MIYADAI.com Blog

MIYADAI.com Blog
12345678910111213141516171819202122232425262728293031

Written

モダンフェイズ・システムズのウェブサイトはこちら

後編【DarwinRoom】料理の人類学9 料理を通じて倫理を回復する 2020.05.30(土)

投稿者:miyadai
投稿日時:2020-06-22 - 11:07:46
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(0)
【DarwinRoom】料理の人類学9 料理を通じて倫理を回復する 2020.05.30(土)
清水隆夫さん:ダーウィンルーム代表
鶴田想人さん:東京大学大学院総合文化研究科修士課程(科学史・科学哲学)
宮台真司  :社会学者/東京都立大学教授
(文字起こし:大上隼人/立石絢佳)

後編


【質問1: 技術の役割:技芸からテクノロジーを経てテックへ】


鶴田: 会場からの質問を受け付けたいと思います。

宮台:■今日は若い方がとても多いように感じます。多分昭和的なものを全然知らない人達が多いと思うんですね。なので、僕のしゃべることが、概念的には分かるけど、まったく体感できません、みたいなことがあったら、おっしゃってくださると嬉しいですね。

山上さん(質問者): さっきの身体感覚の話で、僕がこれかなと思うのが小さいときに田んぼに入ったときのことです。質問は共通の身体感覚を得るようなデザインをするにあたって科学が果たす役割は何なのかな?ということで、昔に戻るだけじゃないって時に科学が大事になってくるんじゃないかって僕は考えました。

宮台:■おっしゃる通り。思考停止のシステム化に貢献する科学から、思考停止のシステム化が孕む問題を明らかにする科学へ、オルタナティブなシステムを作る科学へ、ということです。今までの歴史を見る限り、システム化が進むと、便利で快適になるだけじゃなく、僕らはただの駒になる。システム側からみると、僕らが入れ替え可能な道具的パーツになる。そこでは、異論を言う面倒くさいヤツはただのコストになる。なぜか。それは、時間と空間含めて、手が届く範囲within arm’s length から、手が届かない範囲 beyond arm’s length の合理性が、損益としてカウントされるようになっているからです。より拡げれば、市場だけじゃなく行政を含めた分業連関の全体を、テクノロジーがカバーするようになれば、そうした流れが必然的にマクロに生じます。
■だから「科学にどんな役割があるでしょう?」という質問には意味がなく、「科学をどう使えばいいでしょう?」という質問にだけ意味があります。今は、分業編成がシステム化から汎システム化pan-systemizationへと展開し、技術technicはクラフトのテクニークtechniqueからテクノロジーtechnologyを経てテックtech(ハイテクノロジーhigh technology)へと展開し、汎システム化とテックが結合したプラットフォーマーの時代になっています。その動き自体には抗うことはできない。だから、どういう方向にこの流れを導けるのかが、僕ら次第だということです。正確にいえば「僕らのニーズ次第」なのです。だから、「技術に何を要求するのか」から始めて、「新たな要求に対処するには技術によるどんな体験デザインが必要なのか」へと思考をつなげていくような、「倫理的な体験デザイン論としての、技術デザイン論」が必要だということです。
■一口で言えば、テックを倫理的にデザインするという課題です。そういう風に問題を立てれば、共同身体性を触媒するようなテック、人間が思わずアフォードされたり感染させられることで脱主体化できるようなテック、というヴィジョンが得られるはずです。そんなのは幾らでも思いつくし、コロナ禍がそうした思いつきのスピードを加速してくれている。例えば、音楽イベントも、ライヴハウスから、ネットのライヴ配信へと、急速に展開している。これはカネだけが物を言うテレビのライブ中継とは、全く違う意味を持つ。ネットのライヴ配信も、よりアフォーダンスや感染を容易に触媒する方向にテックが使われていくだろう。結局、僕らがテックに使われてきた状態から、僕らがテックを乗りこなす側に立つことが重要なのね。だから「テックにどんな可能性があるか?」という質問への答えは「テックの可能性は無限だが、どれが実現するかは僕ら次第」です。神成淳司さんとの共著『計算不可能性を設計する―ITアーキテクトの未来への挑戦』を読んで下さい。

山上さん(質問者): テックをどう使うかっていうところに視点があるのかと思ったんですが、科学がどう世界を見るのかっていうことを、身体感覚を踏まえたうえで、新たな見方が生まれるのか、それとも見るって時点で、見たいものしか見ないから、汎システム化にしか繋がらないと考えられているのか。

宮台:■ひとつ分かりやすい例。90年代、インターネットのチェリーピッキング(いいとこどり)を問題にしたキャス・サンスティーンが、オピニオン系のブログに、必ずカウンターオピニオン系のリンクをつけることを、法律で義務付けたらどうかという提案をした。でもそれは採用されていない。なぜか。皆が望んでいないからだ。一事が万事、そういうこと。我々は、今後も市場経済だから、人々に需要していただけない限り、テックは我々の生活に実装されないし、我々が民主主義を続けるのであれば、人々から投票していただけない限りは、テックを使った制度は我々の社会に実装されない。あとは、市場や政治のマクロな流れに抗って、どれだけ共同体自治を実現できるかということです。飯田哲也氏との共著『原発社会からの離脱――自然エネルギーと共同体自治』を読んで下さい。


【質問2: 料理と、クオリアのシンクロ率】

守屋さん(質問者): 宮台さんの著書の中で、奥様とデートに行くときに、思い出の場所に行ったり、奥様に自分の手料理を振る舞うというようなことが記述されていて、確か宮台さんと奥様は20歳くらい年が離れていたと思うんですが、料理や食事について奥様と感受性が違うなと感じることはありますか。

宮台:■ないですね。ないから結婚しているんだと思う。それで話が終わるのはつまらないから(笑)、話をつなげます。蓑原敬さんとの共著『まちづくりの哲学』にも書いたけど、僕が幼い時からよく経験した昭和的作法は、よそん家でご飯を食べることです。その時に衝撃を受けたのは、食をめぐる作法や文化って、家庭ごとに、親御さんの職業ごとに違うってこと。そこで違和感を感じたり、感心したりを、ずっと繰り返してきたんです。一般的な言い方をすると──幾らでも例外はあるけど──、自分と同じような、料理に関わるgathering(集まり)の体験データベースを持ち、その体験質をシェアできると信じられるような相手と、仲間になりやすい。
■人に話したことないことを話します。最初のデートは、諸般の事情でお台場だったんだけど(その前のデートが、妻が上司や同僚に「噂の眞相に何十回も書かれた悪魔と会うのか」と言われて監禁されて、流れて…)そこで今はもう日本では食べられない極辛四川を食べました。辛いもの好きの僕よりもずっと速く完食して、やっと仲間を見つけたっていう感じになったんです。いずれにしても、料理に関わるクオリアをシェアできる人とは、仲良くなりやすい。だから、人間は、御飯を通じて仲良くなりやすい。冷蔵庫をあけてみて、たまたまの材料があったときに、どんな料理をするようにアフォードされるかが、それぞれの家族文化であり、クオリア史です。コンビニ人間だらけの若い人たちには、そういうイメージがない人がほとんどだろうけど。そこが御質問の潜在的なポイントです。
■料理を作る場合も、食べる場合も、それを通じて集まりの個人史の中で育まれる共同身体性や共通感覚を、シェアできる人かどうかを判断できれば、結婚生活のイメージを想像できます。最近では20代後半から40代くらいまで、特に女の人は婚活に熱心ですが、話を聴いてると「何を見ているのかなぁ」っていつも思います。見るべきものは共同身体性と共通感覚です。イケメンかどうか、収入はどうか、それはそれで大事だろうけど、それ以上に大事なことは「シンクロ率」だよね。一緒に料理を作るプロセスと、一緒に食べるプロセスの、両方をやって「シンクロ率」を確かめるといいと思います。妻との最初のデートでは、「シンクロ率」が高くて、一緒にやっていくしかないって思い、最初のデートで事実上のプロポーズをしました。


【質問3: 家庭料理とは何か】

坂田さん(質問者): 私は昭和生まれで、仕事でキャンプとか自然体験をしています。多くの子供たちと外でご飯を食べている中で、何を食べるかを自分で選択せずに、与えられたものだけを食べてきたというような子供にも何人か遭遇しまして、シュタイナーが言っていることに、「子供っていうのは間違った食べ方をしなければ、水一滴に至るまで必要なものを欲するように育っていく」というものがあります。東洋医学的な観点だと、体を温める温の植物ですとか、夏に体を冷やす寒のものとか、そういうものをとることで総合的に人間というものを捉えていると思うんですけれども。宮台さんの中でどういう料理を食べるかということではないんですけれど、季節感や旬とか今は冷蔵庫があり年間通じてどんなものでも食べれると思うんですけど、何を食べるのかということをご家族で実験的にされていることがあるのかということを質問させていただきました。

宮台:■今の話はかなりハードルの高い質問です。例えば家庭料理と区別された日本料理の特徴は、旬のものを出すことですよね。料亭に行けば必ず旬のものを出すでしょ。お通しから始まってね。そこが家庭料理での日本料理との違いです。僕の考えでは、家庭料理は、そんなことにこだわってられない。余程ひまな人、金がある人以外はね。だから、あるべき家庭料理の手がかりをそこに求めるのは、ハードル高すぎます。
■昭和と違って、平成・令和の子たちは、好き嫌いがめちゃ多くて(昭和は無理矢理食べさせられた)、旬のものを出そうものなら「たけのこ嫌いなんだけど」で終了(笑)。旬のものは家族の誰もが欲望するわけじゃない。家族の誰もが欲望するようなものをプラットフォームにするしかない。ただし、ナス科やウリ科など「ぶらさがるもの」はカリウム代謝で体温が下がって夏にいいことや、芋類など「地中に育つもの」は体温が上がって冬にいいことは、家族旅行で旬のものが出て来たときなどに繰り返し教えています。


【質問4: システムの間接性から感情の直接性を取り戻す】

湯本さん(京都大学・霊長類研究所所長): 宮台さん、初めまして。私は宮台さんと同い年です。1959年生まれなんですけれども。それで2つコメントがあります。1つはシステム論、歯車になってしまうという。私は30年くらい前に教養部で生物学の講義をしていた時に始めにそのことを話していて、エコシステムって言葉がありますよね。あれは普通にエコロジカルシステムなんですけど。あえていうと。あれは実は、エコノミックシステム(economic-system)とも読めるもので。それで経済の歯車になってはいけないというところが、もちろんその頃から社会学でもあったと思いますけれど。生物学でもそうで、生き物というのは、生態系の歯車などではない。それぞれが勝手に生きているんだというような内容で講義を始めた覚えがあります。
 なので、宮台さんが清水さんのガイアというのに対して違和感を表明されて、私も何となく違和感があるんですけれども、その違和感は宮台さんも共有されているのではないかと勝手に思っております。今度ここで植物の世界というのを、ここでするんですけれども、その時のテーマというのは植物というのは、生産者という生態系の中の機能として定義されるものではなくて、それは重要だけれども、そもそもそれだけのものにはとどまらないということを改めて思いました。
 もう1つは、人間と自然という大雑把な二分がありますけれど、今色んな経済システムに取り込まれていって、自然との接点がなくなってきているというのが当然そうで、人間といったら、人間の周りの人間社会のシステムとの対応で手いっぱいで、その先の自然に対して滅多にそれは触れ合わない。あるとすれば、今回のコロナのようなものが現れると自然と向かい合うんですけれども、普通は自然社会システムの対応で手いっぱいなんですね私たちは毎日毎日。なかなか自然にまでは想いは至らないんだけど、そこは重要で、そのつながりを取り戻すための料理っていう視点。
 私も昭和の人間なんで『美味しんぼ』は楽しく読むんですけれども、主人公の周りの引き立て役の人たちの視点は、どうやら料理とは社会システムのものであるという、料理人がいて、料亭があって、シェフがいて、レストランがあってという、社会システムのものだという風に周りの人たちは思っているわけですね。ただ、主人公はそうではなくて、その向こうにある自然というものにまっすぐ向かうわけですよね。そこは一貫しているんですね。
 そういうところで、自然か資源管理となかなか周りにあるから自然管理できるというわけでもないんだけれど、そこは想像力を超えてしまっているので、例えばエコロジカル・フットプリント(Ecological footprint、EF、地球の環境容量を表す指標)などの、サプライチェーンのトレイサビリティ(traceability)や環境ラベルというような特別な工夫をして、自然とむすびつけて確認しあう。先ほどの科学にどんな意味があるのかもそうですけれども、実態は分からないんだけれども、そこを結びつけることで、せめて自然との距離を体験できるようなエコロジカル・フットプリントで数値化をしてみたり、サプライチェーンのトレイサビリティと言ってみたり、スーパーマーケットに置いて工夫してみたりしてるんだなと。そういう意味で料理、食を取り巻く人と自然の関係ということ。この2点を今回思いました。どうも失礼しました。


宮台:■湯本先生、ありがとうございます。すごく印象的なコメントでした。やっぱり僕も自分で昭和だなと再確認させられたからです。エコロジカル・フットプリントとかフードマイルみたいなものって、所詮はロハスで、昭和人間は騙されません。ロハスって、Life style Of Health And Sustainability のことで、スローフード運動に対抗して1995年にウォルマートが始めたものでした。「俺たち巨大流通企業だってトレーサブルでオーガニックなものを提供できまーす」みたいな。そしたらすぐイタリアとフランスでふざけんなって反発が生じた。「あんたらは儲けるためにやってるだけだろ」とね。うちらはそうじゃない。儲けるためにオーガニックを作るとか売るとかじゃなく、仲間にいいものを提供したいからオーガニックを作るし売るんだ、法律が禁じているから添加物を使わないんじゃなく、仲間にいいものを提供したいから添加物を使わないんだってね。僕はこれを、システムを介さない「感情の直接性」の回復って言っている。
■実際、スローフードって、日本の昭和期の運動なんだけど、やっぱりそういう「感情の直接性」を取り戻すってことが、全てにおいて基本になっています。ロハスは「地球を考えています」っていうマクロ志向。スローフードは「仲間のために生きる」っていうミクロ志向。マクロ志向なんて所詮はブランディングや意識高い系と結びついた流行です。ただの個人化された「ライフスタイル」だから、すぐに忘れられる。スローフードは共同体の生き方をめぐる「ソーシャルスタイル」だから、忘れられない。だいいち、フットプリントだろうがマイルだろうが、不当表示でしたとか、集計プロセスが間違ってましたみたいなことになった瞬間、「えぇ!騙しやがって」ってなるでしょ。今欠けているのは、湯本先生のように、ロハスに違和感を感じたり、スローフードに凄いなって感じたりする、「感情の直接性」のベースになる体験が欠けているんですね。湯本先生の仰ることには本当に共感いたします。ありがとうございました。

清水: ちょっと宣伝だけ、先ほどお話いただいた湯本さん担当で、来月の19日から5回、植物の惑星の特別企画シリーズってことで、ぜひ参加いただきたいと思います。

宮台:■湯本先生が最後におっしゃった「エコロジカルシステムにとって重要なので、森や木や花を守りましょう」みたいなイデオロギーじゃなく、花が手折られたり、木か切られたり、森が切り崩されたりするすると、「お前には痛みが感じられないのかよ、許せないヤツめ!」って腹が立つ感情が生じるかどうかが、問題なんです。それを社会学では自己包絡 self involvement と呼んできた。自己の拡張身体のなかに、花や木や森が含まれて involved いれば、腹が立つよね。人類学でいう合体combineであり、宮台語でいえば「なりきりbecoming」です。これは「ナチスのエコロジー問題」に直接関係する。
■つまり、マクロスケールのイデオロギーじゃなく、マイクロスケールの感覚をベースにした実践を実装する営みが「環境エコロジー」であれば、いいと思う。それじゃないと、特に劣化した日本では、三島由紀夫の言う「空っぽ問題」になっちゃう。「一夜にして天皇主義者が民主主義者になる問題」「一夜にして家父長制主義者がフェミニストになる問題」です。昨今でも「これからはSDGsが旬らしい」とか「これからは持続可能性でしょう」とかホザいているクズがいっぱいいるでしょ。もう、そういうのうんざりだよ、はっきり言って。以上です。


【質問5: アドボカシーから体験デザインへ】

安永さん(質問者): 北欧のfood movementやオランダのマライエ・フォーゲルサングを筆頭にした食のデザインを見ていると、人々に食べ物の背景や環境問題、実験的な食の試みなどを表現している人たちがたくさんいるように見えます。これらはオルタナティブな思考でしかないのでしょうか。またメインストリームにそれを求めることはどうなのでしょうか。

宮台:■問題は、思考やアドボカシーに留まるのか、「体験デザイン」の実践なのか、です。フォーゲルサングは「体験デザイン」の実践をしますが、日本人の受け止め方はどうでしょう。エコロジー運動とか何とか運動みいたなアドボカシーレベルで、物事が展開している限りは──日本人は「からっぽ」なのでそうなりがちですが──それはロハスとなにも変わらない。個人が「意識高い系」的に選択できるライフスタイルでしかないということです。大切なのは、共同体全体の実践としてのソーシャルスタイルです。
■ってことは、仲間全体に関わるミクロな実践しかないってことです。人間関係の中で何がドライブ(駆動因)になって営みが展開しているのかを、敏感に観察して修正する感受性を、仲間みんなに拡げる実践です。そのためには、まずは仲間がいないとどうしようもないでしょ。だから日本は殆どどうしようもないわけです。単なる個人化されたライフスタイルだと、This wayに対してalternative waysもあるよっていう話になって、「どっちがいいんでしょう?」とか「エビデンスは?」とか「統計的なリサーチは?」みたいな話になる。それは意味がないと断言します。
■哲学って言葉を使わせていただくのであれば、ギリシャの哲学って確かにフィロ・ソフィーで「知を愛する」なんだけど、ギリシャの場合には主知主義じゃなくて主意主義だって。DarwinRoomでも映画批評ラボで何度も言ってきたことだけどね。どうにもならない摂理を受け容れるってことです。まぁ言えば「引き受ける覚悟」です。「こうすれば、ああなるから、良いのだ」っていう条件プログラム的な思考に乗っかるのが主知主義。「そうすればこうなる、危険だからやめたほうがいい」とかね。
■こうした条件プログラムつまりIf-them文とは関係なしに、「私は摂理を受け容れた上で、端的に何かを貫徹する」っていう意志をベースにするのが主意主義です。ギリシャは常時ポリス間で戦闘してたけど、重装歩兵の集団密集戦(ファランクス)だったから、「死ぬかもしれないと分かっていながら、それを恐れない果敢さ」が、英雄として讃えられた。先ほどの湯本さんの質問に引き寄せれば、間接的なものが主知主義=条件プログラム、直接的なものが主意主義=目的プログラムです。仲間のために善いことをしたい、それをしてくれる仲間を見てるから高い金を払いたい、というのが大切です。以上です。


【質問6: 真のハレを回復する:交換から贈与へ】

鈴木さん(質問者): 家庭料理から郷土料理に話を遡るとハレの日とケの日に料理を食べると思います。今後、食べるという行為が作業と化してくるのであれば、それはある意味ケの文化に近づいているということだと思います。そこでハレの日的なものを取り返すことが共通感覚をデザインする意味で可能性があるのか。ハレの日的な料理について。

宮台:■そろそろ鶴田さんも答えてくださいよ(笑)。

鶴田: なるほど。ハレの日的なものは、昔はある種宗教性を帯びていたと思うんですよね。だから宗教的なものがあってこその、ハレの日的なものであり、そこに一種の倫理性というものがあったと思うんですけれども。今、それを虚構的に、加工的に作り出したとして、それがかつてのハレの日的なものとして機能するかどうかは分からない。例えば正月の集まりというのは、一種のハレの日の集まりなわけですよね。そこで家族が集まって皆でご飯を作る。だけどそこでご飯をつくっているのが、主婦だったたり、お母さんだったりすると、あまり前進しているとは思わない。
 先ほど宮台さんがおっしゃった体験デザイナーとしての食として考えるときに、僕が思い出したのが関野吉晴さんがカレーライスをいちから作るって映画を作られていて、武蔵美の学生たちと先生が、いちからつくくる。しかもスパイスや材料も自分でつくるし、鶏も自分で育てますし、塩も海水を蒸発させて取るわけですよ。それは体験デザイナーとしては、かなり面白い取り組みだなっていう風に思いました。それはハレの日の概念を拡張しすぎですけれども、授業を通じて普段の料理を作ったわけじゃないわけですよ。このカレーをつくるって行為は、ものすごい快適な行為でこれをつくるために一年間鶏とか育ててきたわけですよ。そういう意味で、その日がハレの日ってニュアンスでもいいのかなっていう答えになります。


宮台:■僕が答えるよりも印象的なすばらしい答えですね。僕は人類学・民俗学ベースで思考する。すると本当に鶴田さんの仰ったように、僕らが近代社会でハレの日って呼ぶハレの日と、昔の定期的なお祭りのハレって、全く違うんです。今でも、そういう感じの、七年に一度の御柱祭りがあって、お祭りが終わった次の日からまた七年後のお祭り「に向けて」日常が始まる。日常に耐えることができるのは、またお祭りが来るって思えるからですよ。まさにその感じを、三十年前に青森のねぶた祭りを見て感じました。そのころの青森の中高生の初体験は、たいていはねぶた祭りの期間だった。今はもう違うんだろうな。
■その感覚って分かりますか。定住以前には祭りは全くなかったんです。定住社会は、法に従わないと、農耕に必要な集合的で長期プログラムに従った行動ができないでしょ。収穫物の所有もできないしね。だから法がメインになった。法に従う生活は、クソな生活だし、法に支配された社会もクソです。でもそれで我慢するしかない。だからこそ、定期的な祭りを通じて法と不法を逆転した。男女も逆転し、主従も逆転し、性的タブーとノンタブーも逆転する。日本で戦後もしばらく残っていた無礼講がまさにそれでした。
■そうやって定住以前、つまり法以前・言語以前・損得以前を取り戻す。抽象的に言えば、exchange(交換)じゃないgift(贈与)を取り戻す。そのために、被差別民を聖なる存在として召還する。所有や法を否定して定住を拒絶するがゆえに差別されるようになった被差別民をね。そのことで、風化しつつあった力を取り戻す。クソ社会のつまらない日常に耐える力を取り戻す。それがハレです。「今日は誕生日だからみんな集まって普段食べないケーキを食べましょう」なんてのは人類学的・民俗学的なハレとは程遠い。だたのパーティーの非日常的日常です。つまり日常のエピソードです。ハレって言葉に相応しいだけの重さを、体感的に知っていれば、そのために料理を含めて全てを組織する、っていう御柱祭り的な実践もあり得ると思う。
■人類学者が数多く報告してきたように、ポリネシアンは祝祭時に「蕩尽」します。食べられないだけの料理を作りまくる。今でも日本の一部にそういう習慣が残っています。20年少し前に『美しき少年の理由なき自殺』の主人公のS君の実家に行った時のこと。今こんな原稿が今書けていて、もうすぐ本になりますって、僕と共著者の藤井誠二の2人で報告にいった。そしたら、2メートル×5メートルのテーブル一面が、料理がのったお皿で埋め尽くされていたの。「すいません、絶対食べきれませんけど」「いや、今日は大切な客人が来たハレの日ですから、もったいないとか関係ないんです。できる限りのご馳走を作って、飲みきれないほどお酒を用意するのが、当地のしきたりです」と。「ショートケーキを人数分買ったほうが、デコレーションケーキよりも安いんだけど」みたいな世界じゃない(笑)。というわけで、皆さんのハレの日のイメージはどこまでハレなんだろうってとこから考え直して下さい。以上です。


【質問7: 言葉の詰め込みから、言葉による蓋の取り除きへ】

カホさん(質問者): アフォードされるには、アフォードされる力が必要だと思うんですが、受け手に必要だと思うんですが、それはどのようにして身に付けられるものなんでしょうか。教育でしょうか。

宮台:■教育といっても、アフォーダンスに関わる教育は、さっき言ったように、体験によって触発される遺伝子的可能性のことです。「皆さんには潜在的な可能性はあるんだけど、言葉によって蓋がされている」という感じです。だから対処には2つあります。1つは、言葉の蓋を取り除くこと。言葉に固着するのは神経症の症状です。神経症の背後には埋め合わせたい不安があります。だから言葉の外に出ても不安はないんだよって思う方向性に行くことです。
■もう1つは、そのためにも、ってことだけれど、何々を見たら思わず何々をしている態勢を育てること。そこには言語的な条件プログラムはない。「認知して、評価して、自己指令して」何かをするという言語的回路とは、全く別の回路が自分に働く可能性を、まず言語的に自覚させます。実は、「認知・評価・指令」の言語的な条件プログラム(if-then文)で僕たちが行動するという理解は、古い行動学的モデルです。当人が「こういう理由でそういう決定をして、意図して行動した」と自己理解する場合も、そうした意図以前に脳が発火することが知られています。そのことも含めて、直接性をもっと自覚する方がいいでしょう。
■クズの定義である「言葉の自動機械」も自動機械だけど、バッタを見たら思わず手にバッタを握っているってのも、別の意味での自動機械。前者が言語的自動機械。後者が身体的自動機械。パブロフの条件付けと違ってかなり生得的だけど、生得性を開花させるにも履歴的に陶冶された身体性が必要です。その証拠に、かつて激しい武道やスポーツをやって身体性を構築した若者は、「言葉の自動機械」の神経症的症状を呈していても、週1の宮台ゼミで言葉の蓋を取り去れば、自由自在に何かにアフォードされるようになります。その意味で、マシーンはマシーンでも「言葉の自動機械」ほどバリエーションの少ない貧しいマシーンはない。言葉の蓋を取り去れば、人が踊っていたら思わず踊っているとか、人が笑っていたら思わず笑っているとか、目があったら思わずニッコリしてナンパしてしるとか(笑)一挙にできるようになる。アフォードされる身体的な自動機械は豊かです。

鶴田: 教育によって覚え込ませるとかではなく、もっと内発的なものを引き出すっていう意味であれば教育だということですよね。ありがとうございます。



【質問8: 普通の親が禁じることを全てやらせる】

三井さん(質問者):現在4歳の子供を育てています。感情の直接性を育てるために、母親が気を付けることや、母親同士で共有する方法はありますか。子育てにおける感情の直接性について。

宮台:■一番大事なことは、安心・便利・快適じゃないものに連れ出すってこと。まずは危険なことをやらせてほしい。4歳だったら、原っぱで焚き火をしたり、滑り台の逆さ登りとかから始めてほしい。小学生だったら、今時の親が「やってはいけません」っていうことを全部やらせることから始めてほしい。すると、決まりを破ることが、いかに楽しいのかが分かってもらえる。つまり「法外の享楽」です。しかも、その楽しさは個人的なものじゃなく、みんなも楽しい。つまり「法外のシンクロ」です。そこがポイントです。
■その時「みんなはダメっていうから、こっそりね」と声を掛ける。そうすれば「なりきりbecoming」と「なりすましpretending」の両輪を教えられる。そこから始められるといい。僕の例だと、人の家の庭で遊ばせる。すると翌日には「立ち入り禁止」って看板につけられちゃうけど。マンションに侵入して屋上まで上がる。子供たちは「関係者以外、立入禁止」って書いてあるよ」と言ってくる。「知ってるよ、でも怒られるの俺だけ。君らは大船乗ったつもりで大丈夫」と言えばいい。そこから眺めてみれば、昭和の子たちと違って、平成や令和の子たちがどれだけ不自由だか、分かるでしょう。以上です。


【質問9: コンテンツを使った体験デザイン】


吉永さん(質問者): 身体の動作を指導する仕事をしています。コロナにより何もかもオンラインで行わなければならなくなった。そうすると何もかも言語化しなければならない。その言語化しなければならない中で、感情の回復をするにあたってどのようなことを、オンライン化に関わらず、感情の直性性を伝える、育む方法を教えてください。

宮台:■僕は体験デザイナーですが、コロナになってリモート授業が多くなって、僕はますますコンテンツに依存するようになりました。『ウンコのおじさん』には体験デザインの2つの柱が挙げてある。1つは、虫取りのような外遊びを通じた体験デザイン。もう1つは、昭和コンテンツを通じた体験デザイン。両方とも説明しましたよね。僕は、この十数年、いろんな授業で、テーマが違っていても、コンテンツを見せたり聴かせたりってことをやっています。2つ理由がある。1つは、外遊びと同じで、言葉の向こう側にあるシニフィエ(指示されるもの)としてのクオリア(体験質)を、実装させるため。もう1つは、リアルワールドでの体験が難しいからです。映画なら映画の世界で、ドラマならドラマの世界で、言語的な出来事と並んで、非言語的な出来事が描かれています。登場人物の一部は「言葉の自動機械」として振る舞ってるけれど、別の一部はアフォードされたりミメーシスが起こったりして振る舞っていることが、描かれるわけです。
■何百回も言ってきてるけど、昭和の子供向けコンテンツって、とりわけ1960年代には勧善懲悪がとても少ない。代わりにあるのが「本物か偽物か」ってモチーフだ。「人間は善に見えて、実は偽物の善。怪獣は悪に見えて、実は本物の善」っていう。こうした「本物・偽物図式」って今の子供コンテンツにはほとんどない。同じ良さげなことを言っていても、本物と偽物の違いがある。同じ悪をやっていても、本物と偽物の違いがある。日本人の大人たちがそれが分かるように育っていたら、安倍晋三のような犯罪者が首相であり続けるなんてあり得ないよ。
■キリスト者は「善きサマリア人の喩え」を知ってるから伝えやすいけど、本物って何なのかを言葉で伝えるのは難しい。でも、あえてやると、法を破るにせよ、愛や正義のために法を破るのか、それとも、自分の損得勘定から法を破るのか。あるいは、法を守るにせよ、自分の損得勘定から法を守るのか、それとも、愛や正義のために法を守るのか。あるいは、真の境い目は、法を破ることと、守ることの間にあるのか、それとも(法を守るにせよ破るにせよ)動機が愛や正義である場合と、損得勘定である場合の間にあるのか。そういう問題設定は昭和ならではです。
■そういうコンテンツって今の大学生は見たことがない。だから、僕のゼミで──今日も何人かゼミ生が聴いてるけど──そういう昭和の小学生向けコンテンツを見せるだけで、かなり衝撃だし、夢中になっちゃう。僕ら世代は、そういうものを見て育ってきているんだね。だから「善は善、悪は悪」ってトートロジーが描かれてると、間違ってると思うし、それ以前に端的につまらない。「日本スゲー、中国は悪」って本当にクズだと思うのは、中国人の仲間どころか日本人の仲間さえいない「言葉の自動機械」なのもあるけど、つまらないことに浅ましく群がるからだよ。敵の中で味方を見つけ、味方の中に敵を見つけるのが、最もエキサイティングだ。それをコンテンツで体験してもらえる。なるほどってね。そうして初めて僕が言う「損得を超えろ」「法を超えろ」って言葉の本当のシニフィエが分かる。「世界は本当にそうなんだなー」って感覚が分かる。分かってほしい。
■確かにコロナはtogetherでいるのが難しい。だからtogether じゃないと伝えられないものは伝えられなくなりがち。だけど必ず何でそれを補うのか考えて欲しい。これからは放っておいたってバーチャル化やサイバー化が進む。コロナで10倍速で進んでいるだけ。どのみち起こることが起こっている。どのみち起こることは早く起こった方が、ゆでガエルにならないで気がつける。それだけのアドバンテージをゲインできてるんです。そこを意識できれば、後は自分で考えて、みんなと相談して、コンテンツを通じた体験デザインを工夫できる。自分が与えたい体験を与えられるかどうか考えて、コンテンツの一揃いを工夫していただくってこと。以上です。


【質問10: 体が勝手に反応するだけではダメ】

森山さん(質問者): 体が勝手に反応してしまうような体験っていうのは、自分もあるような気がするんですけど、それが宮台さんの仰っていることなのかが分からない。そういう体験に自信がもてないっていう点で共通感覚がないってことなんでしょうか。

宮台:■本質的な質問です。例えば、中国人って言うだけで「てめぇ、中国に帰れ!」とか、安倍さんが黒川問題で批判されてるだけで「安倍さんがかわいそうじゃないか、安倍さんが自殺したらどうするんだ!」とか。自分が排斥しようとしている中国人の悲惨に寄り添うことがないのに。単なる「言葉の自動機械」なんですね。僕は元々、言葉の働きと体の働きの間のリンクに興味があるんです。例えば、言葉に神経症的に固着する人って、言葉だけで「鳥肌が立っちゃったり」「足がすくんじゃったり」する。「ヤクザは怖い」なんてのが典型です。「言葉の自動機械」のなせる技です。だから、体が勝手に反応してしまうからといって、決して「言葉の外」を生きていることにはならない。
■「右翼は怖い」なんてのもそう。右翼って、ある時代から怖い人を意味するようになった。僕が10年ぐらい前から「ウヨ豚!」とか「アメリカの糞がついたケツ・を舐める首相の糞がついたケツ・を舐めるだけのウヨ豚のクズ!」とかラジオで言ってきた。するとディレクターが「宮台さん、よく怖くありませんね」って言うのね。「えっ? 怖い? あんな駄文を書いてるヤツの顔が浮かびませんか? ヘタレに決まってるでしょ」って返してた。今はウヨ豚なんて誰も恐がらないけど、10年前はまだ恐がられていた。以上です。


【質問11: 五感すべてを使うという料理の優位性】

松本さん(キュレーター): 共通感覚を取り戻すために、特に料理が持っている、まぁ料理だけじゃなく虫を捕るとかいろいろ体験はあると思うんですけど、料理だからできる可能性みたいなのって、宮台さんはどのようにお考えなのかを伺いたいです。

宮台:■昭和の時代は、夕方にオモテを歩くだけで、今よりもっと食べ物の匂いがしたんです。味噌汁の匂いだったり、カレーの匂いだったり、「おぉ、ここ、スキ焼きの匂いしてるぜ!」みたいな。今は夕方歩いても「なんでこんなに匂いがしなくなったんだろう」っ思います。これも重大な問題です。五感すべてを使う体験って、今は結構珍しいですよね。でも料理ってどうですか。五感を全部使うよね。五感全部使っているから、匂いを嗅いだだけで、食卓の風景が浮かんで、ニコニコしながらスキ焼きを食ってるガキンチョの姿が見えてきたりする。こういう感覚が昭和なんですよ。
■昭和では61歳って本当ジジイだった。だから僕はもうジジイです。僕や清水さんを含めて昭和のジジイをリスペクトしてほしいです。みんながみんなじゃないと思うけど、結構みなさんが知らない体験をしてきた人がいっぱいいる。料理のいいところは、料理と無関係に生きてきた人がいないことと、料理から時代ごとの社会的な文脈を誰でも想像できること。だから、ジジイやババアにとって料理が何だったのかを訊いて、今の自分たちと比べることができ、自分たちを反省できる。話を聞けば自分たちにかけている体験が何なのか分かると思うので、昭和のおじいちゃんをリスペクトしてほしい。


【質問12: ウーバーイーツの配達員に子供が憧れるのはなぜか】


住田さん(キュレーター): 私も昭和生まれですけれども、令和を考えると東京でよく見かけるUber Eatsの配達員の人たちなんですけど、子供たちが配達員を見ると喜ぶんですね、カッコイイと。自分たちもなりたいと。これは宮台さんのいう感染に近いのかなと。料理について外部化しているんだけど、共感しているのかなと。分業化してるんだけど、分業化している人たちにも共感する部分が令和の時代にはもしかするとあるのかなと思った次第です。

宮台:■住田さん、すごく敏感なアンテナですね。それは料理を運んでるからだと思うんです。さっきの五感を刺激する料理。これを運んでいる。ってことは「幸せを運ぶ人」なんですよ。単に荷物を運んでるんじゃない。そこが子供達にとってリスペクトの原点なんじゃないかな。「幸せを運ぶ」っていえばサンタクロースですね。もちろんUber Eatsの配達員が背負うボックスもかっこいいし、あの黒いTシャツのコスチュームもかっこいいけれど、「幸せを運ぶ」人だから喜ぶってことが絶対にある。昔は自転車の片手運転で、もう片手で盆にのった丼を運んでいる出前屋がいましたけど、やはり「いいな」って思いましたもん。あの先に食べる人がいるんだなって思うと、ステキな気持ちになった。


【クロージング】


鶴田: 今日は遅くまでありがとうございました。本当に盛沢山でかなり抽象度の高い話から、具体的な話まで伺えて本当に面白かったです。


宮台:■鶴田さんのおかげです。まだ20代でしょ?

鶴田:30歳です。


宮台:■今どき珍しい、本当に絵にかいたような好青年ですね。僕は必ずそういうときには、そうならざるを得ない闇もあったのかなって思うんで、そのうち鶴田さんの闇も伺うことがあるのかなと楽しみにしています。

以上