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連載第一七回:下位システムとは何か?

投稿者:miyadai
投稿日時:2004-09-15 - 14:33:30
カテゴリー:連載・社会学入門 - トラックバック(0)
■社会学の基礎概念を説明する連載の第一七回です。第一部(第一回~第五回)では、社会システム概念自体の理解に必要な説明をしました。第二部(第六回~第一六回)では、社会システム理論が分析用具とする個別概念を説明しました。今回からは、第三部です。
■第一部は「社会とは何か」で始まり、第二部のラスト二回は「人格システムとは何か」「自由とは何か」で終わりました。慧眼な読者にはお分かりの通り、こうした順序は、社会学という学問の性質をご理解いただくために、それなりに考え抜かれた構成なのです。
■社会とは、私達のコミュニケーションを浸す暗黙の非自然的な前提の総体だと言いました。そうした社会を考察するべき理由は、自由について考察するときに浮き彫りになります。私達が自分達を自由だと思うことと、社会の中にあることとは、どんな関係にあるか。
■拙著『サブカルチャー神話解体』(1993年、石原英樹・大塚明子と共著)に記した通り、文学・漫画・映画・写真などの歴史を見ると、各人が能うる限り自由に表現した作品であっても、社会毎、時代毎に明確な型が刻印されます。当人は型を必ずしも意識していません。
■かかる現象が起こる理由は、各人のコミュニケーションが暗黙の非自然的な前提によって条件づけられているからだと理解できます。こうした条件づけは、デュルケームが「契約の前契約的前提」(『社会分業論』)と称した問題を拡張したものに相当しています。
■本人の目から見て端的に自由であるものが、傍目(観察者の目)から見て社会的に条件づけられていること。このことの意味を徹底的に考察し、それがどんな具体的現象を帰結するのかを徹底的に観察すること。これぞ、近代的学問としての社会学の学問目的です。
■しかしそうした学問であるが故に、前回紹介したような誤解が生じ勝ちなことにも留意すべきです。「本人が如何に自由だと思っても、傍目には社会的に条件づけられてある以上、結局のところ自由はあり得ない」とする思考です(自由を自己決定と置き換えてもOK)。
■この種の誤解が社会学者──とりわけ共同体主義を主張する者──の間にさえも蔓延します。前回を復習すれば、カントの自由意思論(『実践理性批判』)が示すように、自由とは因果的な自己原因性ではありません。即ち、因果帰属でなく選択帰属の問題なのです。
■自己原因的でなくとも──社会的に規定されていても──意思が妨げられていない以上は別の行為を意思できた筈だと理解される。私達が現にそう理解しているということです。その限りで当事者に意思の自由があると見做され、帰責が──倫理が──可能になります。
■社会学を誤用して「自己決定はあり得ない」と称する自称共同体主義者は笑止です。自己決定があり得ないなら、「自己決定はあり得ない」と“言論市場”で喚くのは無意味そのもの。共同体的言説もまた“言論市場”で自己決定的に選ばれる他ありえないのだから。
■むろん自己決定は社会的に規定されます。共同体や伝統によって浸されます。そのことの自覚は、自己決定の意図せざる結果を免疫化する意味で重要です。であればこそ「自己決定を伝統で縛れ」の自己矛盾と「自己決定で伝統を選べ」の再帰性との差異が重要です。
■かかる差異は、「近代の限界」に対するに「近代の超克」を以てするか、「近代の徹底」を以てするかという伝統的対立をも帰結します。日本の共同体主義の嚆矢たる亜細亜主義者は大半、「近代の徹底」を以て「オルタナティブな近代」を構想する者の、謂いでした。
■日本の右翼のルーツたる玄洋社が「民権派」であると同時に「亜細亜主義」を標榜したことが象徴的です。まさに国家の強制ならざる国民の自己決定において、流動性を前提にした収益価値よりも、多様性を前提にした共生価値を選ぶことを、賞揚したのであります。
■そのことに鑑みれば、今般目立つ「社会的被規制性を以て自己決定を否定する輩」「自己決定が共同性や伝統を破壊すると見做す輩」「自己決定が多様的近代ならざる流動的近代をのみ後押しすると看ずる輩」こそ、右翼の名に値せぬ唐変木だと断定して差支えない。

【政治にも経済にも還元できない社会システム】
■さて、前回の予告通り、今後数回に渡って、宗教システム、法システム、政治システム、家族システムなど、社会システムの近代的な下位システムの幾つかを、記述していきます。それに先だって、下位システムとは如何なる概念なのかを、説明しなければなりません。
■連載初回に述べた通り、社会の概念は、仏革命期以降の社会的不透明性の増大に呼応し、19世紀半ばまでに生まれました。一般的定義は先に紹介した通り。それ以前、社会の類似概念に「ソキエタス・キウィリス」「ビュルガーリッヘ・ゲゼルシャフト」がありました。
■それぞれ邦訳すると「市民社会」となりますが、含意はそれぞれ別物です。ソキエタス・キウィリスは、アリストテレスの倫理学や政治学に登場するギリシア語の概念です。ビュニガーリッヘ・ゲゼルシャフトは、ヘーゲルの諸著作に登場してくるドイツ語の概念です。


■後に詳しく説明する通り、社会システム理論では、政治とは、共同体の全体を拘束する決定を産出する機能(集合的決定機能)を果たす装置の総体のことであり、経済とは、共同体の全体に資源を行き渡らせる機能(資源配分機能)を果たす装置の総体のことです。
■これらを前提にすると、ソキエタス・キウィリスの概念は「政治優位」であり、ビュニガーリッヘ・ゲゼルシャフトの概念は「経済優位」です。近代の社会概念と違い、前者は集合的決定機能において、後者は資源配分機能において、共同社会の全体性を把握します。
■前者は、血縁原理が支配する原初的社会を離脱して一定の階層分化を達成した高文化社会において、部族的範域を大きく超えた単位(コイノニア・ポリティケ)の決定に各部族的単位(オイコス)が従わなければならない理由を、主題化するところに生まれました。
■後者は、近代初期に勃興した産業ブルジョアジーが、集合的決定にそぐわないコミュニケーションの領域として市場経済を見出す(政治からの自由)と同時に、かかる自由を担保するべく市場の担い手の政治参加(政治への自由)を願望するところに、生まれました。
■前者を象徴するのがアリストテレス政治学で、共同体の営みを人体に擬えた上で政治的コミュニケーションを「頭」と見做します。後者を象徴するのがマルクス経済学で、下部構造たる経済的営み(生産関係)が、残りの営みを上部構造として支えていると考えます。
■因みにマルクスはビュニガーリッヘ・ゲゼルシャフト(市民社会)を、市場の無政府性が一人歩きする怪物だと捉え、この無政府性を克服するために社会主義革命を構想しました。この構想に従って、二十世紀には「東側」と呼ばれる社会主義国家群が生まれました。
■社会システム理論の鼻祖パーソンズは、東側のような政治の肥大した体制(後述)が生まれたのは、古典派経済学からヘーゲルを経てマルクスに至る「経済優位」の社会把握に問題があるからだと考えました。社会システム理論の構想は実はそこから生まれたのです。

【機能的に分化した社会システム】
■パーソンズは、経済機能(資源配分機能)や政治機能(集合的決定機能)を含めて数多の機能的達成をせずには存続できないものとして社会システムを捉え、かつこれらの諸機能を担う下位的なシステムが、どれが優位というのでもなく相互依存する形を考えました。
■パーソンズは、ベイルズの集合行動論をヒントに、数多の機能を「適応・目標の達成・統合・潜在パタンの維持」の四つに整理しましたが(AGIL図式)、後に批判を浴びたように、さしたる根拠はありません。しかし抽象的な思考図式自体は、後に継承されました。
■抽象的な思考図式とは次のようなものです。有機体システムとしての私たちは、免疫システム、神経システム、消化器システム、循環器システムなどの下位システムに支えられています。これら下位システムの間に優劣の関係はなく、相互依存の関係があるだけです。
■同様に、近代の社会システムは、資源配分機能を担う経済システム、集合的決定機能を担う政治システム、紛争処理機能を担う法システム、根源的偶発性処理機能を担う宗教システムなどの下位システムが、相互依存する形で成り立っている──こう考えるわけです。
■むろんどんな社会システムでも、資源配分機能・集合的決定機能・紛争処理機能・真理探究機能・根源的偶発性処理機能などの遂行は不可欠です。ただ近代社会は、その他の社会と違い、これら機能的課題に従ってシステムを分化させる点が特徴的だと考えるのです。
■どんな社会システムにも見出される普遍的な機能として何が数えられるのかは、論争的な課題です。近代社会に限り専ら家族システムが担う「感情的安全機能」や、専ら教育システムが担う「選別&動機づけ機能」などは、多くの理論家が普遍的だと見做しています。
■これら普遍的な機能的課題の達成のために社会システムをどのように分化させるか(させないか)によって、社会システムごとに独自の、必ずしも普遍的とは言えない機能的課題が生じることがあり得ます。これらを「機能的副次問題」と呼ぶことができるでしょう。
■こうした発想に従い、社会システム理論家は、近代化を、社会システムの機能的分化だと捉えます。幾つかの普遍的な機能に従って下位システムが分化することが、近代化だということです。このことを切り口に、下位システム概念の意義を更に深く理解しましょう。

【近代化と、下位システムへの機能的分化】
■近代化とは何か。一つには産業化を意味する用法があります。産業化とは規模の大きな生産設備を必要とする第二次産業が発達することです。故に産業化は第一次産業を通じた資本蓄積を前提とします。この意味では東側の一部が近代化を遂げていることになります。
■こうした用法は、列強に肩を並べるための国力増強=富国強兵化に由来します。ところが、こうした用法を嫌って、「東側は産業化はしたが近代化は遂げていない」といった言い方に拘る向きもあります。この場合の近代化は、一口で言えば、市民社会化のことです。
■市民社会化とはビュルガーリッヘ・ゲゼルシャフトになること。人がゲマインシャフトリヒ(共同体的)な存在からゲゼルシャフトリヒ(市民社会的)な存在になること。つまり家族共同体や地域共同体に埋没することのない、自己決定的主体=市民になることです。
■かつての枢軸国や少し前までNIES諸国と呼ばれた後発近代化国では、例外なく「産業化は遂げたのに市民として振る舞えないこと」が問題視され、この意味での近代化が奨励されました。例えば共同体からの自立の困難が「近代的自我」の問題として議論されました。
■この用法だと日本は未だに近代化していないことになります。単なる用語法なのでそのように使っても構わないと言えますが、社会システム理論家のように近代化を「社会システムの機能的分化」として捉えれば、従来の用法にはなかった発見的な知見が得られます。
■社会システム理論家は、日本を近代社会だと見ます。即ち機能的分化を達成した社会だと見做します。集合的決定機能(政治)、資源配分機能(経済)、紛争処理機能(法)、真理探究機能(科学)、根源的偶発性処理機能(宗教)が、癒合してはいないからです。
■これらの機能が癒合した社会の典型がかつての東側です。東側では、資源配分も紛争処理も真理探究も根源的偶発性処理も、集合的決定の対象でした。即ち政治こそが、モノの配分を決め、何が真理かを決め、誰が裁かれるかを決め、究極の価値を決めていました。
■更に一般に中世社会と呼ばれる機能的ではなく階層的に分化した社会システムでは、社会上層の緊密なコネクションに、集合的決定機能(権力)も資源配分機能(貨幣)も紛争処理機能(正義)も真理探求機能(真理)も偶発性処理機能(究極性)も握られています。
■社会システム理論家は、近代社会、即ち機能的に分化した社会システムを達成するのに、キリスト教的な個人性をベースに自己決定的主体化を経由する西欧先進国的ルートと、それを経由しない日本的ルートがあるのだと考えます。日本的ルートの実態は論争の的です。
■しかも、自己決定的主体化を経由せずに機能的分化を達成した社会システムにおいて、一度は歴史的に分化したシステムが、分化退行へと後戻りしない抑止メカニズムを備え得るかどうかも、セキュリティ不安を理由にした国家肥大が話題になる昨今、特に問題です。
■社会システム理論家ルーマンが述べた通り、西欧先進社会では、政治権力が介入してはならない市民の行為領域としての人権概念が、分化退行を抑止します。かかる行為領域として、貨幣や真理や信仰や参政のコミュニケーション領域が憲法に書き留められています。
■歴史的経緯ゆえに自己決定的主体観念の未成熟な日本では、国民が憲法的命令に基づいて国家を制御するという立憲政治の発想が乏しく、人権概念に基づく分化退行の抑止機能が期待できません。下位システムへの機能的分化の概念はこうした観察にも適用できます。