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『人格障害のカルテ』出ました!

僕が久しぶりに戦後郊外化を人格障害と絡めて論じた座談が掲載された本が批評社から出ました。精神科医の高岡健氏らと長い座談会に参加しています。高岡氏とは近刊書『教育「真」論』もごいっしょしています。日本で三指に入る有数の鑑定医です。一部を紹介しましょう。


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宮台●僕自身も戦後の日本に限定はしていますけれども、<郊外化現象>を研究してきています。それと密接に関係する形でサブカルチャーの研究──マンガとか小説とか映画なんですけれども──の研究もしています。それによると、日本の<郊外化現象>は前期と後期に分けられます。前期を<団地化>と呼び、1956年に千葉ニュータウンができて以降、大阪万博ぐらいまでの時期に当たります。後期を<ニュータウン化>と呼び、近代成熟期が到来してから──すなわち高度経済成長時代が終わってから、あるいはモノの豊かさが国民的な目標ではなくなってから──以降の展開のことを指します。
両方とも似た部分があるのですが、ずいぶん違う部分もある。<団地化>は、僕自身59年に団地で生まれ育っているので、初期の団地のことはよくわかるのですが、まずニュータウン的なものと比べて、団地の中でコミュニケーションが閉じていることがない。小学校に行けば、団地の子もいれば、農家の子もいれば、地元商店街の子もいれば、医者の子もいれば、ヤクザの子もいるという具合で、サラリーマン的作法とは違った作法を持つ家の子といっしょに遊ぶのが当たり前でした。だから、モノサシの多元性があったし、まぁ息苦しくなかったと言える。
ただ、そのころサブカルチャーに刻印された不安を見ると、非常に面白いのです。東京オリンピックの頃からいわゆる“呪い”モチーフが出てくるんですね。典型的なのは白蛇モノで、楳図かずおや古賀新一によって何度も描かれています。これらは、要は「自分たちが今住んでいる場所がもともとどういう場所だったのかわからない」という不安と結びついています。実際に当時の雑誌記事にはこういうタイプものが頻出します。団地の同じ部屋で連続して焼身自殺が起こったり、ある棟で犯罪が頻発したりする。調べてみると、お墓を移動していたりとか、ほんとは祟り神じゃないから変ですが、祠をつぶしたり、地蔵を勝手に移動したりしていたらしいとわかってくる。そこで神官やらのエクソシストを呼んできてお祓いする。すると、まるで嘘のように自殺も事件もパッタリとなくなるということがあると。実は私の父親がビール会社に勤めていたのですが、その社宅でもまったく同じことがあって、子ども心にもわくわくしました。本当にマンガに書いてあることと同じようなことが起こっているんですからね。
典型的な作品として『白へび館』(古賀新一 1970 白へび館 ひばり書房 2巻)を紹介すると、父娘が乗った車が白蛇を轢き殺す。「誰にも言っちゃダメだよ」「なぜ?」「白蛇の呪いは恐しいと言われているから」。その後、すっかり忘れて暮らしていたら、ふと気がつくとお父さんのほっぺにウロコが、お母さんの糸切り歯が伸びて・・・そういう話なんですよ。
高岡●古賀新一・・・。
宮台●高岡先生、さすがお詳しい(笑)。まさに団地的不安を象徴する作品です。
ところがそういう不安は、<ニュータウン化>の時代には消えてしまう。<団地化>の時代には、農村共同体から出奔してきた人たちが団地に住んだから、来歴の不明な場所でコミュニケーションの希薄な生活を送ることで、共同体的アノミーに陷りました。でも<ニュータウン化>の時代になると、共同体が空洞化する以前の記憶を持たない人が主流派になって、そうした不安は消えてしまいます。
かわって<ニュータウン化>の時代に問題になるのは、ある種の均質化です。「外がない」感じですね。僕は教育とのからみで“<学校化>に引き続いて<第四空間化>が起こる”と言っています。<学校化>とは、家も学校も地域も、単一の学校的な物差しで覆われてしまう現象です。<第四空間化>とは、こうした均質化に抗う形で、若者たちが、家でも学校でも地域でもないところに居場所を定める現象です。要は、都市工学的な設計の問題ではなくて、高度成長時代が安定成長時代に移ったときに──近代過渡期が近代成熟期になったときに──コミュニケーションの大きな変化があったんです。その変化が、家族の問題に集約されるんですよ,高岡先生も仰ったように。


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投稿者:miyadai
投稿日時:2004-06-01 - 14:59:52
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『別冊歴史読本』宮崎学さんとの対談

先日、一部を広告的にアップしましたが、正式タイトルは「差別・被差別からの解放、そして、アジア的相互扶助の可能性へ」となっております。先日の部分はあとがき的てずが、本論には3つの柱があります。その1つについて、さわり部分をアップします。

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宮台 飛鳥時代から奈良時代に変化していくとき、継体帝以前と以降、仏教導入以前と以降と表現しても構わないし、日本が身分階級制国家として再組織されていく前と後といってもいいのですが、そこに存在する差異に、今こそ注目しなければならないと思うんです。社会システム理論では「環節的社会から階層的社会への変化」と呼ぶんですが、この時期に「貴賎」の問題と「聖穢」の問題が重ねられる、それも統治権力によって人為的に重ねられるようになるんです。伏線として言っておくとアナ派・ボル派だと、天皇制打倒を主張していたのはボル派の方で、アナ派の方々でははなかったんですね。
宮崎 アナ派は天皇が好きだった(笑)。
宮台 そうなんですよね。そこにこそ、実は本質的な捩れがあるんです。アナ派は、階級問題には解消できないような、ある種の民間宗教的コスモロジーの問題、穢れ観の問題を、提起し得る視角を持っていたわけですが、もし穢れ観を社会から払拭しようとするならば、論理的には「穢れたるもの」の反対側にある「聖なるもの」をも払拭しなければならない道理です。その意味では、天皇制を打倒しなければならないのは、むしろアナ派なのです。
 これはあくまで論理的な問題です。「聖なるもの」があるからこそ「穢れたるもの」があり、「聖なるもの」と「穢れたるもの」の中間に、社会学でノモスと呼ぶところの、穢れてもいないし聖でもない状態、ハレとケで言うとケの状態がある、という話になるんです。ちなみに、穢れとは「ケ(生気)が枯れている」ということに他なりません。
 いずれにしても、アナ派こそが、「聖なるもの」を撃たずしては「穢れたるもの」を救済できないという問題意識を持つべきなのに、そこが捩れてしまっているわけです。皮肉なことに、飛鳥時代以前の、階層的な社会構成になる以前の日本社会の在り方においては、犬神人や陰陽師のルーツにあたる人たちがそうであるように、出発点において「穢れたるもの」とされた人たちは、はっきりと申し上げると、もともと「聖なるもの」の側に属した人たちなのです。そういう歴史ゆえに、天皇的なるものを肯定する身ぶりによって「自らは聖なる者なり」と自己規定しようとするのは、それなりに筋が通っているんです。
 にもかかわらず、天皇的なるものを肯定する身ぶりこそが、「聖なるもの」と「穢れたるもの」という対立を温存させるように機能するんです。アナ派は、そういうアンビバレントをかかえこんでしまったのです。これをどうしていくのかという問題は、しかし水平社運動の中に出発点からして潜在的に書き込まれていた大問題だったのではないでしょうか。この問題は天皇制をどうするかを考えるときにも避けて通れない鬼門なのですが、どのように科学的に思考しても解決が非常に難しい問題なんです。
宮崎 水平社運動の初期の代表になった西光万吉は、奈良の柏原のお寺の息子ですが、西光万吉は一時、共産党員になります。3・15の大弾圧で治安維持法により刑務所に入って天皇主義者に転向します。天皇主義者に転向したときに物凄いことを言っている。天皇制は母権制社会で誕生したのだから、再び母権制社会ができれば差別はなくなるんだという発想を持つもわけです。共産党のボル派の人間は西光万吉が転向して、自分が転向することによるメリットを得て、生き延びようとするために言ったことであると紋切り型の批判をするわけです。しかし、実はそうではないのですよね。西光万吉は春日庄次郎など他の共産党員と一緒似た伊保されましたが、逮捕されたとき特高警察から誉められるわけです。逆に他の連中は「西光万吉は偉い奴だ。お前らは天皇制打倒といってけしからんが、西光万吉はちゃんと考えて天皇制に帰依した、お前たちも見習え」とみんなの前で面罵される。治安維持法は教育刑ですから、刑務官は共感と呼ばれるわけで、先生なんです。そのとき西光万吉は春日庄次郎をかばいます。「私は自分の意志で考えて転向した。春日庄次郎は自分の意志で貫いている。だから、私が誉められても困る」ということを言います。刑務官に誉められたことによって、西光万吉は不利益を受けるわけです。たぶん、西光万吉の転向というのは、本当にそう思って(考え方が変わって)転向したのであって、偽装転向ではない。だから、彼は戦後、二回ほど自殺を企てるまでに追い詰められることになります。西光万吉が考えたのは、被差別部落の立場から天皇制を考えた場合、むしろ母権的な当初の天皇制に戻れば、差別もなくなる、それが一番いい社会だということを言っているわけですが、その心情は、被差別部落にあったと私は思います。

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投稿者:miyadai
投稿日時:2004-06-01 - 11:12:44
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『21世紀の現実』絶好調御礼!

弟子たちの出した本をチャーリーが告知しましたが、初週BK1で人文書2位、総合3位と絶好調です。お買い上げいただいた方々に御礼申しあげます。
なお、売り切れの節は、東京地区にお住まいの方は、三省堂書店神田本店が大量発注しておりますので、容易に入手できます。下の『別冊歴史読本~サンカ・被差別民~』については既に売り切れ続出ですが、上記のお店で水曜日以降に入手可能です。
投稿者:miyadai
投稿日時:2004-05-30 - 16:22:44
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『別冊歴史読本』でました!

先日一部をここにアップした宮崎学さんとの濃密な対談が収録されています。なぜか誤植が多いのですが、宜しくお願いします。
投稿者:miyadai
投稿日時:2004-05-30 - 15:11:55
カテゴリー:宮台の近況 - トラックバック(0)

右翼思想からみた、自己責任バッシングの国辱ぶり

■援交フィールドワークをしつつ女子高生を擁護していた頃の私は「自己決定=自己責任
原則」を旗印にしていたが、「人は自分のことを決定できない」「人は自分の責任を取り
きれない」など稚拙な批判に遭った。
■イラク人質事件での「自己責任」大合唱を聞くにつけ、「自己決定=自己責任原則」の
専門家たる私としては心強い限り(笑)。と思ってよく聞くと「政府に逆らう奴は自分で
ケツを拭け」だと。三度ヘソで茶を沸かした。
■政治家から国民までこれほど民度が低いとは。福田元官房長官は「政府に迷惑をかけて
おいて」だと。「外務省職員は寝てないんだ」とさ。雪印食品の社長に噛みついた記者の
「俺だって寝てないんだ」発言を思い出す。
■取材で眠らないのは記者の仕事。パスポートを持つ国民の救出で眠らないのは役人の仕
事。国民の憲法的命令に服するは公僕たる役人の本務。犯罪者だろうと国民救出に全力を
尽くすのは憲法的義務。寝ないでやれ。
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■政府組織や軍隊に先立って非政府組織(NGO)が現地活動するのは国際常識。この者
たちの命を危険に晒すのが所属国の出兵だというのも国際常識。それを知りつつあえて出
兵した「国民的決定の自己責任」が問われるのも国際常識。
■アフガン攻撃開始後のテロ特措法審議で参考人に呼ばれたペシャワール会の中村哲氏。
イラク攻撃開始後のイラク特措法審議で参考人に呼ばれた放射能研究者の藤田祐幸氏。
NGO活動の大御所たる両名が揃ってこれら国際常識を弁えよと主張した。
■「国民的決定の自己責任が問われる」の意味が日本人には分からないだろう。ここでの
焦点は「立場可換の想像力」だ。パウエル国務長官の「命がけで活動する者がいるのを誇
るべし」の発言もこれに関連する。
■冬山の軽装登山で遭難した者が自己責任を問われ、捜索した現地山岳団体から費用の一
部を請求されるのは珍しくなくなった。今回は政治家たちがこの例をしばしば持ち出して
いる。
■一民間団体の費用請求を、憲法上の国民保護義務を負う政府による費用請求と同列に論
じるアホさは置く。アホの尻馬に乗った国民について言えば、税金の使い道にクレームを
つけるのは「タックスペイヤー意識の向上」でよろしい(笑)。
■問題はその先。歌舞伎町が危険地帯だと知って犯罪に遭う場合、「危険と知って出かけ
た以上、自己責任たから費用を払え」との議論は出てこない。寝煙草で失火する場合もそ
う。なぜか。要は「明日は我が身」的な「立場可換の想像力」が適用されるから。
■アダム・スミスが『道徳感情論』で述べた市民社会の基本たる「観照的態度での同感可
能性」。ジョン・ロールズが『正義論』で述べた公正の基盤としての「無知のベール下で
の態度」。共に「明日は我が身」の想像力に言及する。
■現地NGO活動について「今回行かなかったが自分もいずれ行く」「自分も行きたい」
「周りに行っている人が沢山いる」とのコモンセンス(共通感覚)さえあれば、「費用を
払え」は出て来ない。
■逆に言えば「費用を払え」大合唱は、危険を顧みぬNGO活動に対し「明日は我が身」
と連なるコモンセンスを持ち合わせるかわりに、「奇人扱い」して切り離すだけの、国辱
的な民度の低さをさらけ出す。
■元人質のうち二人が、同じ日にまず弁護士会館で日本人記者相手に、ついで外人記者ク
ラブで外国人記者相手に記者会見した。二人の発言は同じだったが、記者の雰囲気が対照
的なのだ。
■日本の国辱記者どもは「迷惑をどう思うのか」「謝る気はないのか」と頭を下げさせよ
うとする。外国人記者たちは「よく帰ってきた」「ご苦労さん」という雰囲気に満ち、「明
日は我が身」の想像力を示す。
■日本の記者どもの国辱ぶりは、NGOで人命救援活動をする者を「奇人」としてカット
アウトする民度の低さに留まらない。現地で記者活動をする者をさえ「賤民」としてカッ
トアウトする大手メディアの堕落ぶりも同じだ。
■後者は後で述べるが、前者はコモンセンスをめぐる民度の低さのみならず、国民概念へ
の無知をも露呈した。言うまでもなく現地NGO活動も現地記者活動も「ヒューマニタリ
アン的活動」たりうる。
■この活動たるや、自国政府の方針がどうあれ信念に基づく行動を貫徹する所にこそ、本
義がある。自国政府がお墨付きを与える活動のみに限定するなら「ヒューマニタリアン的
活動」が聞いて呆れる話。直ちに国際的な嘲笑の的だ。
■「自国政府が許容するものだけがヒューマニタリアン活動だ? バカか!」という程度
の話だが、この種のタワゴトが日本を埋め尽くすなら「国家の前に国民あり」とする近代
国家的理念への国民的無知を晒すことになる。
■国民は憲法的命令で国家を操縦する。これが常識。政府の言うことを聞かない国民は反
日分子とほざく議員がいた。法的命令がない限り政府の言うこと聞かないのが国民だろう
が。憲法に国民の義務を書けとほざく輩が議員を名乗る国ならでは。

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投稿者:miyadai
投稿日時:2004-05-30 - 14:49:26
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(18)
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