http://www.videonews.com
■マル激トーク・オン・ディマンド 第388回(2008年09月06日)
タイトル:政治の機能不全を脱するために
ゲスト:飯尾潤氏(政策研究大学院大学教授)
<プレビュー>
http://www.videonews.com/asx/marugeki_backnumber_pre/marugeki_388_pre.asx
9月1日、福田首相が突然辞任した。これで日本の総理大臣が2代続けて、任期の途
中で政権を放り出したことになる。国会の衆参両院の勢力がねじれ状態にあるなど、
国会運営が難しいなどの事情もあろうが、それにしても日本の政治がもはや完全に機
能不全に陥っていることは、誰の目にも明らかだ。
辞任会見の中で福田首相は、ねじれ国会によって次期国会でも重要法案成立のメド
が立たないことを、辞任の理由に挙げている。しかし、政策研究大学院大学教授の飯
尾潤氏は、そもそも衆院と参院の多数派が違うことで議会運営に困難をきたしてしま
うこと自体が、日本の議院内閣制が機能していないことを示していると語る。
議院内閣制を採用している諸外国では、二院の意見が異なることは決して珍しくな
い。独立して投票される二院制を採用していれば、むしろそれは当然のことで、自民
党の長期支配のもと、与党が両院を支配していることを前提に、政権が容易に運営で
きたこれまでの日本の政治のあり方自体が、世界的に見ればむしろ異常だったという
わけだ。
日本ではよく、国民から直接選ばれる大統領の方が、議院内閣制のもとでの総理大
臣よりも強い権限を持っていると思われがちだが、実際はそれは間違っていると飯尾
氏は言う。議院内閣制では、国会の支配勢力と行政の長たる内閣総理大臣が同じ政党
となるため、三権分立の2つが事実上政権与党によって支配されることになり、首相
には大統領よりも遙かに大きな権力が集中することになる。
しかし、本来は強い権限を持っているはずの首相が、なぜか日本では強力なリー
ダーシップを発揮することが難しくなっている。戦前の制度の名残で、省庁や官僚の
代理人と位置づけられた国務大臣によって内閣が作られる言わば官僚内閣制とでも呼
ばれるべき独特の制度があるため、実質的な政策立案は官僚が行い、閣議も次官会議
で決定された議題を承認するだけで、国会が選んだ内閣には実質的な決定権はほとん
ど何もないのが同然の状態が続いてきた。
一方、議会の側も、自民党政権が長く続いたために、自民党の総裁選が事実上の首
相選挙となり、首相は民意とは無関係に、自民党の党内事情で好き勝手に変えられて
きた。国会で首相を選ぶ首班指名選挙が、単なるセレモニーに過ぎないことは、日本
人であれば誰もが知っている。大臣も当選回数や派閥の推薦などで決められてきたた
めに、国民の任を受けた国会が内閣を選び、首相と大臣が行政を代表するという議院
内閣制の本義が、希薄になっていたと飯尾氏は指摘する。
その一方で、日本の官僚内閣制のもとでは、省庁が企業や業界の要望を吸い上げ政
策に反映させる仕組みが機能していたため、国民の意見は議会を通してではなく、官
僚制度を通じてある程度政策に取り入れられてきた。そのため、与党の族議員は、国
民全体のためというよりも、自分たちが利益を代表する業界や団体の代弁をすればよ
く、それが結果的に議院内閣制の更なる弱体化につながったと飯尾氏は言う。
その意味で、小泉政権は議院内閣制の原理に沿って、官僚の抵抗を排してでも、首
相が選挙で掲げた政策や方針がそのまま政策に反映される、日本の政治史上では、む
しろ異例の政権だったと飯尾氏は指摘する。しかし、小泉政権以降、日本の政治は再
び官僚内閣制に舞い戻っている。
いずれにしても、このまま政治の機能不全が長引けば、日本は山積する国内外の問
題にほとんど対応できない閉塞状態が、今後何年もの間続くことになる。今日本の政
治が、議院内閣制本来の機能を取り戻すために何が必要なのか。福田首相辞任の背景
にある日本の政治プロセスが抱える根本的な問題を、飯尾氏とともに議論をした。
<今週のニュース・コメンタリー>
・福田首相、辞任表明
・共和党副大統領候補にペイリン氏
(ボストン滞在中の神保哲生、電話インタビュー)
・西山太吉氏、国賠裁判の敗訴が確定
<関連番組>
■マル激トーク・オン・ディマンド 第365回(2008年03月29日)
08年大統領選挙でアメリカは何を選択しようとしているのか
ゲスト:会田弘継氏(共同通信編集委員)
■マル激トーク・オン・ディマンド 第361回(2008年03月01日)
5金スペシャル この目を覆うばかりの制度劣化をいかに反転させるか
■マル激トーク・オン・ディマンド 第331回(2007年08月03日)
データから見えてくる「やっぱり自民党は終わっていた」
ゲスト:森 裕城氏(同志社大学法学部准教授)
■マル激トーク・オン・ディマンド 第256回(2006年02月23日)
日米偽装同盟はここから始まった
ゲスト:西山太吉氏(元毎日新聞記者)
■プレスクラブ(2008年02月20日)
西山太吉氏の控訴を棄却。密約の存否は判断せず
────────────────────────
まえがき:原理的に決着不可能な問題に開かれること
────────────────────────
【大分県教員採用汚職事件の顛末】
■2008年9月1日現在、巷では大分県教員採用汚職・校長教頭昇任汚職・教委登用人事汚職が尾を引いている。8月30日には2008年度に不正合格した21人が採用取り消しとなり、県教委行政改革担当プロジェクトチームが、幾つかの改善案を含む調査報告書を公表した。
■報告書は、事件の背景に(1)選考の恣意的運用、(2)色濃い身内意識、(3)教委のチェック機能不全があるとする。(1)は、「地元出身者の確保が必要」などの公共的理由が隠れ蓑になって、選考が身内や仲間からの働きかけに応じやすくなってしまう実態を指している。
■(2)についてはこう記される。《教員は学校中心の社会で生活し、仲間から外れることを特に心配している。教員の社会では移動・昇進に際したお祝い・お礼の慣習が根強く残る。…法令遵守や公務員倫理徹底を呼掛けても、「趣旨が分からない」との意見もでている》。
■(3)については、県教委職員がいずれ学校などに戻る腰掛け仕事であるところから前例踏襲が通常のあり方で、互いの仕事に干渉しない学校の作法が持ち込まれていたため、採用選考を特定職員が担って不正がチェックされない体制になっていたのではないか、と分析する。
■要は、共同体的な低流動性を背景とした「教育の利権化」があり、共同体的な「贈答の慣習」や「ことなかれ主義」があったということだ。これらは私も『学校を救済せよ』(尾木直樹と共著)『学校が自由になる日』(藤井誠二・内藤朝雄と共著)で何度も指摘してきた。
■いわゆる「教員世襲制」に象徴されるこうした傾向は大分県だけのものではないということだ。その意味で「たまたま悪い人がいたから起った」という類いの偶発的な事件ではない。こうした根深さに照らすと、報告書が提案する改善策は単なる弥縫策の域を出るものでない。
■改善策は、(1)については、採用にせよ昇任にせよ、一次選考の客観化と二次選考の「人物重視化」を推し進めるとのことだが、これだけでは「人物重視化」に入り込む恣意を制御できない。「誰が」選考するのかという問題の本質を、わざと回避したとの印象を否めない。
■(2)については、教職員人事評価システムの形式化と、研修の充実化と、(せいぜい学校、教委、県行政の間での)人事交流の促進化と、民間人校長化を推奨している。つまり、管理の合理化を唱うに過ぎない。ここでも「誰が」評価するのかという本質的問題が回避される。
■(3)については、権力分立的な牽制を働かせるべく、選考事務と人事事務を分けるとか、選考・人事・予算・政策立案に関わる「総務管理部門」と、指導・支援に関わる「教育指導部門」を分けるなどが提案されるが、単なる行政官僚制内部の切り分けに過ぎない。ここでも、行政ならざるものによって行政をチェックするという牽制システムの王道が看過される。
■総じて、従来的な権益共同体を温存したまま「我々の内部」でやり方を変える、という域を出ていない。「我々」でない者たちが随時出入りする可能性や「我々」の範囲が予見不可能なほど防縮する可能性に、開かれていない。要は「お手盛り」の余地が塞がれてはいない。
■共同体がいけないのではない。ポストモダン化やグローバル化(ともに本文で詳述)で個人が過剰流動性に晒されがちになる中、流動性の低い相互扶助的な共同体が個人を包摂するのは必要なことだ。但し条件がある。共同体が「再帰的」でなければならないということだ。
【「教育の失敗」は〈教育〉の失敗を意味しない】
■社会学者タルコット・パーソンズの発想に従えば、教育とは「人為的な社会化」である。社会化とは、社会を回すのに必要な行為態度を個人に埋め込むことを言う。誰が埋め込むのか。社会が埋め込む。社会を回すのに必要な条件を、社会が個人に埋め込むのが、社会化だ。
■パーソンズは良き秩序とは何かを考えた。人々が統治権力のゲバルトを恐れて成り立つホッブズ的な秩序。人々に生来埋め込まれた社会性ゆえに成り立つロック的な秩序。どちらが良いか。パーソンズは後者だとした。但し人が生まれつき社会的だと考えるのは非科学的だ。
■それならば、社会性を個人に埋め込めればいい。ちなみに彼がこうした発想を思いついたのは、大恐慌(資本主義の暴走)への反省からだった。パーソンズの同時代人で、プラグマティズムを提唱した教育哲学者ジョン・デューイは、埋め込みの営みが「教育」だと考えた。
■デューイの場合、埋め込む主体は人間だ。これでは素朴すぎる。例えば、人間が社会を作るという発想に近づく。そう考えたパーソンズは、教育しようとする人間たちの存在も含めた社会環境の全体が、個人に社会性を埋め込むのだとした。それが社会化という概念である。
■社会化の概念は教育の概念を相対化する。教育は人のなす埋め込みだ。埋め込もうとしても意図通りに行かない場合がある。それが「教育の失敗」だ。だがそれが「社会化の失敗」を意味する訳ではない。「教育の失敗」によって、逆に「社会化に成功」することさえある。
■私が常々「学校は通過点に過ぎない」と言ってきたのもそれに関係する。学校が秩序立っていることによって意図通り教育できるという「教育の成功」が「社会化の成功」を意味する訳ではない。むしろ学校への抱え込みが、社会的に脆弱な人間を生み出す可能性さえある。
■終わり良ければ全て良し。学校教育の成功不成功は、学校がちゃんとしているかどうかでなく、学校を通過した人間が最終的にどんな能力や行為態度を身に付けたか(に対する評価)で決まる。だから教育の成功不成功は、意図する者の自己理解に縮小されてはならない。
■私は中学高校紛争であれた中学高校に通った。紛争のさなかに理事長が背任横領で逮捕された。生徒によるレポで世界史の教員が内ゲバにあって頭蓋骨陥没の重症を負った。入学してから数ヶ月は理事会によるロックアウトで授業がなかった。授業が始まっても荒れていた。
■直すはじから窓が割られ、ロッカーが壊された。授業中に弁当を食べるどころか教室の後方では花札やブリッジをしていた。信じられないかもしれないが、「授業中の出前」や「鉄げたの着用」や「廊下を走るバイク」が当たり前。教員もしばしば生徒の暴力にあっていた。
■私たちの学年が「荒れた学校」のダメージを最も大きく喰らった。だから親や教員からは「この学年はもうダメだ」と言われていた。だが皮肉なことに私たちの学年は歴代で最も多い百人以上の東大合格者(一学年三百人)を出し、卒業後に「大物」になった者が目立つ。
■私たちの学年には「教育の失敗」による「社会化に成功」が見られた。言いたいのは「教育の失敗」が本当に〈教育〉の失敗を意味しているのかということだ。その意味で、大分県の「教育の失敗」が、社会化の成功という意味での〈教育〉の成功をもたらす可能性がある。
【教育と「全体主義的リベラリズム」の表裏一体性】
■社会化という概念の背後にあるのは「社会を回す」という発想だ。これは「経済を回す」とは違う。社会をグローバル化に対して無防備に開けば、「経済回って社会回らず」の帰結をもたらす。その結果、労働力再生産に失敗し、やがて「経済を回す」のも不可能になる。
■「社会を回す」という発想は、「個人(生徒)を幸せにする」とも違う。ある世代の者たちが目立って資源を浪費して幸せになったとして、ツケを回された子孫はどうなるか。「社会を回す」という発想からは、幸せという観念の中身自体が、検証と改造の対象になるのだ。
■社会化という社会学的発想から教育を見れば、個人の幸せも、個人の成功も、「社会を回す」営みを支える行為態度に向けて社会成員を動員するための、道具──エサ──に過ぎない。逆に言えば、個人の不幸も失敗も、絶対に回避されるべき何事かだとは、見做されない。
■だが、当然の反論を予想していえば、「社会を回す」という概念は過剰に抽象的だ。何を以て「社会が回る」とするかが自明ではない。例えば「終わり良ければ全て良し」だとして、どの時点を以て「終わり」と見做すのか。「良し」とは一体、誰にとっての「良し」なのか。
■こうした問題は、そもそも原理的に決着をつけることができない。しかし、これは社会化という概念の欠点を意味しない。逆である。教育の営みが、そもそも原理的に決着をつけることができない問題へと開かれていることに、自覚的・反省的であるための、橋頭堡になる。
■「社会を回す」という概念の非自明性は、共同体概念の非自明性と表裏一体だ。共同体が何をベースにして正当化されるのかが、自明ではないのだ。そのことに徹底的に自覚的・反省的であるがゆえに、境界線を絶えず見直す態度が、先に述べた共同体の「再帰性」である。
■パーソンズが明確に意識するように、どんなに自己決定を尊重するという旗を掲げようとも、教育からパターナリズム(温情主義)を除去できない。たまたま先に生まれたというだけで先行世代が後続世代に行為態度の埋め込みを図る教育は、パターナリズムそのものだ。
■自己決定の尊重も、非尊重にかえて尊重を選ぶ振る舞いにおいてパターナル。だったらというわけで教育の営みを放棄するのも、作為にかえて不作為を選択するという作為においてパターナル。前提の自明性が失われた後期近代では教育のパターナリズムから逃れられない。
■先ほどの問題に引きつけていえば、「社会を回す」という概念の過剰な抽象性や、共同体概念の非自明性にもかかわらず、常に既に教育はなされてしまう。常に既に「見切り発車」がなされている。「見切り発車」するかしないかを選ぶことができない。それが教育である。
■常に既に「見切り発車」がなされていることに自覚的たれと奨励するのが、ナチスの御用学者だった国法学者カール・シュミットの「決断主義」である。巷で誤解されているのとは違い、「見切り発車」しないことを選ぶことはできない。「非決定もまた決定」なのである。
■だから、教育とは、意図するとしないとにかかわらす、常に既に「全体主義的リベラリズム」と表裏一体だ。「全体主義的リベラリズム」とは、社会的全体性の観点からソレを良しとするリベラルなパターナリズムをいう。「ゆえに」教育は常に既に誤謬に見舞われている。
■同じ意味で、今日の社会では、リバタリアニズム(自由放任主義)もまた「全体主義的リベラリズム」というパターナリズムの一種であることを、論理的に逃れられない。こうした問題構制の全体を見定めた上で、教育に関するあらゆる問題を論じ尽くすことが必要である。
■こうした観点から時事的な問題を縦横無尽にからめて教育を論じた書物は、残念ながら本書以外には存在しない。ゆえに本書は、素朴な正義感や潔癖主義とも無縁だし、当事者主義とも感情主義とも無縁だし、特定のイデオロギーとも無縁な、貴重な書物に仕上がっている。
■本書は、インターネットでニュース解説を動画配信する番組「丸激トーク・オン・デマンド」の、教育に関連する回だけをピックアップした上、テープ起こしを編集したものだ。膨大な編集作業は、ひとえに春秋社の小林公ニ氏の貢献による。深く感謝申し上げる次第だ。
2008年9月1日 宮台真司
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■マル激トーク・オン・ディマンド 第386回 [2008年8月23日]
タイトル:なぜ日本人男子は結婚しなくなったのか
ゲスト:森岡正博氏(大阪府立大学人間社会学部教授)
<プレビュー>
http://www.videonews.com/asx/marugeki_backnumber_pre/marugeki_386_pre.asx
結婚しない日本人男性が増えている。07年の人口動態統計によると、日本人の婚姻
率は長期低落傾向にあり、現在の30代後半男性の4人に1人が、20代後半の男性にいたっ
ては3人に1人が、一生独身となることが予測されている。
なぜ、男たちは結婚しなくなったのか。通説では、不況や非正規雇用など男性の経
済力の低下がその原因として取り上げられてるが、もう一つその背景には、男性の恋
愛や結婚に対する考え方の変化があるのではないかと、性や現代社会について独創的
な考察を行っている大阪府立大学の森岡正博教授は語る。
近著「草食系男子の恋愛学」の中で森岡氏は、肉食動物のように女性を求めて積極
的に動くのではなく、女性とゆっくりと関係を深めていきたい男性を「草食系」と呼
び、そうした男性が日本人の間で増えていると指摘している。この本には、好きな女
性に好かれ関係を深めていくためのノウハウが具体的に書かれているが、その理由を
森岡氏は、若者たちにとって恋愛や結婚のイメージが抽象化してきており、どうした
ら実際に恋愛を成就できるのかがわからない男性が増えているからだと語る。本来恋
愛は、挫折を味わう中で経験的に学ぶべきものだが、現状ではその環境が失われてい
るために、このような本が必要になっていると森岡氏は言うのだ。
一方で、現代の男性の多くが、恋愛ができなければ一人前ではないという言説に振
り回され、彼女ができない、いわゆる「非モテ」問題で、自己嫌悪や劣等感に悩まさ
れている男性も多いと森岡氏は言う。今年5月の秋葉原連続通り魔事件の加藤智大容疑
者も、「顔がすべて」「不細工だから彼女ができない」などのネット掲示板に書き込んで
いた。森岡氏は、加藤容疑者は、見た目や顔の良さが恋愛の全てではないことを学ぶ
機会がなかったため、鬱積した不満があのような形で暴力化したという面もあったの
ではないかと分析する。
1986年の男女雇用機会均等法の施行以降、女性の就労形態の多様化とともに、女性
の生き方や価値観も大きく変化した。そうした社会の変化や女性の意識の変化に合わ
せて、結婚のあり方も、従来の法律婚だけでなく、同棲や事実婚など多様なモデルが
提示されて然るべきだった。ところが、上の世代によってそれが必ずしも実行されて
こなかったために、現代の若者にとって結婚という選択肢が、非常に窮屈なものにな
っているという面があることは否めない。従来の男性主導のマッチョな恋愛・結婚モ
デルにリアリティを感じられない男性が確実に増えているのに、他の選択肢が見えな
いことに、婚姻率の低下の原因があるのではないかというのが、森岡氏の見立てだ。
今週は少々趣を変えて、恋愛と結婚をテーマに森岡氏と議論してみた。
<関連番組>
■マル激トーク・オン・ディマンド 第362回 [2008年3月8日]
タイトル:格差が少子化を加速させる
ゲスト:山田昌弘氏(東京学芸大学教育学部教授)
■マル激トーク・オン・ディマンド 第312回 [2007年3月26日]
タイトル:日本が「子供を作りたくない国」であるこれだけの理由
ゲスト:渥美由喜氏(富士通総研主任研究員)
NGO「環境・持続社会」研究センター(JACSES)事務局長の足立治郎氏とお話ししました。
日本では珍しい環境税に対する著書『環境税―税財政改革と持続可能な福祉社会』(築地書館、2004年)の著者です。
宮台発言のみ一部抜粋しますので、全体は『サイゾー』来月発売号をご覧下さい。
────────────────────────
宮台◇ 民主党の肩を持つわけではないのですが、福山哲郎議員をはじめ僕らとコンタクトをとっている環境に詳しい議員さんたちには、足立さんがおっしゃることを伝えています。ただ議員さんは当選してナンボ。分かりやすいことを言わないと議員の椅子を失うというクリティカルな問題があるので、仕方なしにガソリン減税に流れている面があります。
もう一つ、税収中立の理念は完全に正しいのですが、差し引きゼロにするための税体系全体の抜本的見直しが不可欠だから、霞ヶ関官僚が嫌がります。これに抗って環境税や炭素税を導入するには政治つまり議員さんの力が必要です。議員さんの力の源泉は国民世論の支持です。ところが国民は、税制の合理性ではなく、高いか安いかだけを見てきました。
背景には「市民が政治を操縦する」「国民が国家を操縦する」という意識が乏しいことがあります。相変わらず「お上に年貢を召し上げられる」が如し。タックスペイヤーとして税金の使い道を合理的に操縦する気構えがありません。だから環境に詳しい議員さんが正しく行動すると、落選の危険に直面します。その意味で、まず民意を興さねばなりません。日本国民の従来的作法の延長線上に足立プランが実る可能性は乏しいように思います。
宮台◇ ブレア政権のブレインで「第三の道」の提唱で有名なイギリスの社会学者アンソニー・ギデンズが提唱する「社会投資国家」の概念があります。グローバル化で経済的流動性が上がった状況では、放っておくと社会の包摂性が失われます。それを回避するべく、「社会を国家に依存させる」のでなく「社会を国家から自立させる」ために国家が社会投資をするという考え方です。この考え方からすると、社会の弱い部分を国家が修復すべく国民を誘導することは、税の理念から外れていません。
また古くから、税によって維持される公共サービスには政策の遂行も含まれます。現に、公共事業が大きすぎて自立経済圏が弱り、公共事業依存体質が固定化して「社会が国家に依存する」事態を招いています。これも国家による税金の使い方による社会の政策的な誤誘導の帰結です。「公共サービスを維持するための収税」と「政策的に社会投資をするための収税」は現実的に矛盾しないどころかいつも表裏一体なのです。だからこそ、国民すなわち社会の側が、国家によるそのような社会投資で良いのか、そうした社会の誘導のされ方で良いのかを、絶えずチェックして意見表明する必要があります。
宮台◇ 省庁の既得権益合戦をなくすには省庁の壁を取り払う必要があります。そのためには強力な政治主導が必要で、それには政権交代が必須です。政権交代がないと議院内閣が行政官僚にベッタリ依存しがちで強力な政治主導は不可能だし、政権交代があれば行政官僚も「それほどの民意があるなら仕方ない」となります。要は「行政依存問題」と「正統性問題」の解決に政権交代が必須なんですね。
政権交代は程なく訪れます。理念に基づく省庁再編を掲げて選挙戦を戦うことがナンセンスだった時代も終わります。この希望的観測が実現するには、縦割り行政による既得権益への固執の不合理を、国民に納得させる必要があります。そこで橋頭堡になるのがやはり環境の問題です。
ドイツや北欧はゲルマンなので自然信仰(森への信仰)がアドバンテージになりますが、日本は柳田邦男の時代ならいざ知らず、現在では自然信仰がありません。自然は大切だと言われても「それも大切だが、開発も大切。開発で飯が食えている」となりがちです。そこでどうするかです。
宮台◇ そう。そこで時間軸を持ち出すんです。短期的には飯を食えても、長期的には飯が食えないことを言う。自然信仰が薄くても祖先崇拝は色濃いですからね。そこさえクリアできれば、省庁再編のために環境をテコにできます。[子々孫々まで飯を食う→環境保全の必要→省庁再編の必要」の理路を働かせるには、開発では短期の間しか飯の種が保証されないことを国民に納得させる必要があるんです。そこでは、開発が何をしていることになるのかを伝える、マル激を含めたメディアの営みが重要になります。
10年以上前にアメリカの歴史政治学者のクリストファー・ラッシュが『エリートの反逆』で述べた通り、「その頃自分は死んでいる」というグローバル・エリートが目立ちます。祖先崇拝がいまだに色濃い日本では今のところ「その頃自分は死んでいる」では通らない。社会学や民俗学などの知恵を集めて、日本人がセンシティヴに反応できる領域に訴えていくべきです。「環境か開発か」という昔ながらの図式を突きつけるだけじゃ国民の心に訴えかけられません。
宮台◇ マル激で秋葉原連続殺傷事件の原因を議論しました。『朝生』に出演するプレカリアート世代には「個人が困ってるんだから国家が助けろ」という発想が目立ちますが、間違いです。緊急避難的措置は別として、長期的にはありえない話。先に述べた通り「個人の自立」でなく「社会の自立」が大切です。「社会の自立」とは、個人か経済的に失敗しても路頭に迷わないで済む「社会的包摂」であり、国家に依存しない「自立的相互扶助」です。これを支援するための社会投資をする「社会投資国家」だけが先進国標準です。
ここまでは公式見解で、その先に具体的提案があります。国土交通省には「国土保全」という目標があります。ネットワーク社会ではない日本では社会的紐帯が「場所性」と結びつくので、国土保全は社会保全と結びつきます。環境庁であれば「環境保全」という目標があり、農水省は「第一次産業保全」という目標があります。これらも社会保全につながります。どの省庁にも共通して社会保全――社会の自立――という共通の大目標があることに、多くの国民と政治家と役人に納得してもらうことが、唯一の最初のステップになります。
宮台◇ 戦後日本は、「政府に逆らうやつは反日分子だ」と言う馬鹿政治家や、尻馬に乗って「その通りだ!」と叫んだネット馬鹿右翼が大勢いる国に堕落しました。戦前の右翼ならば馬鹿政治家を取り除いたでしょう。右翼とはパトリに身も心も捧げる者。パトリとは国家ではなく社会のこと。だからアメリカで極右と言えば、国家が社会を屠るならば銃を持って集団的に立ち上がるミリシアです。日本の戦前右翼も、国家が社会を屠るとみればクーデターや暗殺を企てました。国家に尻尾を振る輩は右翼じゃなく、国家の名をかたって国民をないがしろにする輩を取り除いてこそ右翼です。似非右翼も含め、どうも国家保全と社会保全を混同する輩が目立ちます。「国家はあくまで社会保全の道具で、その限りでのみ国家保全に意味がある」とする道具主義的発想が乏しい。足立さんがおっしゃるシンクタンクやNGOの活動は社会の活性化を示す指標の一つです。それが手薄いということは、国民が何かといえば国家を頼る薄っぺらな社会であることを意味します。
宮台◇ 足立さんのプランは訴求力があって分かりやすい。税収中立を重要視していることが印象的で、それを通じて租税の使い方全体を省庁の縦割りを越えて合理化していけることが理解できます。環境だけでなく、行政の非合理を突破する起爆剤にできるということです。環境のような共通テーマなしに「省庁の縦割り行政をなくそう」という掛け声だけは何も動きません。社会保全としての環境問題を突破口に現行の行政官僚制を組み替えられれば、環境政策についての外交上のポジション取りもできて国益に資する。マル激でも既得権や縦割り行政にまつわる問題をいくつも取り上げてきたけど、どこから手をつければいいのか途方に暮れがちでした。社会保全としての環境問題だけが唯一の突破口ですね。
マル激トーク・オン・ディマンド更新しました。
http://www.videonews.com
■マル激トーク・オン・ディマンド 第382回 [2008年7月25日収録]
タイトル:見えてきた自殺大国日本の実相
ゲスト:清水康之氏(NPO法人ライフリンク代表)
<プレビュー>
http://www.videonews.com/asx/marugeki_backnumber_pre/marugeki_382_pre.asx
日本人の自殺が一向に減らない。先月発表された自殺統計では、07年の自殺者の数
が前年を上回り、過去2番目に多い3万3093人に達していたことが明らかになった。こ
れで、日本の自殺者数は、10年連続で3万人を超えたことになる。06年に自殺対策基
本法が制定され、政府も自殺問題に取り組み始めてはいるが、OECD加盟国中ハンガ
リーについで2位という日本の高い自殺率は、いまだに改善の兆しが見えない。
NPO法人自殺対策支援センターライフリンクはこのほど、自殺者の遺族への聞き
取り調査などをもとに、自殺に関する詳細なデータを分析した「自殺実態白書2008」
を取りまとめて発表した。自殺者の実態調査は日本ではこれが初めてのものとなる。
ライフリンク代表の清水氏は、基本法の成立で、自殺を社会問題と受け止め、対策
を行っていく足がかりはできあがったが、自殺者の実態調査がこれまでほとんど行わ
れていなかったために、具体的にどのような対策をとればいいかがわからなかったと
言う。しかし、このほど白書を作成するために自殺者の遺族に詳細な聞き取り調査を
行ったことで、自殺に至る要因などが初めて明らかになった。
それによると、自殺には主に「うつ病」「家族との不和」「失業」「負債」など10
の要因があり、自殺者はその中から複数の要因、平均で4つ以上を抱えていることが
多い。自殺者のうち62%が相談機関に何らかの形で相談をしているが、例えば、精神
科医はうつ病の相談は受けられるが、多重債務を解決することはできないなど、現行
の体制では、一つの相談機関で複数の要因を取り除くことはできない。6割以上が相
談機関に相談をしているにもかかわらず自殺を予防できていない理由は、自殺者が問
題を解決するためには、複数の相談機関に相談を持ち込む必要があり、自殺寸前まで
追い込まれている人には、それだけの余裕がなかった可能性があると清水氏は分析す
る。理想的には相談機関の一元化が望まれるが、現在の体制下でも、各相談機関が連
携を図れば、自殺は確実に減るだろうと清水氏は予測する。
また、日本の自殺の特徴は、失業率や倒産率など経済的要因との相関関係が顕著だ
が、白書ではその背景に金融機関破綻による金融不安や貸し渋りや貸しはがし、また、
急激に進んだ構造改革などの影響があることも明らかになった。つまり、政策次第で
自殺はまだ減らせるはずと清水氏は語る。
白書により、死にたいのではなく、生きるために手を尽くしたが、最後に自殺しか
ないところまでに追い詰められる自殺者の実態が明らかになれば、自殺に対する偏見
も変わるのではないかと、清水氏は期待を寄せる。
今週は、清水氏とともに、白書の作成を通じて見えてきた日本の自殺者の実態とそ
の原因となっている社会的な背景や、予防策を議論した。
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