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土屋豊監督の奇蹟の映画『タリウム少女の毒殺日記』に寄せて

投稿者:miyadai
投稿日時:2013-06-27 - 16:59:18
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(0)
注意:ネタバレがないように注意していますが、敏感な読者にはそれでもネタバレとなります。


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土屋豊作品がいよいよ社会的実践へと昇格した
〜映画『タリウム少女の毒殺日記』に寄せて〜
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【土屋作品に共通するモチーフとは】
■土屋豊監督の諸作品における共通のモチーフは、この〈社会〉を如何に耐えて生きるのか、ということである。『新しい神様』ではバンド活動や右翼活動がもたらす祝祭が、『ピープTVショー』ではカメラを通じた窃視が、耐えて生きるための知恵を与えていた。
■耐えると言ったが、何を耐えるのか。特殊な工夫なくしては耐えられないという場合、何に耐えられないのか。土屋豊はそのことについて語らない。これから述べるが「語らない」ことが極めて重要だ。なぜなら耐えられなさをもたらす何かが極めて抽象的だからだ。
■この抽象的な何かを「ポストモダン」と取り敢えず名付けよう。人は従来〈ここではないどこか〉を夢想することで〈社会〉に耐えてきた。正確にはハイデガーの思考が示す通りだが、〈ここではないどこか〉の予めの喪失が「ポストモダン」の本質を意味するのだ。

【ここではないどこかを求める傾動】
■ハイデガーによれば、人間は理性的存在だ。理性的とは、この場合、計算能力や論理能力を意味するよりも、どんな「ここhere」に対しても「ここではないどこかelsewhere」を対置できる力を意味する。この理性の存在ゆえに、人は幸せになることができないのだ。
■社会が良くなれば人は幸せになれるだろうか。確かに悪い社会ゆえに人々が不幸になることがある。だから、悪い社会を良い社会に変えて人々を救おうとする世直しが存在する。でも、ハイデガーに従えば、たとえ革命に成功しても、人間はやはり幸せになれないのだ。
■革命とは〈ここではないどこか〉を〈ここ〉にもたらす営みだ。だが革命がもたらした理想社会という〈ここ〉に対してもやはり人は〈ここではないどこか〉を夢想してしまう。更にその〈ここではないどこか〉を〈ここ〉にもたらしても、同じことの繰り返しである。
■彼は、〈ここ〉から〈ここではないどこか〉への傾動を「脱自=エクスタシス」と呼び、〈ここ〉に「非本来性」を、〈ここではないどこか〉に「本来性」を配当する。だが既に述べたが、人が「本来性」を獲得することはない。「本来性」はどこにもない=nowhere。
■こうした[now here(今ここ)⇒elsewhere(ここではないどこか)⇒nowhere(どこにもない場所)」というダイナミクスを与えるものが理性なのだ。因みに、「社会が良くなれば人は幸せになれる」とする「旧左翼」に対し、それを否定する勢力が「新左翼」だ。
■また、「人が幸せになれるのは然々の社会だ」という具合に「人が幸せになる社会」を規定できるとする立場を「主知主義」と呼び、「どんな社会をもたらしてもそれで人が幸せになるとは言えない」という具合に、規定可能性を否定する立場を「主意主義」と呼ぶ。
■紀元前5世紀以来の思想史を踏まえれば、左とは「主知主義」であり、右とは「主意主義」である。その意味で、意外かもしれないが--学問的には常識だが--、当時からして「マル存主義(マルクス主義的実存主義)と呼ばれた「新左翼」は、思想史的には右の系列だ。
■ハイデガーの立論からも分かる通り、人が前に進み続けるのは、永久に〈ここではないどこか〉を求め続けるという、理性のダイナミクスが与える〈内から湧く力=virtue〉による。ハイデガーによれば、virtue(力)は、理性が与える〈不在への傾動〉によるのだ。

【ポストモダンというアンチノミー】
■さて、ポストモダンの本質は、〈ここではないどこか〉への傾動自体を不可能にするような、挫折の先取りにある。ポストモダンにおいては、どのような全体をも部分に対応づける「アイロニー=脱臼的なコミュニケーション」が、圧倒的に優位にならざるを得ない。
■例えば、どんな崇高な超越も、どんな壮大な世界も、それを夢想するショボイ個人に対応づけられる。リオタールがポストモダンを「大きな物語から小さな物語へ」というふうに述べたのも、正確には、物語の大きさよりも、今述べたような脱臼に注目してのことだ。
■こうしたポストモダン化が何ゆえもたらされたのかは長い話になるので述べない。但し、ポストモダン化が、「言語ゲーム論」や「社会システム理論」のような認識---全ては閉じたゲームの内部イメージに過ぎない云々---の一般化と結びついていることだけを確認する。
■ポストモダン化は、深刻なアンチノミー(二律背反)をもたらす。ハイデガーの言うように、人は〈ここではないどこか〉への傾動を持つ。というか、そうした理性的傾動ゆえに人は人なのである。つまり人はどんな〈ここ〉にも自足できない奇妙な存在としてある。
■ところが、ポストモダン化は、かかる傾動がもたらす夢想を含め、全ては〈ここ〉にしか過ぎないと予め登録してしまう。人は〈ここ〉には耐えられないというのに、〈ここではないどこか〉は予め--当初から--脱臼させられてしまうのだ。これはマズイ展開である。
■かかる脱臼的登録はモダンにはなかった。だからハイデガーのような認識が画期的だったのだ。いずれにせよこうしたマズイ展開に対処するための工夫が各人に求められるようになる。土屋作品が「何に耐えられないか」を具体的に語らぬことの妥当性は以上である。

【レイヤーずらしという新たな作法】
■さて土屋作品は、ポストモダンの深刻なアンチノミーに「耐えて生きる」ための作法を示し続けてきた。今回示されたのは「祝祭」でも「窃視」でもない新しい作法である。一口で言えば、それは〈世界〉認識のレイヤーを、上方ないし下方にずらす、という工夫だ。
■レイヤーを下方にずらせば、『ミクロの決死圏』ではないが、臓器レベルや細胞レベルの同一性のみが浮上し、人間的同一性が消滅する。上方にずらせば、浦沢直樹『モンスター』はないが、「人が蟻のようだ」というリアリティが浮上し、人間的同一性が消滅する。
■そうすることで、映画の主人公がそうだったように、細胞や臓器を「観察」したり、巣に出入りする蟻を「観察」したり、という「観察のリアリティー」のみが前景化し、逆に、人と人との関係--いわゆる人倫--が一挙に後景化して、人倫のゲームを生きずに済むのだ。
■こうした「レイヤーずらし」の作法は、拙著『透明な存在の不透明な悪意』で記したように、酒鬼薔薇聖斗が採用したものだったかもしれないが、いずれにせよ、『新しい神様』が示した「祝祭」や『ピープTVショー』が示した「窃視」と、機能的に等価な戦略だ。
■その意味で、主人公の生きづらさをもたらすものが、うざったい母親や、スケベな担任教師や、イジメを常習化した同級生だなどと、安易に理解してはいけない。実際に主人公が、そうした理解が間違っていることを明言しているが、そこを見過ごしてはならない。
■まして主人公を「生きづらい系」などと分類したり、本作品を含めた土屋作品一般を「生きづらい系映画」などど分類することは適切ではない。本作品が極めて鮮烈な印象を残すのは、既に述べたように、ポストモダンの普遍的アンチノミーを耐える知恵を描くからだ。

【社会との取り引きを推奨する実践】
■ポストモダンとは何かを土屋作品ほど明確に描いた映画を他に知らない。土屋豊の天才はポストモダン化が実存に与える衝撃をモノの見事に描き切る。この映画を見た敏感な観客は、自分の生きづらさが自分の特殊事情に基づくものではないと知って安心するだろう。
■だがこの映画は、土屋作品が一般にそうであるように、最終的には解放というものが本質的にあり得ないことを示す。そう。それがポストモダンなのだから仕方ない。そのことはとりあえず絶望的だと言えるが、この映画を最後まで見て抱く感慨は絶望とは少し違う。
■この映画のラストは開放感ないし解放感を与える。なぜか。主人公が母親へのタリウム投与を中止した理由が答えになる。ポストモダンの普遍的アンチノミーを、「耐えて生きる」ための機能的に等価な選択肢が、数多存在するという事実に、主人公が気づくに至る。
■ポストモダンが明らかにする人倫の「ウソ社会」や「クソ社会」から、自らを距離化するための有効な手法がいろいろあるということへの、気づきだ。「祝祭」然り。「窃視」然り。「レイヤーずらし」然り。「インプランティング」然り。「タトゥーイング」然り。
■たとえ、それが「ウソ社会」であれ「クソ社会」であれ、社会が禁圧する手法を使えば、自分と社会の間のファインチューニングの結果がどうあれ、隔離と処罰という不利益を被ってしまう。であれば、社会と取引しながら手法を選んだほうが、得策であると言えよう。
■その意味で、この映画は、一見エグイ表現が散りばめられていると見えて、実は社会的な映画である。正確に言えば、映画自体が「呼びかけ」という社会的実践を構成している。その意味で、この映画は、単なる「観察」ではなく、世界を変える「行為」としてある。
■あえて映画の難点を述べれば、主人公を演じる倉持由香が色っぽすぎることだろうか。これだけ性愛的なリソースに恵まれていれば、別のファインチューニングの方法があるのではないか……などと要らないことを考えてしまう。まあ、営業上のフックだと考えよう。