空虚だと批判される側が感じる、別の空虚」のモチーフ! 実に周到な構造がある。
■空虚だと批判する者自身が空虚であり、空虚だと批判される者自身が空虚を感じる。かかる「再帰性の泥沼」は、本作の世界観に重要な彩りを与える。つまり「空虚批判を正当化する充溢、あるいは空虚からの出口を指し示す充溢は、この世界のどこにも存在しない」という呟きに当たる。このことは先の基本知識との兼合いでアイロニーを構成する。
■政治学的ないし社会学的に見れば、「日本の移民政策には明白な失敗があり、政策的成功に向けたステップを明白に描ける」というモダン次元がある。それとは別に「その政策的失敗が作り出した『この社会』を生きる者たちは、空虚をめぐる『再帰性の泥沼』からの出口がどこにも見つからない」というポストモダン次元がある。この二重性が肝心だ。
■二重性が持つ意味自体が両義的だからだ。本作では「再帰性の泥沼」が重要なドラマツルギーを与えるが、統治権力の政策的失敗こそが「再帰性の泥沼」というリソースを与えてくれている。だが、このドラマツルギーが与える、ギリシア悲劇的な意味での悲劇の印象が、統治権力の政策的失敗に目を向ける契機を与えてくれる。ここに循環がある。
■こうしたウロボロスの蛇の如き両義性ゆえに、政策的空間が与えるモダン次元と物語的空間が与えるポストモダン次元とが形作る全体としての意味論的空間は、明確にポストモダン的なものになる。こうして作品に内蔵される情報に引き金を引かれる形で、我々の享受形式を制約する社会的文脈の過剰な複雑性に由来する情報が、我々を圧倒する。
■僕は、長期滞在の外国人労働者や一般永住者にまつわる問題を先に紹介した基礎的な範囲でしか知らないが、それを思い出しながら、本作を満たす「その言葉は空虚だ」という言葉の相互言及のネットワークに触れているうちに、尺でいうと4分の3ほどに至ると、あまりの複雑性に眩暈を覚え始めた。ところが本作の演出的な圧巻はそこからだ。
■必ずしも関連がはっきりしないマルチスレッド間のカットバックが、それまでよりも遥かに速いリズムで目まぐるしくなる。そして、土方の男と、同僚のタイ帰りの男が、水パイプでマリファナを吸引するシーン以降、『国道20号線』の後半4分の1がそうであったように、音響も映像表現も、虚とも実ともつかない眩暈的に浮遊した次元へと突入する。
■この浮遊した次元で、国粋的日本人ラッパーが、ブラジル人ラッパーをナイフで突き刺す。だが、何もかもが眩暈的に浮遊している中で、少しも重大なことが起こったように感じない。ことほどさように、余りにも重い複雑性が描かれていたはずなのに、「考えてみれば何もかもがどうでも良かったんじゃないか」と“ねこぢる的”な転換が図られるのだ。
■この辺りの表現は、眩暈的な浮遊が与える快楽という意味で、娯楽性が非常に高く、外国人労働者問題や一般永住者問題に知識がない者にも楽しめるようになっている。だが外国人労働者問題や一般永住者問題の重大さを知る者にとっては、もはや眩暈的な浮遊の中に全てを包み込む以外に生きる術はないのだ、というメッセージとして聴こえよう。
■随所でタマ(MDMA)という言葉が出てくる意味も、そこでやっと明らかになる。ラスト近くではタイ帰りの男が違法薬物がらみでパクられたという話を土方が伝え聞くが、その頃には観客も土方と一緒に「酩酊せずにはやっていられない」という感覚を共有している。自意識に由来するイタさゆえの酩酊から、社会構造に由来するイタさゆえの酩酊へ。
関連記事: 傑作 『国道20号線』を送り出した富田克也監督の度肝を抜く最高傑作『サウダーヂ』