若松孝二特集「道徳のゲリラ」での90分トークを連投ツイートしました(まとめ)
投稿者:
miyadai
投稿日時:2014-10-21 - 09:15:09
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宮台の近況 -
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(1)一昨晩(14.10.19)ポレポレ東中野・若松孝二監督特集「道徳のゲリラ」の上映後18時30分からの、当日上映作品、日本暴行暗黒史・異常者の血(1967)、続日本暴行暗黒史・暴魔(1967)、日本暴行暗黒史・怨獣(1970)、新日本合法暗黒史・復讐鬼(1968)を踏まえたトークを担当しました。
(2)異例の90分をもらったので映画トークで初めてメモを用意。①初期作品(足立正生とのコンビが中心の72年迄の作品)が第1期(65〜68年)と第2期(69〜72年)に分かれる事、②65年以前のピンクの流れ(武智鉄二等)と初期第1期の差異、③初期第1期と第2期の差異、③初期を終えて捨てられたものを話しました。
(3)若松監督([抑圧/解放」コード)と足立監督([呪縛/克己]コード)の差異についても語った。満を持して受付前で待機していたら「やぁ宮台」と足立監督登場。げげっ喋りにくくなる! 前回のトークイベントで、直前の仕事が押して遅刻したら、「殺すぞ」と脅されたのもあり、ビビる。以下トーク要約。
(4)60年頃から始まるピンク史。元は[強者/弱者]コード。典型は武智鉄二「白日夢」「黒い雪」。[強者/弱者]は[内地/沖縄][米国/日本]。時間軸では復讐モチーフ。同時代の貸本漫画や今村昌平監督「赤い殺意」やその影響下の昼メロに共通。それが65年に転機。若松孝二・山本晋也らデビュー。
(5)ピンクは[ドカタ的なもの→予備校生的なもの]と転換。[強者/弱者]コードから[大人/若者]コードへ。言い換えれば[非本質/本質]ないし[内在/超越]コードへ。トリュフォー『大人は判ってくれない』の邦題が指し示すもの。予備校生はたとえ裕福でも鬱屈するが、弱者ではない。
(6)若松×足立も65年以降の「予備校生的なもの」を体現。例えば「復讐鬼(68)」「暴虐魔(67)」は一見[強者/弱者]コードを用いた逆転(復讐)モチーフ。因みに「復讐鬼」は1938年津山30人殺しに、「暴虐魔」は1946年小平事件が題材。暗黒史シリーズ当初は現実に題材をとることが目差されていた。
(7)吟味すると[強者/弱者]ならぬ[大人/若者](非本質/本質)コード。具体的には子宮回帰モチーフ。「復讐鬼」での原事件(津山)と映画の差異に注目。当時は夜這いが普通。犯人も村内の多数の女と関係。だが結核を患い徴兵検査失格。親しかった女達からクズ扱い。自己回復のために30人殺害。
(8)映画では設定変更。主人公と家族は肺病病みの「血筋」として激烈に差別。周囲の差別感情を利用し田畑の奪取を企む村長ら。母は暴行死。妹は輪姦され狂気に。侮辱された自らの為(原事件)でなく、凌辱された母妹の為の復讐。妹との添寝から自決へ。近親姦よりも母性回帰・子宮回帰を連想させる演出。
(9)「暴虐魔」には「血」モチーフなし。イジメられっ子の若者。馬鹿にし拒絶した女を暴行殺害、防空壕に蒐集。壕はパラダイス。生きた女達が送迎するとの妄想。性欲よりも承認欲に応える女達。まさに子宮回帰のモチーフ。復讐モチーフに併せて「ここではないどこか」としての母性回帰=本源回帰モチーフ。
(10)これらの脚本は足立(「暴虐魔」は原案を山下治に譲渡)だが「血」が反復。今回上映の「復讐鬼(68)」「異常者の血(67)」「怨獣(70)」にも登場。足立監督作品「堕胎」「避妊革命」「噴出祈願」にも。「胎児が密漁する時」冒頭ヨブ記:あなたが私を産み落とさねば苦しみはなかった。「血」=産み落とされた事への呪詛。
(11)子宮回帰モチーフは同時代ドイツのマルクーゼに連動。彼はテクノロジカルユートピアを構想。ゆえに米国礼賛だとの誤解も。彼が待望したのはテクノロジカルカオスモス。J・G・バラード『クラッシュ』のビジョン。科学が主体の同一性を解体。個体である事の負担から解放。科学が可能にする子宮回帰。
(12)かかる「科学と反啓蒙(反主体主義)の結合」は足立監督「堕胎」「避妊革命」のビジョンと同一。[マルクーゼ=バラード=足立正生]の稀有な系譜。源は19世紀。フランス革命後の意図せざる帰結ゆえ〈反啓蒙の思考〉が席巻。代表は保守主義・無政府主義・マルクス主義・社会学主義。フロイトも同じ。
(13)戦間期の〈性〉と〈科学〉の上昇も総力戦後の〈反啓蒙の思考〉を象徴。〈性〉は常識を越えた〈人の摂理〉を明るみに(無意識!)。〈科学〉も常識を越えた〈世の摂理〉を明らかに(不完全性定理!)。戦間期前期(1920年代)には先進各国でエログロナンセンス(米仏では「狂騒の季節」)と科学的実証主義が並行。
(14)これが1960年代に反復。それが[マルクーゼ=バラード=足立]の〈科学による主体解体=子宮回帰〉。反復の理由は旧枢軸国の二重の挫折。第1挫折=経済成長がもたらした「こんなはずじゃなかった」(今村昌平「人間蒸発」)。第2挫折=新左翼運動がもたらした「こんなはずじゃなかった」(足立「ゆけゆけ」)。
(15)第1挫折が「ここではないどこか」としてのキューバや北朝鮮への〈憧憬〉を生む。第2挫折が「ここではないどこか」への〈憧憬〉と「どこかに行けそうでどこにも行けない」という〈断念〉の結合を生む。〈憧憬〉と〈断念〉の結合態が生む不可能性の意識(反主体主義)が〈科学による主体解体=子宮回帰〉へ。
(16)[①高度成長による挫折、②革命運動による挫折]の二重の挫折の、前者①を焦点化するのが若松×足立の初期第1期。「高度成長による挫折」が[強者/弱者]を無効化。貧者(弱者)が裕福(強者)になったのに「人間蒸発」。かくて[強者/弱者]から[非本質/本質](内在/超越)へのシフトが生じた。
(17)初期第1期の本日4作は、血(産み落とされた事への呪詛)ゆえの「ここではないどこか」の希求としての子宮回帰。初期第2期「ゆけゆけ」「理由なき」は①に併せ②を焦点化するから「ここではないどこか」への希求と同時に「ここではないどこか」は〈ない〉との断言。「どこかに行けそうでどこへの行けない」。
(18)実際、初期第1期は「女(子宮)による救い」を描くが、初期第2期は「救ってくれるはずの女(子宮)による裏切りや突き放し」を描く。ただ初期第1期にも先駆が。唐十郎脚本・主演「犯された白衣(67)」。看護婦寮で女達を惨殺した少年は子守歌をうたう少女の膝枕で胎児化するものの、通報され終了。
(19)以上、まず、若松×足立以前のピンク伝統と若松×足立作品との差異、次に、若松×足立作品の初期第1期と第2期の差異について述べた。各々[①高度成長による挫折、②革命運動による挫折]というこの順で生じた社会的現実を厳格に文脈とする事情を話した。図式の詳細は拙著「サブカルチャー神話解体」。
(20)[足立監督の乱入以降]若松監督と足立監督の差異。若松監督は[抑圧/解放]モチーフ。足立監督は[呪縛/克己]モチーフ。若松監督は〈社会〉寄り。足立監督は〈実存〉寄り。この化合が初期作品の高度な達成を可能に。足立的[呪縛/克己]モチーフが判りやすいのが究極の傑作「銀河系(67)」
(21)若松的[抑圧/解放]モチーフは耐用年数が短かった。70年代半ばの宮台世代の[政から性へ][独的ロマン主義から仏的ロマン主義へ]を経て、80年代半ば迄に[性への疎外(ナンパ系)/性からの疎外(オタク系)]という〈自己のホメオスタシス〉問題にシフト。やがて「自分を抑圧するのは自分」に。
(22)この問題シフトに対応する若松作品が「キスより簡単(89)」。90年代の性的カオス時代を先取り。この性的カオス時代をフィールドワークしたのが宮台。宮台が女子高生ネットワークをマスコミに接続したことで流行が加速したのが援助交際。若松と同じく宮台にも「性による政の無効化」が頭にあった。
(23)だが「性による政の無効化」は幻想である事が90年代末迄に明らかに。若松的[抑圧/解放]は最終的に延命不能になり、足立的[呪縛/克己]モチーフのみ残存。さて問題の「70年代半ばから世紀末まで」足立監督は国際指名手配で日本に不在。日本帰還後タイムリーに[呪縛/克己]の時代が開始。
(24)それは今も続く。その意味で現在は足立監督の[呪縛/克己]モチーフの新作が待望される。宮台が企画し原案を提示した作品(『なりすましimpersonation』)が予算2億で制作開始寸前まで言ったが、足立監督の経歴で経営陣がビビって頓挫。足立監督の新作を支援するスポンサーを募集したい。
(25)以上が当日のトーク要約(一部補足)です。因みに今の足立プロのマネージャーは足立監督が74年に離日する直前の『15才の売春婦(74)』で女子高生を演じたマキコ・キムさん。映画冒頭「(学校の先生を相手に売春をして)感じたって体のどこでどう感じたのよ」という台詞を言う美しい子が彼女です。
(26)今もお顔は当時の面影のままの美しい方。一昨日彼女とお話しをした際に気づいたけれど、足立監督の日本帰還直前まで僕が売春女子高生のフィールドワークをしていた実存的な背景動機の一つに、40年前(中学3年)に見た「15才の売春婦」の影響があるかもしれない。なんという因果なのだろう/終了
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