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まもなく、春の東工大国際シンポ『クール・ジャパノロジーの可能性』の書籍化版が出ます

NHKブックス1163
『日本的想像力の未来――クール・ジャパノロジーの可能性』
東浩紀 編
ISBN978-4-14-091163-1 C1330
B6並製/本文288ページ/定価1,155円(1,100円+税)
2010年8月28日発売


【執筆者】
東浩紀●批評家・作家。早稲田大学文学学術院教授。東京工業大学世界文明センター特任教授。
キース・ヴィンセント(Keith Vincent)●日本文学研究者。ボストン大学准教授。
ジョナサン・エイブル(Jonathan Abel)●日本文化研究者。ペンシルベニア州立大学准教授。
黒沢清●映画監督
河野至恩●比較文学研究者。上智大学国際教養学部准教授。
クッキ・チュー(秋菊姫:Kukhee Choo)●メディア学研究者。チュレーン大学助教。
ヘザー・ボーウェン = ストライク(Heather Bowen-Struyk)●日本文学研究者。ロヨラ大学シカゴ校教員。
宮台真司●社会学者。首都大学東京教授。
村上隆●美術作家
毛利嘉孝●社会学者。東京藝術大学准教授。
シュテフィ・リヒター(Steffi Richter)●日本学研究者。ライプツィヒ大学東アジア研究所教授。

【目次】
はじめに――東浩紀
Ⅰ 「日本的未成熟」の系譜――キース・ヴィンセント
Ⅱ アート界における“クール・ジャパン”の戦略的プロデュース法――村上隆
Ⅲ 日本映画と未成熟――黒沢清
Ⅳ 「かわいい」の本質――宮台真司
Ⅴ [討議]日本的未成熟をめぐって
    ――キース・ヴィンセント+黒沢清+宮台真司+村上隆+(司会)東浩紀
Ⅵ クール・ジャパノロジーの不可能性と可能性――ジョナサン・エイブル
Ⅶ プロレタリア文学のクールさの可能性――ヘザー・ボーウェン=ストライク
Ⅷ ヨーロッパにおける「クール・ジャパノロジー」の兆し――シュテフィ・リヒター
Ⅸ 一九九二年以降の日本のサブカルチャー史における意味論の変遷――宮台真司
Ⅹ トランスナショナルな「理論」の構築に向けて――毛利嘉孝
XI [討議]もう一つの日本学
    ――東浩紀+ジョナサン・エイブル+ヘザー・ボーウェン=ストライク+宮台真司+毛利嘉孝+シュテフィ・リヒター+(司会)クッキ・チュー
[総括]ポップカルチャー言説の「視差」から考える――河野至恩
投稿者:miyadai
投稿日時:2010-08-20 - 09:29:18
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直前ですがイベント告知です

議員力検定協会2010「夏」講座。
2010/08/07sat.-08sun.
あらためて日本の議会政治を考える。
参院選以後の日本の政治力・地域力~「地域主権」以前の根本問題Ⅱ~
8月7日(土)13:30-17:00・アルカディア市ヶ谷 Tel:03-3261-9921
一般2,000 円/ 学生1,000 円 ※受付は当日会場にて
お問合わせ/Tel:045-508-9826 Web:http://www.giinryoku.jp

初日は、首相補佐官として地域主権改革を担当されてきた逢坂誠二衆議院議員を迎え、地域主権改革が目指す将来の日本の政治と社会について考えていきます。パネリストとして、市民的な民主政治のあり方について議論を展開してきた政治学者・杉田敦氏、現在の日本社会の問題点を提起してきた社会学者・宮台真司氏、分権改革を論じてきた自治体学者・新川達郎が加わり、市民・政治・行政の関係と議会を関心領域とする廣瀬克哉の司会のもとで、将来の日本社会のあるべき姿について議論します。

・基調講演:逢坂誠二(衆議院議員・内閣総理大臣補佐官)
・パネルディスカッション
逢坂誠二
杉田敦(法政大学教授)
宮台真司(首都大学東京教授)
新川達郎(同志社大学大学院教授・議員力検定協会共同代表)
司会: 廣瀬克哉(法政大学教授・議員力検定協会共同代表)
投稿者:miyadai
投稿日時:2010-08-07 - 11:34:30
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シネマヴェーラの足立正生特集を記念して10年以上前の原稿をアップします

皆さんはシネマヴェーラの足立正生特集で『銀河系』をご覧になったのでしょうか。6月20日、6月23日、6月25日と上映されて、もう観ることはできません。特集自体は7月9日まで続いていますが…。ご覧になった方の参考のために、2000年2月に執筆した『映画芸術』の原稿をアップロードします。



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映画の中に自らの人生を組み込んでしまった足立正生の恐ろしさ
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■私が最初に見た足立正生の映画は『銀河系』で、中1のときである。京都から東京に出てきて進学した中高一貫校は、激烈な紛争校で、アングラ文化の巣窟だった。私は、先輩から教えられて、新宿文化地下「アンダーグラウンドの蠍坐」に、足立映画を見に行った。
■そのあと、池袋にある文芸地下劇場でしばしば特集される若松プロの映画を、片っ端から見まくった。特に印象に残ったのが、足立正生脚本『ゆけゆけ二度目の処女』で、学校の屋上で過ごすことが多かった私には、この「屋上映画」は我がことのように感じられた。
■結局、足立映画を全部見たのだが、全作品を通じて足立のモチーフが、①「ここではないどこか」がありえないという不全感に満ちた世界を、②性と暴力で切り裂こうとするが、③結局は「ここ」に戻ってしまう、という循環形式にあることが分かり、私はハマった。
■たとえば『銀河系』では「ここではないどこか」を「白いドレスの女」が象徴し、「結局はどこへも行けないこと」を「ビッコの影」が象徴する。私は「どこかに旅立つ」ためにこの影を殺そうとするが、そのたびに「黒い山伏」が出現して「ここ」に引き戻される。
■同じく『ゆけゆけ』に描かれた、周囲に開かれていて街中を見渡すことができる屋上は、しかし出入口の鍵を閉めれば完全な密室となる。この「開かれた密室」こそ「どこへも行けそうで、どこへも行けない」現実のメタファーなのだ、と69年に松田政男が論じている。
■その松田政男も制作に加わった『略称・連続射殺魔』は、「どこかに出かけよう」と思って上京した青森県の男が、結局「どこへも出かけられず」に銃弾を発射するが、その結果投獄されて文字通り「どこへも行けなくなる」という現実の逆説を、モチーフとしていた。
■こうして「ここではないどこか」が結局「ここ」に回帰するという循環図式を否定的に描くことを基本モチーフとしつつ、しかし足立映画は「ここ」から「ここではないどこか」に通じそうに見える「規定不能な場所」を、暗闇に光る鬼火のように、肯定的に描き出す。
■『銀河系』で言えば、主人公が惹かれる、「黒い山伏」が次々召還する「片輪的なオブジェ」であり、『ゆけゆけ』なら、主人公が惹かれる、ヒッピーたちに輪姦される少女である。規定不能な「弱い場所」に惹かれるのは、主人公であり、足立であり、この私だ。
■この反転を、拙著『世紀末の作法』で私はこう記した。『連続射殺魔』の永山則夫が、「どこへも行けそう」なのに「どこへも行けない」“解放的密室”に苛立ったとするなら、私は「どこへも行けない」のに「どこへも行けそう」な“密室的解放”に癒されたのだと。
■足立映画の魅力は、一口でいうなら、肯定性が否定性に反転し、否定性が肯定性に反転するという規定不能性にある。規定不能な「弱い場所」を、イメージの奔流と共に描き出す足立映画それ自体が、まさに規定不能なものであり、その点で、足立映画は超越論的だ。
■足立監督による商業映画第二弾『避妊革命』は、第一弾『堕胎』と並ぶ「マッドサイエンティストもの」だが、この映画でも今述べたモチーフは厳密に反復される。「ここ」は不真実に満ちたダルな市民的日常。「ここではないどこか」は科学的真実に満ちた世界。
■同時代の西独ポルノ『㊙レポート』シリーズもそうだが、当時は性の領域にこそ、汚れた「日常の不真実」から輝かしい「非日常の真実」へと通じる「恩寵の扉」が隱されていると考えられ、当時の性的描写は「学術的探求=真実への解放」なる言い訳を与えられた。
■故に「性に真実と不真実が交差する」という図式は凡庸だ。だが足立の真骨頂は、そこに、前述した足立的な循環図式を重ねる点だ。主人公・丸木戸定男は不真実がもたらす悪弊に憤り、真実の人工胎盤(堕胎)、真実の避妊具マルキード(避妊革命)を、啓蒙する。
■丸木戸定男は果たして、不真実な「ここ」を脱し、真実に満ちた「ここではないどこか」に到達したか? 『堕胎』では、啓蒙活動が、獄中生活という否定性(笑)もたらす。『避妊革命』では、啓蒙行脚が、人妻との駆け落ちという肯定性(笑)を与えてくれる。
■「(笑)」と記したのは、それぞれの帰結が「喜劇的な悲劇」「悲劇的な喜劇」として描かれ、笑わずには悲しめず、悲しまずには笑えないからである。実際、今回の上映会でも笑いの渦が起こった。さて、丸木戸定男を笑うことで、私たちは「誰を」笑ったのか。
■不真実な「ここ」から、真実な「ここではないどこか」へと、性を通じて突き抜けようとするマッド科学者・丸木戸定男は、むろん「革命家」のメタファーだ。五年後にパレスチナ解放戦線に身を投じる「未来の足立正生」のメタファーなのだ。これは何を示すのか。
■「革命家を笑う」というモチーフは、足立監督『性遊戯』や、この作品の影響下に脚本が描かれた若松監督『現代性犯罪絶叫篇・理由なき暴行』にも反復された。足立は60年代に既に、革命家が、革命家(笑)でしかありえない「日本的現実」を明晰に認識していた。
■足立は、革命家が革命家(笑)でしかあり得ない、すなわち「ここではないどこか」が「ここ」でしかあり得ない、という「悪い場所=ここ」を嫌い、パレスチナなる「ここではないどこか」に出かけた。だが「そこ」は果たして「良い場所=どこか」たり得たのか?
■この問いは結局、丸木戸「避妊革命」は果たして革命たり得たのかという問いに対する、『避妊革命』自体での、諧謔的笑いに満ちた「肯定と否定の両義的回答」に帰着する。足立の恐ろしさは、映画の説話論的な循環に、自らの人生をも組み込んでしまった点なのだ。
投稿者:miyadai
投稿日時:2010-07-01 - 06:12:35
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7月15日、東浩紀さんとの共著『父として考える』発売開始します!

アマゾンでの予約が始まっております。

父として考える (生活人新書) (新書)
4140883243


以下に僕が書いたあとがきをアップロードします。
書籍のものとは一部異なるところがあります。




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あとがき
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【成育環境の変化に対する敏感さ】
■NHK出版の大場旦氏から東浩紀氏との「父親同士の対談」の企画をいただいたとき、願ってもないことだと感じた。僕には三歳と零歳の二人の娘がいる。父親になって、以前にも増して「社会について言いたいこと」が出てきて、それを吐き出したかったからだ。
■僕は父がビール会社勤務で、当時のビール会社は転勤が多かったので、小学校を6つも通っている。東北大学附属小(仙台市、現在の宮城教育大附属)・鶴瀬西小(入間市)、松尾小(京都市)、山階小(京都市)、安朱小(京都市)、三鷹第六小(三鷹市)だ。
■それぞれ学校環境も生活環境も全く違ったので、自分で言うのも何だが、普通の大人よりも成育環境の差異には遙かに敏感だと思う。例えば教育方針を真に受ける大人が多いとすれば、僕は「教育方針・学校環境・生活環境」ワンセットで考える習慣が出来ている。
■加えて僕は、戦前から現在に至る日本のボップカルチャー史を研究分野の一つにしているのもあって、生活環境として家庭環境や地域環境に加えてメディア環境を数えるから、コンテンツや享受形式の変遷と、今述べたワンセットの変遷との関係にも、敏感である。
■一言でいえば、僕は日本の幼児教育や義務教育における(学校・家庭の)教育方針を抜本的に変えるべきだと思っていて、それが有効であるためには、学校環境や生活環境(家庭環境・地域環境・メディア環境)の全体的な改革が、不可欠であると思っているのだ。
■本文でも話題になる通り、東浩紀氏も僕も、研究分野は多岐に渡る。僕の研究分野の力点は、システム論→権力論→ポップカルチャー史→性愛論→宗教論→少年犯罪論→教育論→国家論→外交論→政治哲学という具合に、シフトしたというより積み重なって行った。
■実際、ここに上げた分野それぞれについて著作があるし、ツイッター上での僕の活動もそれぞれの分野についてなされている(一部はミヤダイ・ドットコムに纏められている。http://www.miyadai.com/)が、こうした活動は幼少期の成育環境抜きで考えられない。
■僕の娘たちは幼いが、僕はこのあきがき執筆時に既に51歳だから、幼保小段階の子供を持つ親たちの平均よりは、10歳~15歳は年上である。本書を読むこうした親たちの多くは、たぶん僕の成育環境を知らない。それどころか恐らく想像することもできない。
■子供から見た場合、成育環境がどれほど激変したのか。このことについて、まともに議論ができるのは、僕よりも上の世代とだけである。僕の同世代とさえ議論することが難しい。今と圧倒的に異なる成育環境を実際に体験していなければ、議論ができないからだ。

【1980年代から始まる法化社会の意味】
■まず身近な所から入ろう。妻と子供たちが毎日曜欠かさず通い、僕もときどき通う教会の御聖堂は少し前まで24時間鍵がかかっていなかった。『レ・ミゼラブル』を思い出していただきたいが、教会は夜でも鍵が掛かっていないからこそアジールであり続けてきた。
■ところが最近は夜に鍵が掛かるようになった。先日、神父様を僕らの家にお招きして食事をした際、神父様がこう仰言った。教会の本分ゆえに警察からの度重なる要求を拒絶してきたが、幾度か見過ごせない事件があり、要求に応じるしかなくなったのだ、と。
■神父様が続けた。欧米の多くの大学に塀がなく、道路にもガードレールがない。それで失われる人命があっても、人は敢えて設置者の責任を問わない。人と社会の関わりの意味が変わってしまうからだ。かつての日本社会もそのようにして回っていたはずだ、と。
■神父様はかつて千葉県の教会に幼稚園を併設した。何かというと設置者責任を問う住民(を背景にした行政)の声に抗って遊具の設置を含め昔ながらの幼稚園の姿を守ろうとした。だが教会は教区の下にある。一教会の意向だけでは抗いきれなかったと述懐された。
■僕は小2の4月から小6の9月まで、つまり小学校時代の大半を京都で過ごした。京都市内で松尾→山階→安朱と3つの小学校に行ったわけだ。京都での小学校時代はまさに昔ながらだった。疎水には暗渠も柵もなく、よく子供が落ちて溺れ死んだ。
■工事現場にも柵がないのが当たり前で、築山に穴を掘って秘密基地を作る子供が多く、時々崩れて子供が死んだ。どの児童公園にも例外なく箱ブランコがあって、底板と地面の間に足を挟んで骨折したり、箱に頭をぶつけて一生傷を作る子供が、絶えなかった。
■でも、暗渠化しろとか、柵を作れとか、遊具を撤去しろという話は、聞いたこともない。そういう災難があったとき、親や先生を含めた大人たちはどう言っていたのかというと、「だから、危ないって言ってたでしょ、何ぼやぼやしてるの」と子供を叱ったのだ。
■これがいつから変わったか。1977年あたりから変わった。この年、近所の家に子供をあずけたら、建設現場の池で溺れ死んだというので、近所の家と自治体と業者を訴えた「隣人訴訟」が起こった。訴訟は世論を分けたが、83年の地裁判決で原告はほぼ敗訴した。
■自治体にも業者にも責任はない。ちょっと子供を頼むというのも監護義務を負う契約ではない。被告側には一般的な注意義務を果たさなかった瑕疵はあるものの、原告側の過失よりもずっと小さい(原告:被告=7:3)とした。世論も原告批判が多数派だった。
■この事件は僕が大学生になった頃のことで覚えているし、僕の本でも幾度か取り上げた。原告家族は、非難や抗議の手紙や電話が殺到し、控訴審での訴えの取り下げに追い込まれたが、被告家族も、同様の理由で控訴審での訴えを取り下げた。これが転機だった。
■この訴訟を境に、我が国は法化社会に舵を切った。それまで社会が解決していた問題に、国家権力の呼出線が使われるようになった。だから危ないって言ってただろうと子供を叱るかわりに、住民が何かというと設置者責任を問うようになった。それから三十年。

【共同体と市場、共同体と国家の、両立可能性】
■1980年代、北イタリアから始まったスローフード運動、カナダから始まり大英帝国圏に拡がったメディアリテラシー運動、全米に拡がったアンチ巨大スーパー運動など、先進各国で同時多発的に、共同体と市場、共同体と国家の、両立可能性を問う運動が展開した。
■同じ1980年代、皮肉にも日本では、何かというと国家権力の呼出線を使う傾向に代表される、共同体を国家に譲り渡す「法化社会」が展開し、あるいは、米国の要求を背景にした大店法規制緩和に代表される、共同体を市場に譲り渡す「市場化社会」が展開した。
■共同体と市場、共同体と国家の、両立可能性を問う運動とは「雨漏り・バケツ」問題の比喩で語れる。村中の家が雨漏りしまくっていれば、バケツの需要が高まり、バケツを提供する市場や国家がほめられる。そのようにほめるのが日本の国民生活選好度調査である。
■歴代内閣毎に実施される幸福度調査も国民選好度調査の亜流に過ぎない。市場や国家がバケツを提供できていることに胸を張って現行政権を正当化するだけ。だがおかしくないか。緊急避難は別にして、本来なら雨漏りしないよう屋根を葺き直すべきではないか。。
■スローフード運動・メディアリテラシー運動・アンチ巨大マーケット運動などの共通項は、市場や国家が提供するバケツに依存して自らの手で屋根を葺き直す本義を忘れてしまうことに対する--市場や国家への共同体の過剰な依存性に対する--気づきと戒めにある。
■「手つかずの自然」が敢えて手をつけないという「不作為の作為」であること(に気づくこと)に象徴されるようち、選択の前提もまた選択されたものに過ぎないという「再帰性」(への気づき)が拡がる後期近代。不作為は、共同体を依存させ、空洞化させる。
■僕は、これを「〈システム〉の全域化による〈生活世界〉の空洞化」と呼ぶ。〈システム〉とは匿名性が支配する計算可能性の領域であり、これが拡がる動きを「近代化」と呼ぶ。当初は〈生活世界〉の「我々」が、便利だからと〈システム〉の利用を拡げる。
■流れに任せれば、やがて〈システム〉が全域化し、〈生活世界〉という表象も「我々」という表象も、〈システム〉の生産物に過ぎないという気づきが社会を覆う。この状態が後期近代で、それに抗して〈生活世界〉保全を企図するのが、先に述べた一連の運動だ。
■だがこの〈生活世界〉は「手つかずの自然」が敢えて手をつけない作為的選択の産物なのと同じく、まさに作為的選択の産物に過ぎぬ。だから生活世界とは記さず〈生活世界〉と記す。つまり一連の運動は、オルタナティブな〈システム〉を選ぶ営みに当たるのだ。
■同じく学問領域でも、ハーバマスの「生活世界の植民地化」、ベックの「予測不能・計測不能・収拾不能なリスクを伴う高度技術に共同体が隅々まで覆われたリスク社会」、ギデンズの「主体の像をシステムが供給する再帰的近代」等の概念が、人口に膾炙した。

【日本社会が負う巨大なハンディキャップ】
■ただし日本に限っては先進国の多くを襲った「共同体と、市場・国家の両立可能性」を問う運動は皆無で、それゆえに学問領域でも今紹介した諸概念の含意が人文・社会系の学者らに十分に理解されなかった。仮に彼らが理解していれば運動を唱導したはずである。
■ここに90年代後半以降の橋本行革や小泉構造改革に見られる決定的勘違いの種が蒔かれた。破綻を見越して財政規模を縮小すべく行革や構造改革を行う。一見良さげだが、市場や国家が提供するバケツに依存してきた人々は、屋根の葺き直し方法をとっくに忘れた。
■日本は他の先進国と違って〈生活世界〉を保全するオルタナティブな〈システム〉を目指す運動はなかった。「共同体の共和」によって成り立つ「社会の分厚さ」を保つ運動はなかった。何かというと参加が奨励されるのに、いつも個人の尻ばかりが叩かれてきた。
■典型的が小泉構造改革だった。小泉構造改革とは、従来の基幹産業例えば自動車産業を、新興国例えば中国のそれと戦えるように、身軽にすることを意味する。それで自動車産業が勝ち残れば企業の収益率は上がるが、それは労働分配率の切り下げを対価とする。
■これでは「経済回って社会回らず」のテイをなす。その証拠に平成不況が深刻化した98年決算期以降、年間自殺者数は2万4千人台から3万2千人前後に跳ね上がったままだ。「経済回って社会回らず」は、個人にとっては「金の切れ目が縁の切れ目」だからである。
■こういうことだ。日本はある時期から――法化社会が目立つようになった1980年前半から――社会に大穴があいた。だがうまく回る経済が社会の大穴を埋め合わせてきた。だからこそ平成不況深刻化で経済が回らなくなると、社会の大穴が露呈するようになった…。
■政治的には失敗が2点ある。第一に、本来必要なのは、どのみち中国のような新興国に追いつかれる産業から、遠い将来に渡って新興国が追いつけないか追いつく動機を持たない産業に、比較優位の分野をシフトする産業構造改革なのに、それができなかったこと。
■第二に、そうしたシフトを経てさえ新興国の発展ゆえに外貨獲得は容易でなくなるのはどの先進国でも同じで、だから「大きな政府」でなく「小さな政府と、大きな社会」でやるしかないのだが、「大きな社会」(相互扶助的に包摂する社会)の樹立に程遠いこと。
■第一点と第二点は結びつく。平成不況深刻化以降、地方はますます中央に依存、経済はますます大企業に依存、景気はますます外需に依存するようになった。外需依存的な中央の大企業にぶら下がるしかないので、既得権益を移動する産業構造改革ができないのだ。
■教育の問題はこうした「共同体の消失」「〈生活世界〉の空洞化」「経済回って社会回らず」をどう克服して、(1)相互扶助的に個人を包摂する、(2)自己決定的な共同体たちの、(3)共和から成り立つ社会を樹立できるのかということに関わる。社会設計の問題なのだ。
■教育の問題は、自分の子供の幸せの問題を遙かに超える。学校教育に限らず、周囲の親たちの教育談義、公園や祭りなどでの親たちの振る舞い、幼児向け通信教材、子育て雑誌や子育て本などが嫌でも目に入るが、「社会のための子育て」という視座が欠けている。

【教育を通じた社会設計、社会設計を通じた教育】
■あとがき冒頭でも述べたように成育環境が過去40年間で全く変わってしまったことが、「社会のための子育て」という観点から見て何を意味し、親や教員は、激変した成育環境について子供に対してどんな構えを持てばいいか。東氏とそれを問題にしたかった。
■40年前、僕が十歳だった頃の成育環境がどんなだったのかを、動物や虫というモチーフで思いつくままに語ろう。松尾大社の近くの小川で弟と手づかみでのザリガニ取りを競い、数時間で、僕が30匹だったのに、弟が40匹以上。負けて悔しかったことを思い出す。
■だがその直後、僕の弟はマムシに噛まれた。家の近くだったので、口で吸い出した後、すぐ母を呼んで歩いて町医者へ。毎年クラスで一人は噛まれていたし、僕らが遊んでいた小川では日常茶飯だった。でも小川に入っちゃいけないという大人は一人もいなかった。
■嵐山では、家が山麓にあったので、押し入れの中にシマヘビがとぐろを巻いていたことがあった。近所にはよくある話で、父が「蛇は山の神様だから縁起がいいぞ」といいながら、棒で手際よく頭を押さえて、手づかみにして、家の外に放り出した。父を尊敬した。
■松尾大社の池で、アオダイショウが、逃げるカエルを猛スピードで追いかけて、食らいつく姿を何度か目撃した。蛇の動作が目にもとまらないほど素早いのに度肝を抜かれた。頭を地上30センチほどに保ちつつ、高速で水平移動する。怪獣映画よりもすごかった。
■山科では、僕が世話になっていたヤクザの子が、虫かごにマムシを入れて教室に持ち込んだことがある。みんなでバッタをとってきて、箸でつまんで虫かごに入れ、丸呑みするのを見物した。女の子たちも遠巻きして見ていた。エキサイティングだった。恐かった。
■だからこそ、ヤクザの子=ガキ大将が、お前らにはできねえだろうという感じで、意気揚々とマムシ入りの虫かごを教室に持ち込んだ。先生を呼びに行く子はいなかった。学級委員だった僕は、「じきにセンコーがくるで、窓の外に虫かごを出さんかい」と促した。
■このヤクザの子たちは僕の言うことをきいた。みそっかすの弟を含めて彼らは転校生の僕と遊んでくれたので、母が彼らをよく晩餐に招いて高価なオモチャで遊ばせた。かわりに担任の覚え目出度い僕は、ことあるごとに彼らをうまく弁護した。そんな関係だった。
■美しい体験もあった。松尾大社の還幸祭ではゲンジボタルが大量に飛び交った。夜灯に照らされた屋台で串焼きや林檎飴の買い食いしながら、ふと見上げると、銀河のど真ん中に放り出されたかのように無数の光が乱舞していた。家の中までホタルが入ってきた。
■学校の帰り道に林で見つけたサナギを持ち帰り、糊で茶箪笥に貼り付けておいた。羽化するまでは何の蝶なのか分からなかった。ある朝目覚めたら、黒光りする大きなカラスアゲハが、優雅に部屋の中を舞っていた。両親を大声で呼んで、皆でしばし見とれた。
■父親の大きな声で未明にめざめると庭木に羽化の最中のセミがいた。緑がかった白色の体を幼虫の殻から半分だけ出した状態で、そこから一時間以上かかって体の全体が出てきた。やがて夜が明けて日がさし、だんだんと焦げ茶に変わっていく。それは油蝉だった。
■山科の疎水北側にある自殺名所だった安祥寺池に、鉄条網でロックアウトされているにもかかわらず侵入し、びんどうという仕掛けを使ってメダカやフナなど無数の魚をとった。暗くなるまで魚とりをし、「自殺した女の幽霊が出よるでー」と脅し合ったものだ。
■僕に若干のタフネスがあるとすれば、こうしたノイズに満ちた成育環境抜きには考えられない。動物や虫だけではない。小学校や地域でも、農家の子、地元商店の子、医者の子、地主の子、名物蕎麦屋の子、ヤクザの子、社宅の子が、混ざり合って遊んでいた。
■アンダーグラウンドを含めて誰とでも知り合いになれる僕の性格は、家庭環境も家族文化も全く異なる雑多な子供たちと一緒に遊んだ成育環境抜きには、あり得ない。そして、僕のそうした性格抜きに、全国規模でのテレクラフィールドワークなどあり得なかった。
■こうした生活環境や学校環境を背景にした人格形成の問題を横において、受験への取り組みを中心とした教育方針ばかり注目したり、「いい学校・いい会社・いい人生」を信じていたりする大人は、問題があるというよりも、僕には単なる馬鹿であるように見える。
■こういう馬鹿な大人たちによって教育がなされた場合、(1)相互扶助的に個人を包摂する、(2)自己決定的な共同体たちの、(3)共和から成り立つ社会は、樹立できるのか。つまりそうした社会を構成する人材を生み出せるのか。残念だが絶望的だという他ないだろう。
■僕は、こうした「(子供たちへの)教育を通じた社会設計」に必要な大人たちの人材を生み出すべく、「社会設計を通じた(大人たちへの)教育」を使って親業教育をなすべきだと考えている。成育環境を立て直さずに、教員や親が頑張っても、多くは徒労である。

【かなり頑張ったが、道半ばというところ】
■本文でも中心的に触れられるが、(1)相互扶助的に個人を包摂する、(2)自己決定的な共同体たちの、(3)共和から成り立つ社会にとって、グループワーク能力の養成が必須なのに、日本は時代遅れの能力別編成に堕した結果、国際学力比較調査で低順位化しつつある。
■こうした時代錯誤もまた、法化社会と同じく、80年代後半から社会を広く覆った。その結果、高偏差値大学には、どんなに成績が良くても企業が絶対に採用しないような、グループワーク能力に欠けた学生が溢れるようになった。彼らは今後どうするのだろう。
■僕が、今の日本は根本的にダメだと思った一つの契機は、新自由主義に対する理解の誤りだった。新自由主義は、剥き出しの個人が市場で競争することを奨励していない。単なる家族親族ユニットの大きさを背景にした、共同体と市場の境界設定の問題に過ぎない。
■アングロサクソンは伝統的に直系家族的で家族親族ユニットが小さい。ゲルマンやとりわけラテンは拡大家族的で家族親族ユニットが大きい。両者を比べると、ラテンが家族親族ユニット内の相互扶助で調達するものを、アングロサクソンは市場で調達している。
■だから、アングロサクソンは市場原理主義であるように見えやすい。だが、単に家族親族ユニットが小さいだけだ。市場のプレイヤーは、剥き出しの個人としてでなく、あくまで家族親族ユニットを背負った存在として現れる。あるいは家族という帰還場所を持つ。
■だからこそ、わざとらしいとも思えるほどの、家族共同体への関わりがある。ところが日本人は、このアングロサクソンの営みを、個人が剥き出しで競争する市場原理主義であるかの如く勘違いした。アングロサクソンでさえそのような文化とはかけ離れている。
■個人の自己決定か、国家による福祉か、という問題設定は、80年代以降は日本以外には存在しない。新自由主義も、スローフード運動やメディアリテラシー運動も、自己決定的な共同体を、競争的市場や、国家による福祉と、どう両立させるかという問題設定だ。
■見掛けがどうあろうと、結局は自己決定的な共同体(の共和によって成り立つ社会)のサイズや紐帯原理が、社会ごとに異なるだけだ。先に「共同体と市場の境界設定の問題に過ぎない」と述べた所以だ。何度も言うが、剥き出しの個人という概念には意味がない。
■だが、先に「生活世界でなく〈生活世界〉」と記したように、これは伝統に従えとか、長いものに巻かれろという話では全くない。汎〈システム〉化した後期近代の社会では、〈生活世界〉も、〈システム〉の構成要素として言挙げされ、選ばれたものに過ぎない。
■従って、共同体や〈生活世界〉に対して、多かれ少なかれ共同体的な事実性に埋め込まれた部分を持つ諸個人が、完全に自由な関わりが論理的に無理であるにせよ、いかにしてそれなりに再帰的(自覚的)に関わるかが、永久に問題として問われ続けるのである。
■僕は、共同体や〈生活世界〉の再帰的構築というこの問題について、東浩紀氏ほど自覚的な存在はいないと思う。「僕と同じように」、子供を持って子供が将来幸せに暮らせる社会を構想するというところから、そうした自覚を先鋭化したのではないかと思う。
■ゼロ年代にオタクを擁護した東氏と、90年代に援交少女を擁護した宮台が、2010年代に「父として」語るということは、かつて自分たちが擁護した社会「のままで」子供が幸せな大人になれるのかという問いに向き合うことだ。僕らはかなり頑張ったが、道半ばだ。
投稿者:miyadai
投稿日時:2010-07-01 - 05:26:48
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出演予定イベントのお知らせ★本日★



★政治報道から卒業し、政治の中身を考える



日本の首相官邸は世界に例のない場所だ。記者やカメラマンが常に入り口ホール
にたむろし、通路にしゃがみこんでパソコンをのぞいている。彼らの関心の多く
は誰が来たか、誰に会うかに向き、テレビ報道なども、政治家の発言の断片、不
祥事、政局を追う。

そんな中で内閣の支持率も乱高下する、という状況が10年来続いています。日
本の政治状況はもはや、政治家を向こうにおいて批評している余裕すらないと思い
ます。参議院選挙を目前に政治報道、政治と新しいメディアの可能性などについ
て大いに議論して頂きます。



○日 時: 平成22年6月30日(水) 18:30~20:30

○会 場: 日本財団ビル2階 大会議室             
港区赤坂1-2-2 TEL 03-6229-5111(代)        
http://www.nippon-foundation.or.jp/org/profile/address.html
    ※会場のセキュリティの都合上、本案内状を会場1階で提示してください。

○開 演: 18時30分(開場:18時)

○討論者  : 逢坂 巌(立教大学助教) 
杉本 誠司(株式会社ニワンゴ代表取締役社長・「ニコニコ動画」運営)
中川 具隆(TVバンク株式会社代表取締役社長)
○電話出演  :宮台 真司(首都大学東京教授)
○討論者兼コーディネーター:上杉 隆(フリージャーナリスト)
他調整中

○主 催: 構想日本

○定 員: 160名

○フォーラム参加費: 2,000円(シンクネット・構想日本会員は無料です)

○懇親会参加費: 4,000円  
(ご希望の方は下記懇親会参加に○印をつけてください)  
※ゲストを囲んで、下記の会場で懇親会を開催いたします。      
「トラットリア・イ・プリミ 虎ノ門店」 
           港区虎ノ門2-2-1 JTビル1F TEL 03-3589-5812
           (http://www.ep-tokyo.com/iprimi/toranomon/)
投稿者:miyadai
投稿日時:2010-06-30 - 14:36:37
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