連載第二二回:政治システムとは何か(上)
■社会学の基礎概念を紹介する連載の第二二回です。過去二回は「法システムとは何か」を紹介しました。まず、法定義史を振り返り、法を主権者による威嚇的命令だと捉える法実証主義と、法を慣習の延長線上で捉える自然法思想の、二つの主要伝統を一瞥しました。
■ところが、法実証主義=主権者命令説では「法内容の恣意性」を克服できず、自然法思想=慣習説では「近代実定法の法変更可能性」を記述できない、という対称的な欠点があります。これら欠点の克服を目指したのが、H・L・A・ハートの画期的な法理論でした。
■ハート理論によれば、法現象は、「社会成員が互いに責務を課し合うという言語ゲーム」を支配する一次ルールと、「一次ルールが孕む問題(不確定性・静的性質・非効率性)に対処するための承認・変更・裁定の各言語ゲーム」を支配する二次ルールとの、結合です。
■ところがハート理論は、英国法的伝統のバイアスゆえに、憲法を含めた全法の法変更可能性を持続的に体験させる実定法的法段階を、専門の裁定者が出てきたとはいえ「既に存在する法を発見する」との擬性から抜け出せない高文化的法段階から区別できていません。
■この問題を補完しようとしたのがルーマンの法理論です。それによれば原初的法段階が法的決定手続を分出していないのに対し、高文化的法段階は法的決定手続が法適用(裁定)に限定される段階、実定法的法段階はそれが法形成(立法)にまで拡張される段階です。
■ところがルーマン理論では、原初的法段階までの法定義と、高文化的法段階以降の法定義を一貫できていません。原初的法の段階では「予期の整合的一般化」として定義されていた法ですが、高文化的法の段階以降は幾つかの理由でこの定義を維持できないからです。
■そこで宮台理論では、法システムを、(1)公的に承認可能な(=任意の社会成員が受容すると予期可能な)仕方で(2)手打ち(=死滅するまで闘わずに決定に従うこと)をするために必要な(3)決定の非特定人称性をもたらす、コミュニケーションの機能的装置だとします。
■決定の非特定人称性には、決定に表明された予期の選択性を、任意社会成員に帰属できる「汎人称性」と、予期の選択性を、どの社会成員にも帰属できない「奪人称性」がありますが、特定人称的決定と違って、いずれも決定を特殊利害から隔離する機能を持ちます。
■自明性が支配する単純な原初的社会では、決定の汎人称性が容易に調達されるがゆえに手続の分出は要りません。汎人称性の調達が不可能になる複雑な高文化社会以降、分出された法的決定手続を巡る凡ゆる擬制は、決定の奪人称性を担保する機能的装置になります。
■例えば、近代社会では、法変更(立法)の意思決定は、投票(選挙)に支えられた代議制下での、投票による議決(多数決)がもたらします。選挙にせよ多数決にせよ、投票による決定手続は、事前の不確定性ゆえに、決定を奪人称化する機能を持つことになります。
【集合的決定における拘束〜権力と正統性〜】
■今回は「政治システムとは何か」です。結論的には今述べたことの中に既に政治システムの機能への言及があります。即ち、政治システムとは、社会成員全体を拘束する決定──集合的決定という──を供給するような、コミュニケーションの機能的装置の総体です。
■例えば「法変更のための法」に従って新たな法的決定前提をもたらす投票による議決(多数決)は、集合的決定です。のみならず、変更の不作為(あえて変更しないこと)による旧来の法的決定前提の維持もまた、集合的決定です。これらは政治システムの産出物です。
■以上のように近代の社会システムでは、法システムは政治システムに、決定の正統性の供給によって、集合的決定をもたらします。政治システムは法システムに、集合的決定によって、法システム外の環境の学習を通じた法的決定前提の正統的な変更をもたらします。
■実は政治的なものを「社会成員全体を拘束する決定(集合的決定)」によって定義したのは、お馴染みのパーソンズです。しかし問題は、拘束概念の中身にあります。そこでいう拘束とはいったい何なのでしょう。人々はどんなふうに拘束されるというのでしょうか。
■ここにウェーバー的な伝統が流れ込んでいます。実は今しがた「正統性」という言葉を使いました。結論的に概括すれば、人々は、第一に「権力」を通じて、第二に「正統性」を通じて、拘束されています。そのことを最初に明示したのがマックス・ウェーバーです。
■社会学の思考伝統では権力定義に二系列あります。第一は、相手の抵抗を排して意思貫徹する能力によって定義するウェーバー的伝統。第二は、資源動員能力によって定義するパーソンズ的伝統。前者は二者関係的、後者はシステム関係的で、準拠枠組が違います。
■更に、パーソンズ的権力(資源動員能力)への認知的予期が、ウェーバー的権力(意思貫徹能力)の源泉になり、ウェーバー的権力の社会的配置が、パーソンズ的権力の源泉になります。前述の政治定義史的には、ウェーバー的権力概念の方が、はるかに重要です。
■なぜなら、第一に、集合的決定の社会成員に対する拘束のあり方を把握するには、相手の抵抗を排し得る理由を問えるウェーバー的権力概念の方が好都合です。第二に、パーソンズ的権力概念は、ウェーバー的権力に加えて権威や影響力を包括するものだからです。
■この第二点を補足するなら、決定の社会成員全体への拘束をもたらす機能連関を把握するには、権力/権威/影響力/権限/権力源泉/正統性/正当性…といった伝統的諸概念の相互関係を理解する必要があり、それにはウェーバー的権力概念の方が好都合なのです。
■このことに着目してウェーバー的権力概念を洗練したのが、宮台の「権力の予期理論」です。宮台理論を概括すれば、選好構造と予期構造の組に由来する回避選択へと向けた圧力の体験が存在するとき、この圧力を体験する者を服従者とする権力が存在するとします。
■因みに権力をウェーバー的に把握したとして、正統性とは何でしょう。正統性とはウェ
ーバーを踏まえるなら「決定への自発的服従契機の存在」です。ウェーバーは「カリスマがあるから/伝統だから/合法手続だから、従う」という正統性の三類型を挙げています。
【「権力の予期理論」の権力規定】
■今回は、ウェーバー的権力概念の伝統に従い、前述した各種の近接概念の種差と関係を明らかにするべく、宮台理論の概略を紹介します。次回は、それらを踏まえて、正統性概念を説明し、権力と正統性の組がもたらす社会成員への「拘束」の実態を明らかにします。
■まず「選好構造」とはどんな社会状態が良いかの順位。「予期構造」とは自分の行為が引き出す相手の行為(が招く社会状態)への予期の組。「相手が都合よく行為してくれた場合」に実現する最も望ましい社会状態を「理想的状態」と呼び、「現実に予期される相手の行為を勘案した場合」に実現する最も望ましい社会状態を「次善的状態」と呼びます。
■ある人が自分の行為が引き出す相手の行為(が招く社会状態)を予期し、理想的状態(を招く筈の行為)を断念して次善的状態(を招く相手の行為を引き出す行為)に甘んじる場合、権力を体験しています。理想的状態を断念するのは、それを招く筈の行為が引き出す相手の行為が、次善的状態より悪い社会状態(回避的状態)を招くのを回避するためです。
■数理社会学的一般定義は拙著『権力の予期理論』(勁草書房)に譲り、2×2の1回交番ゲーム的状況へと単純化します。生徒iには[勉強する/遊ぶ]の選択肢群、教師jには[及第させる/落第させる]の選択肢群があり、生徒iが選択した後に教師jが選択するのだとします。先に文章で示した生徒iの権力の体験は、以下のように図式化できます。
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> 拙著『権力の予期理論』(勁草書房)の図【18】(20頁)
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なお、>i は「iの選好」、>ji は「jの行為へのiの予期」を表す。
また、yは理想的状態、xは次善的状態、wは回避的状態に当たる。
iの予期構造(予期の組)が正しければjの行為を通じてxが実現する。
■回避的状態wを避けるために次善的状態xに甘んじる選択を「回避選択」と言います。こうした形で権力を体験して回避選択する者を「服従者」と呼びます。服従者の視界に現れる、理想的状態の選択を妨害して次善的状態に甘んじさせる者を「権力者」と呼びます。「服従者がいるから権力者がいる」という図式は、ヘーゲル的思考伝統に連なるものです。
■ここで明らかなように、権力は服従者の了解(選好と予期)に即して定義されます。服従者の了解の正しさは問われません。玩具の拳銃でも本物だと思い込めば権力を体験します。だから誰かへの権力を行使したい者にとって「シンボル操作による了解操縦」が重要です。この了解操縦を「広義の権力」と呼びます。権力闘争とは了解操縦の鬩ぎ合いです。
■加えて重要なことは、服従者側に「行為選択肢群が存在した上で特定選択肢を断念する」契機があることです。言い換えれば、回避選択をする/しないという自由が存在することが前提です。服従者に与えられた行為選択肢群(勉強/遊ぶ)を「権力主題」と言います。権力を行使したい者にとって「権力主題」を然るべく構築する了解操縦が重要になります。
【権力の人称性と正統性】
■ところで、今の例で言うと、生徒iの「及第/落第」という体験の選択性は、教師jという人称に帰属されています。しかし例えば、及第基準が制度的に決まっていて、誰が制度を作ったか分からない場合、「及第/落第」という体験の選択性は誰にも帰属できません。こうしたタイプの権力を「奪人称的権力」と呼びます。
■これに対し、たとえ教師jが形式的には「及第/落第」を選択するのだとしても、世間一般(任意の第三者)が教師jのそうした行為を支持し、誰が教師でも同じように振る舞うと予期される場合、「及第/落第」の体験の選択性は特定の人ではなく世間一般に帰属されます。こうしたタイプの権力を「汎人称的権力」と呼びます。
■奪人称/汎人称的権力との対比で、「及第/落第」という体験の選択性を教師jに帰属できる場合を「特定人称的権力」と呼びます。因みにこれら区分は前回話した法的決定の人称性の区分(特定人称的/奪人称的/汎人称的な決定)と並行します。「決定の人称性」は、決定(を告知する発話)に表明される予期の選択性が、誰に帰属されるかを示します。
■即ち、権力の人称性とは、服従者の体験をもたらす決定に表明される予期の選択性が、誰に帰属されるかに当たります。決定の人称性は了解操縦に左右されますから、権力の人称性も了解操縦に左右されることが分かります。権力の人称性は直ちに服従蓋然性(服従のありそうさ)を左右するので、権力の人称性を巡る了解操縦の鬩ぎ合いが生じます。
■ここで次回を先取りすれば、ウェーバーが「自発的服従契機の存在」として定義した正統性の概念は、受容蓋然性や服従蓋然性を上昇させる機能を有する、決定や権力の人称性を巡る了解操縦に関わります。例えば、権力が汎人称的ならば、服従者は抵抗意思を挫かれがちになります。権力が奪人称的ならば、服従者は抵抗の宛先を見失いがちになります。
■更に先取りすれば、「Xがjに従うようにiに命じる」(iはXを恐れるがゆえにjに従う)という具合に権力が権力を生み出す「権力反射」のメカニズムがあり、「Xがiを従えるようにjに命じる」(jはXを恐れるがゆえにiに命じる)という似て非なる「権力接続」のメカニズムがあり、これらの組合せで多様な「権力連鎖」が社会に張られます。
■政治的なるものとは、社会成員全体を拘束する決定をもたらす機能的装置の総体でした。先の問いに答え直すならば、問題の「拘束」とは、「権力連鎖」の形成戦略と、服従蓋然性を触媒する「権力の人称性」の了解操縦戦略との、組合せによって調達されるものです。次回は今回先取り的に述べた部分を展開し、政治システムの包括的な看取り図を描きます。
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